コーヒータイム

 人の消えた四十一分署は静かで、ハリーの貧乏ゆすり、独り言、カチカチというペンのノック音がよく響いた。キムはその音を無視する方法を四十一分署に異動してきた初日に体得した。五十七分署で部下が同じことをしようものなら間違いなくキムは咳払いをしてじっと視線を向けただろう行為だったが、ハリーのそれが止められるようなものではないことはもう知っていた。キムは黙ってデスクの上の仕事――部下の出勤管理と個人的なたわごとの申し立て、強盗事件が一件と身元不明の遺体が一件――に向かい合う。隣に座っているジャンも、キム以上にその「環境音」に慣れているに違いなく、むしろハリーが存在しないかのようにデスクで書き物を続けていた。

「Cウィングには三人の警部補がいるだろう? 俺、キム、そしてジャン」

 ハリーが誰に言うでもなく喋り出しても、キムは小さく鼻歌のような音を立てるだけで終わらせた。ジャンは書類から顔を上げないまま問いかける。

「それが?」
「だから仕事を分担すればいい」
「もう既に分担しているものだと思っていたがな」

 ジャンの言う通り、警部補――管理職としての仕事の分担はキムがCウィングに加入してすぐに話し合ったはずだった。本来ならハリーかキムのどちらかが一手に引き受けるべきなのだろうが、片方が記憶喪失、片方が四十一分署に不慣れとあって、衛星警官であるジャンの果たす役割は大きかった。そして実際、キムの管理職としての仕事は五十七分署に勤めていた頃よりずっと少ない。抱える事件の数や部下の癖の強さは四十一分署の悪名に違わないが、事務的な書類の数はぐっと減った。それでもハリーには多すぎるらしい。

「違う。もっと個人の特性を生かすんだよ。キムには人望があって、ジャンは四十一分署に詳しい。管理職の仕事には二人が相応しい」
「それであんたは?」
「俺か? 俺はスーパースター刑事さ。事件担当だ」

 よほど書類仕事が嫌いらしい。いまここで事件の連絡でもあったならハリーは喜んで駆け出すだろうとキムは思う。

「言っておくが、俺が好きで書類仕事をやっていると思ったら大間違いだ」

 集中力が切れたらしいジャンがペンを放る音が隣から聞こえて、キムもようやく顔を上げる。

「ハリー、少し休憩でもしてきたらどうだ?」

 ジャンが疲れた中年の仕草で目頭を揉んでいる。頬杖をつきながらきいきいと事務椅子を揺らすハリーに声をかけると、待ってましたとばかりのウィンクがキムへと飛んできた。アルコールの抜けた顔はむくみが消えて、ウィンクはそれなりに様になって見える。

「そうするよ。コーヒーでも淹れて来よう。キムは砂糖はいくつだ?」
「僕はコーヒーは要らないよ」
「遠慮せずに。あんたにも休憩が必要だ」

 足取り軽くコーヒーコーナーへと向かうハリーに、ジャンが「砂糖ふたつ!」と声をかける。ひらひらとハリーが手を振るのを、キムは仕方なしに見送った。

「要らないって言っているのに」

 呟きにジャンが吐息だけで笑う。

「あいつはあんたが好きなのさ」

 笑ったジャンはくしゃりと顔に皺が寄って、それがどうにも幼く見える。

「僕?」
「ハリーから食べ物を押し付けられたことは?」

 ジャンもすっかり休憩モードらしく、キムもペンを置いて彼に向かい合う。マルティネーズではハリーへの厳しさばかりが目についたが、少なくとも彼はキムへの敬意を忘れたことはなかった。当初はどうなることかと思っていたが、四十一分署で働くにあたって彼の示す礼儀正しさに助けられた部分は大きい。

 それでも彼からハリーの話が出るとは思わなかった。これは職場の雑談の範疇に収まる話題だろうか。キムは内心身構えながら記憶を辿る。

「マルティネーズではサンドイッチとパイを食べた。老人と――レイシストから巻き上げたんだ」
「ほら」

 勝ち誇ったような表情のジャンの幼さは、これが彼本来のものなのかもしれない。普段は忘れているが、彼はキムより一回り年下だ。

「あいつはガキなんだ。好きな人に何だって贈りたがる」
「彼は絆を深めるとか言っていたけれど」
「それがハリーの言い方なんだ。好きな人と同じものを食べるのが嬉しいんだ。深まっているのはあいつの絆だ」

 その砕けた話し方と表情に、今度笑うのはキムの番だった。

「別に、嫌ではなかったけどね」

 嫌ではなかったが、不可解ではあった。ガストンからせしめたサンドイッチをわざわざ分け与えたのも謎だったし、ゲイリーから受け取ったパイを分けようと提案されたときには何かの皮肉かと思ったものだったが。

「ならよかった」

 二人で微かに笑い合って、キムは心の中で独白する。

『僕は、サンドイッチなんかよりもっといいものを分かち合えると思っていた。あるいは、サンドイッチなんかで絆が深まるはずはないと――

 サンドイッチにパイ、コーヒー。そんなものでハリーへの態度を変えるつもりはなかった。サンドイッチがなくたって事件解決への情熱も、記憶喪失への労わりも消えはしない。彼に何かがあったときには身を挺してかばうだろうという自覚だって。

 でも、もしかしたらその身の内から湧き出る思いの矛先は人によって違うのかもしれない。キムが彼のために何だってできると覚悟した瞬間、ハリーはキムにサンドイッチを分け与えなければと確信していたのかもしれなくて――

 これは、キムの知らない世界の話だ。相棒を失くして以来一人で行動してばかりだったキムの、ソゥル人の見た目をしているとして長年疎外されてきたキムの知らない、ごく日常的な、ささやかで純粋な気遣いの世界。

 遠くでハリーが三人分のマグカップを抱えてよたよたと歩いてくるのが見える。隣ではジャンがうんと背伸びをしている。何の波乱もない日常がそこにはある。銃撃戦の記憶は遠く、平穏を揺蕩いながらキムは思う。

 この瞬間さえあれば、僕は彼らに命を懸けられる。警察としての彼らの能力も、振る舞いも何の関係もなく、この一瞬があったがために。