コラージュ

 ドアを開けると酒の臭いが鼻をついた。身じろぎをすると埃の臭いが立ち上って、そのあとで湿った、下水の臭いが漂ってくる。

 カーテンが引かれて薄暗い部屋はしんと静かだ。手探りで照明のスイッチを探すと破れた壁紙が手のひらを掠めた。不機嫌な瞬きとともに蛍光灯が点くと、まずダイニングテーブルの上に林立している酒瓶が目に入る。酒瓶はテーブルの上から椅子を辿り、床にまで転がっている。どれほど飲んで、どれほどこの状況を放置すればこのようになるのか皆目見当がつかない。よく見ると足元ではゴミ袋が山になっており、酒瓶に紛れて服があちこちに脱ぎ捨てられている。吐いたのか泥汚れか、酷く汚れたシャツがゴミ袋の上に放られていた。

 ハリーは知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出した。

 これが自分の部屋ということになっているが、記憶を失っている以上他人の部屋と同じであるし、それを差し置いても寛ぐには向かない場所だ。しかし他に行き場もない。仕方なしに腹を括って、靴でゴミ袋を転がして通路を作りながら部屋へ踏み入った。

 ヘビ革の靴の尖ったつま先で突くと酒瓶の合間にデリの空容器やらちり紙やらのこまごまとした何かが見つかって、それで確かにここに人間が暮らしていたと知れた。生きた人間が自然と吐き出すものが埋もれ、捨て置かれているようだった。

 自らがハリアー・デュボアであることを受け入れたにしても、ハリアー・デュボアとしての実感が生まれたわけではなかった。それなのにハリーの足は何かをなぞる様にして窓際へと向かう。重たいカーテンを引くと窓のサッシの上に灰皿が置かれていて、かつてのハリーは帰宅後ここで一服するのが習慣らしかった。

 それに倣ってがたつく窓を細く開けて、アストラの煙草を銜える。深く息を吸って、窓に向かって煙を吐き出した。外は暗闇に沈んで、ガラスには汚れた部屋が映っている。革命以前からの古い集合住宅の一室だ。キッチンの壁の下手な塗装や、玄関の壁に打たれた釘の位置に以前の入居者たちが多少なりとも生活を良くしようとした痕跡が見えた。

 ハリーの目は自然とこの部屋から何かを読み取っていて、これは逃れようのない習性だった。目覚めたときから得ていたスキルはマルティネーズから戻ってからもハリーと共にあり、そのせいで怪我の療養中は見るものがなくずいぶん退屈した。しばらくは歩くこともできずベッドに横になっていたので、いまは見るものすべてが目新しく観察の対象だった。

 一方で、振り返った寝室に一人用のベッドが目に入ると、それの意味するところを考えてしくしくと胸が痛んだ。すべてに新鮮に驚く自分と、どうしようもない過去から逃げ出したい自分が継ぎ接ぎされて存在しており、ハリーは今でも少しだけ自分を持て余している。

 窓際からベッドへは細い道ができていて、それを辿ってベッドの端へと腰かける。ノートやペンや髭剃りが散らばりインクの染みが付いたベッドは一人分が寝る空間だけがぽっかりと空いている。ハリーはその型に嵌まるように横になって目を閉じた。



 そこは葦の原だった。マルティネーズのあの海の要塞に似ているが、海岸線はどこまでも続き、ならばと陸を振り返れば葦が風に靡く様子ばかりが目に入る。世界は薄明るく、海面がきらきらと輝くからにはどこからか日が差しているはずなのだが太陽は見当たらない。影はぼやけてあちこちにあった。

 ハリーは寝入った時と同じジャケットにパンツと革靴を履いているようだった。足元から砂の柔らかい感触が伝わってくる。何か、生き物の気配を感じてあのナナフシがいるのかと目を凝らすが、少なくとも背の高い何かは見つからなかった。

 さてどうするかととりあえず海岸線を辿って足を進めた。海のそばだというのに感じるのはそよ風ばかりで、海を眺めても外洋の荒々しい波は見えず漣が寄せて返している。ハリーの乏しい知識でも現実のエリジウムにこのような場所があるとも思えず、夢の中のような――もしも平穏を形にするとしたらこういう場所になるだろうと思われた。マルティネーズの海岸とは違い寂しい廃墟は何一つなく、ここにあるのは自然ばかりだ。

 そう感じたところで少し先に砂に埋もれた何かを見つけた。近寄って屈み込んでみると白い陶製の、カモメの絵の描かれた――

「マグカップ?」
「キム?」

 背後からの声に振り返ると、立っていたのはRCMの制服に身を包んだ男だった。

「ジャン」

 ハリーは手持無沙汰に掘り出したそれを渡した。彼はそれを受け取ってつまらなさそうに眺める。

「ここは?」
「さあ?」

 彼の声は知らない場所にいるにしてはやけに落ち着いていて、やはり夢のようだった。どこかで波が砕ける音がして、彼はそれに耳を澄ませるように首を傾げている。ハリーは彼と対峙すると言葉の端々から過去の自分を感じていたたまれなくなるのだが、今日の彼はいやに静かだ。いつもは、たとえばキャッチボール中にふざけて思いっきり投げつけたボールが遠くへ転がっていくのを眺めるような、そんな顔ばかりして声を荒げていた。

「どこでもない。どこだっていいだろう。何が変わるわけでもない」
「どうすればいいんだ?」
「どうとも」

 ジャンはじっとマグカップを眺めているばかりだ。キムがいてくれたならハリーに目指すべき指針を教えてくれるのだが、どうにも上手くいかない。ハリーのほうは投げるボールがないまま立ち尽くしている。

「とりあえず、歩いてみようと思う」

 そう宣言すると、彼は目を眇めてハリーを眺めた。

「そうだな。それがいい」

 歩いてみると、自然ばかりだというのが嘘だったことがわかった。海岸にはあらゆるものが漂着していて、ハリーはそれを掘り起こすのに夢中になった。ナナフシが集めていたのと同じブイ、知らない文字の書かれたボトル、干からびたボールペンと、流木だと思っていた朽ちた舟。

 ハリーはひとつひとつそれらを拾い集めていく。ジャンの持っているマグカップにはボールペンや波で磨かれて丸くなったガラスの破片、錆びたコインが詰め込まれた。

「なんであんたなんだ?」

 振り返らないままハリーはくすんだ指輪を拾い上げて、肩のあたりに掲げる。背後から伸びた手がそれを取り上げていった。

「なにが?」
「俺が一緒に捜査したことがあるのはキムだけだ。なら、キムの姿をするのが道理じゃないか?」
「不満か?」
「いや。よく知らない人間も想像できるものだと思っただけだ」
「俺が想像の産物だって? あんたが手に持っているものも全部、あんたが知らないものだろう」
「そうだ。確かに……」

 キムが行くべき道を指し示す人間なら、彼はハリーの足元を照らす人間だった。彼の返事はハリーの言葉によって変わる。自分がどこにいて何をしたいのかわからないとき、彼と話をすると思考が整理されていく。それはマルティネーズで、まだサングラスの男だった彼と話をした頃から変わらない事実だった。

 立ち止まって周囲を見渡すと、もうずいぶん長いこと歩いていたようだった。どこまでも葦が茂るのは変わりないのだが、遠くに灯台の白い影が見えるようになっていた。空に鳥がいるわけでも、海に船があるわけでもないのにそれは確かに灯台の姿をしていた。灯台が流れ着くことがあるだろうかとハリーは内心首を傾げた。

「あの灯台は前からあったか?」
「どうだろうな」
「あそこまで行こう。そうしたら何かわかるだろう」
「それはスーパースター刑事の勘か?」
「希望的観測ってやつだ」

 彼は鼻を鳴らしたが文句は言わなかった。ハリーはものを拾うのをやめて最後に拾った空き瓶を片手に砂浜を歩く。砂は風によってところどころで丘を作り、靴で踏むとぐずぐずと崩れた。ここでは蟹もフナムシも見ない。

「あんたは俺の勘を信じるのか?」
「信じたくはない」

 灯台がだんだんと近づいていく。砂浜に石を積んだ岬。人一人分よりも少し背が高いだけの回転灯、それからその手前の焚火の跡。

 生ぬるい風が首筋を撫でた。ここはだんだんとハリーの知るマルティネーズに近づいている。ナナフシと話をしたのはちょうどこんな場所だった。

「ただ、あんたは俺に見えない何かが見えるだろう」
「そうかな」
「そうだよ」

 本当に見えたことはないが、言ったところでどうしようもないだろう。ハリーは自分の振る舞いのどこからどこまでが常識的なのか自分でわかっていない。

「聞いたことならあるけどな。インスリンデナナフシと話をしたと言ったら?」
「信じたくはないな」
「ナナフシは俺にペイルについて教えてくれた。それから自分について」
「それで?」
「ペイルは人間が吐き出す思考で、俺は狂気の存在だと」
「――それになんて言えばいいんだ? あんたは確かにおかしいが」

 初めて彼の困り果てた声を聞く。ハリーは声を上げて笑った。自分が狂っていると思ったことはない。いつだって自分を苛むのは正気と事実のほうだ。ペイル、それから歴史。それを認識できることが悲しいのだ。自分が制御不能で不安定だという事実は決して悲劇ではない。鬱病の片割れならこの事実に同じように安堵してくれるだろうかとハリーは思う。

「ジャン・ヴィクマール衛星警官。俺は確かにおかしいが、俺にもわかることがある。それは『ここがどこか』ってことだ」

 もしもハリーだけが知る真実があるとしたら、それはちょうどこんな風景をしているだろう。葦の原、海、生物の気配、それから漂着するがらくた。

「――どこなんだ?」
「ペイルの中。俺が想像するペイルのなかだよ。蒼褪めた、行き場のない思考と感情の廃棄場だ」
「それにしてはずいぶん牧歌的じゃないか」
「それじゃあこう言い換えてもいい。俺が片付けないといけない過去の塊だ」
「それならさっさとここから出ていけば済む話じゃないか?」

 彼はわざと言っているのだろうかとハリーは訝しんだ。

「そのマグカップをあんたは知っているだろう」

 ハリーは彼が両手で捧げ持つようにしているマグカップを指さした。彼はそれを見下ろして細く息を吐いた。

「――あんたがゴミ箱で拾ったんだ」
「ああ、そうか」
「鳥の絵が描いてあって、ジャン=ヘロンにぴったりだと言った。俺は鷹に見えるって言ったが。本当は二人とも、海鳥だろうとわかっていた」
「それで?」
「それだけだよ。あんたが持ち去ったのは覚えているが、そこから先は知らない」
「そうか……」

 ハリーはマグカップのがらくたの中からくすんだ指輪を取り出した。恐らくは金でできていて、深い海のような青い石が嵌まっている。これはおそらくドーラに関する記憶なのだろうが、何一つ覚えがない。

「出ていきたくないんだ」
「だけど、ほかに道はないぞ」

 彼が指を指す灯台の麓には小さなボートが繋いであった。あの海の要塞に向かった小舟だ。ハリーは途方に暮れてそれを見る。

「それじゃあここにあるものはどこへ行くんだ?」
「どこへもいかない。あんたがここはペイルの中だと言ったんだ。ペイルは減らない。拡大し続ける」
「ナナフシもそう言っていた」
「なら、」
「酸化虐殺だと言っていた」
「何?」
「酸化虐殺。突如現れた酸素を吐き出す生物のせいで、嫌気性の生物たちは死滅していった。でも、エリジウムはここにある。好気性生物が繁栄している。それならそのうち思考や歴史を食べる生き物が生まれるんじゃないか?」
「そいつはまだ生まれてない」
「俺は? でも俺は過去を消化しつつあるんじゃないのか?」

 どうして自分はこうなのだろう。記憶を失う前から繰り返してきた問いをハリーは自分に問う。不安定な神経系は問いをやめられないまま思考を吐き出す。

「俺は真新しい人間になって、かつての過去をぺろりと平らげてしまうんじゃないのか?」
「あんたはただの人間だ。ハリアー。あんたの過去は散らかったままだ」
「でも、俺はそのうちあそこを片付ける」
「おい、ちゃんと話をしろよ」

 ジャンが声を荒げるのにつられてハリーは声を上擦らせた。

「結局俺は何ひとつ覚えてない。俺はあの部屋をどう片付ければいいんだ? 俺はあの部屋でこのマグカップを見つけて、たぶんそれの歴史を何一つ知らないまま捨ててしまうんだ」

 捨てなければ暮らせないが、何一つ捨てたいわけではなかった。どうして喜びの記憶がないまま喪失だけを抱えているのだろう。何の支えもなく胸にはぽかりと穴が開いていて、それがマルティネーズで生まれたときからの傷でなければきっと耐えられなかった。

「このままでいさせてくれ――」
「本当に?」

 その静かな声を知っていた気がした。かつてのハリーが破滅を叫んだ時にこの声を聞いた。鬱病の二人組はこうやって騙し騙しやってきた。片方が体調を崩せば途端にもう片方がしゃっきりして、それで正気に戻れた日々。ああ、今の自分はまったくハリアー・デュボアだ。

 ハリーは両手で顔を覆った。

「どうしてここにいるのがあんたなのか、もう知っているだろう。ジャン」
「あんたが俺を捨てるからだ」
「そうだよ! わかっているならどうしてそんなことを言うんだ」
「ほかに道はない。俺には記憶の捨て場もないのに、少しわがままじゃないか?」
「だって、それなら俺はあんたに何が言える? 面目ない以外の何を」

 ざあっと波の押し寄せる音がして、二人は見つめあう。ハリーは強張ったままの表情で濡れた足元を見下ろした。いつの間にか波打ち際が前進していた。

「別に、必要ない。この記憶は俺だけのものになって、それで永遠にそのままだ」

 静かな、穏やかな声でジャンは言う。

「潮時だ――ペイル――拡大していく――」

 ハリーが呆然と呟く間にも繰り返し波が押し寄せてくる。あり得ない速さで足首がつかり、膝がつかり、せっかく集めたがらくたたちが波に揉まれて遠ざかっていく。そうしてひと際大きな波がざぱんとハリーを襲った。

 そうしてハリーは正真正銘蒼褪めた世界へ沈んでいく。喪失の永続性に安堵する、満ち足りた顔の衛星警官がハリーを見送る。

 「俺はペイルを――」

 その続きに何を言おうとしたのか、ハリーは定かでなかった。



 朝日が目に突き刺さって目が覚めた。寝室のカーテンの細い隙間から太陽が覗いている。ハリーは起き上がって部屋の惨状を眺めてため息をついた。朝日に照らされると暗さで誤魔化されていた部屋の汚れがよく分かった。昨日は一晩眠ってどうにかするつもりでいたのだが、どうにも一人で太刀打ちできる気がしなかった。

 ベッドで呆然とするハリーを急き立てるように電話が鳴って、ハリーはびくりと肩を竦める。己の内側の誰かが囁いた。

 ――工業地区の港に近い集合住宅でキムがおまえに電話をかけている。彼は辛抱強く応答を待っている。おまえの部屋の惨状と依存症再発を心配した知り合いたちを代表しておまえに清掃の手伝いを申し出るつもりだ――

 ハリーはその声に安堵してベッドから立ち上がった。レヴァショールでは朝日を浴びて新たな一日が始まり、そしてペイルを少しずつ前進させていく。それが人間の営みだった。