泥濘に沈めない
研究に行き詰って始めた模様替えが一段落したころには、すっかり本来の目的である研究への意欲を失っていた。部屋を照らしていた蝋燭が随分短くなっていることに気づくともう駄目で、サタナキアはいつになく乱暴に椅子へと座り込む。机の上の蝋燭が、風圧でゆらゆらと揺れた。
か細い明かりに浮かび上がる、いくらか新鮮な様子の部屋を眺めても、気分が変わることはなかった。焦りと、苛立ちと、自分への微かな嫌悪が思考の隅にわだかまっている。窓の外に目を遣ってもただ夜が存在するだけで、それが悲観的な予感を呼んだ。何をしても、何も成し遂げられないような。お前は部屋の中で四苦八苦して何を成し遂げた? 窓の外の闇は変わらずぽっかりと口を開けて、お前に変えられるものなんて何一つ見当たらないのに。そんな言葉が脳裏を過る。世界の大きさが、闇となってサタナキアに覆いかぶさっているようだった。自分が酷くちっぽけで無力な存在だという思いが精神を締め付ける。
「暇」
そんなはずはない言葉が零れ落ちるのも、きっとそのせいだった。暇ではなかった。丸一日悩んでいる想定外の原因をさっさと見つける必要があるし、手配したい研究材料は長いリストになっている。頭の中には調べたいもの、実験したいものだって山ほどある。それでも、そのどれもが出来る気がしなかった。
ざわめく心を宥めるように、長く長く息を吐く。そうして深く息を吸うと、多少思考がすっきりした。意識してヴィータの体を動かすことは、いったいいつ身に着いた知恵だっただろう。あまりに馴染んだヴィータの仕草に苦笑して、思い出したのは過ぎ去った日々だ。過去が、呪いのようにサタナキアを形作っている。
「……ハイドン」
小さな呼びかけにも、従順に鞄は応じた。埃をかぶるからと背の高い棚の上に置いていた革製の鞄が、滑らかに天板から滑り落ちた。鞄は大きな音を立てることなく床に手をついて受け身を取ると、がしゃがしゃとサタナキアの座る椅子へと近づく。
「いい子」
撫でてやると、鞄はもっとというように体を差し出す。それに応えるように、革の縫い目や、取っ手や、目じりを指でなぞる。
「本当は暇ではないんだけどね、出来ることがなにもないんだ」
これが自分に言い聞かせている言葉だという自覚があった。
「出来ることはない。言えることもない。そもそも――」
どうすればいいか、それが分からない。どうなってほしい。何が望ましい。何一つ、見つけられない。何についての話か? サタナキアの、意思と行動についての話だ。研究のことならわかる。わからなくても考えられる。でも、サタナキア自身が何を望み何を選ぶのか、自分自身を覗き込んでも判然としない。
そもそもあのときは、何を考えていたのだったか。どんな判断と意志が、サタナキアをあの行動に導いたのだろう。あのままでは膠着状態だと知っていた。成功すると踏んでいた。彼がそう望むなら叶えてやろうと思った。あるいは。
どれも尤もらしく、間違って聞こえた。
「まあ、こんな問いに意味はない」
どちらにせよこのままだ。心の底で何を望んでいたとしても。オレイに何と言えばいい? プルフラスはその事実を喜ぶか? そうするのが妥当なのだと、賢しらぶった自分が諭す。それでも、ちりちりとした予感が、あるいは不安があった。たとえば、幻獣化計画を完成させた最後のピースを閃いたときを、ソロモン王と出会ったあの戦いを、息せき切ったカルコスが訪れたあの瞬間を、心のどこかが望んでいる。
「変わらないものはない」
この怠惰な停滞も、いつかは押し流されていく。孤独な研究者と、彼の被造物の生きた鞄と。いつかのように部屋に籠っていたって、取り巻く世界は変わっていく。
「だから、今だけは」
今だけ、この泥濘の中に蹲っていたい。自分自身は動けない。サタナキアの推測通りになってはいけないのだから。研究者らしくもなく、想像の埒外を望んでいる。
愚かな願いも虚しく、蝋燭の炎が大きく揺れて掻き消える。暗闇にできることはなにもなく、サタナキアは諦めて、蝋燭を探すために立ち上がった。停滞は、誰にも許されてはいない。