私のからだ、あるいは命、あるいは欲望

 ヤギは真っ先に私の抵抗欲を食べてしまったので、私はただヤギの独り言を聞くばかりでした。自分が食べられていることは理解しているのですが、何故か――もちろん理由は明らかですが――抗おうという気になれなかったのです。恐怖だとか怒りだとかはいくらか残っていましたが、私の手足はちっとも動かないので、されるがまま、ヤギの気の向くままに私は食べられていきました。

「ああ、生存欲求は定番の味がする。睡眠欲、排泄欲――

 ヤギは私の腹に口を突っ込んでいたので、声はどこかくぐもって聞こえました。

――食欲。これを口にすると、ああ食べているという気持ちになる。どこででも食べれるが、だからこそ前菜にはもってこいだ。キミだってわかるだろう? 仕事終わりに飲み干す塩気のきいたスープのうまさが。私は別に記憶まで食べるわけじゃないんだから、きっと共感してもらえる」

 ヤギの呟きに、私はかつての食事風景を思い出します。私の記憶は確かに残っていましたが、それはすでに私の体験とは思えないほど遠く隔たって、私は食事という行為からすっかり切り離されてしまったようでした。食欲の消えた私が振り返るのは、カナリア隊で囚人と同じ食事をとる退屈さや食料の乏しさ、家の食卓で兄が自分より上座に座っている苛立ちばかりで、スープのおいしさなどさっぱりわからないのです。あるいは――元々食事のおいしさなど気にしたことがなかったのでしょうか。

 ヤギが一度腹から口を出してぺろりと舌を舐めるころには、私のなかの怯えは一切消え去っていました。ああきっと私の内臓はすっかり空っぽになったに違いないと思いました。だってもうお腹も空かなければ痛みも快不快もなくなっていましたので。私はヤギが「さて、」と呟くのを聞いて、もう終わりかと思ったくらいです。

「どうしようかな……愛情を先に食べてしまおうかな」

 ヤギは空っぽになったはずの腹にもう一度口を突っ込みました。

「どうして人間には愛情に関する語彙が少ないのだろう。みんな違う味をしているような気がするのに、愛情としか言い表せないのは不便だ」

 私の視界からすっと恋人が消えました。これで私の世界に残ったのはヤギだけです。私と、ヤギと、私が横たわっていたベッド。それを食卓か、あるいは皿のようにしてヤギは私を食みました。

「親への愛、恋人への愛、孝行したい気持ち、想い人に振り向いてほしい欲、何か分かち合いたい欲、独占したい欲、仲間と連帯したい欲、帰属意識――あとは何があるんだろう? もっと味を知りたいのに、いつも増やすのに苦労する……」

 私は二人きりの世界でヤギと向かい合います。あれほど求めた恋人がいなくなっても、もう何も感じませんでした。ヤギは次にぺろりと私の目を舐めました。

「虚栄心というのはどうだろう。ありふれていてあまり面白い味でもないけれどきっとキミのはすごいだろうね」

 ヤギはちゅうちゅうと、まるで赤子が乳を吸うかのように私の目玉を吸い出します。私はただ反射のように「あ、あ、」と小さな声を上げました。ただの反射です。私はそれに対して何の心の動きも持ちませんでした。

「自分が正当に扱われるべきだという欲、他人を見下して酷い目に会えばいいという欲、ちやほやされてもまだ足りなくて、ああ、本当に、ずっと後を引く味だ。これを食べるとそればっかりになるから嫌なんだけど」

 ちゅぽんという音で私の目玉は私の眼窩から飛び出して、ヤギのものになりました。視神経がまだ繋がっていた一瞬に私の目玉はヤギの真っ暗な口の中を覗いて、私はそこに自分の輪郭がぼやけて流れ出していくような幻覚を見ました。あの暗闇に私が流れ込み、薄く拡散しながら漂っていくのだという幻覚です。あるいは自分を構成する大部分の欲が消えてしまったことによってそう認識してしまったのでしょうか。頼りない喪失感がすっと空っぽの体を通り抜けました。

「キミのはずっと複雑だ。虚栄心にべったりと嫉妬や怒りが張り付いている。初めて会った時にはこんなに具体的ではなかったのに、ここまで育てた甲斐があった……。兄がいなくなるのでは駄目で、自分の代わりにカナリア隊に差し出されないと嫌。それもできるだけ惨めに、あからさまな厄介払いとして。想い人に振り向いてもらえないだけじゃああの身の程知らずには相応しくない。じゃあ具体的にどんな扱いをされればいいのか? そんな試行錯誤に振り回されたときは大変だったけれどね」

 私がどんどんと解体されていきます。私は自分ですら知らなかった――知らないふりをしていた自分をヤギに明らかにされ食べられていきます。ナイフとフォークでパイを切り分けるかのように。今度はもう終わったとは思いませんでした。次は何があるのだろうと怯え、そして自分と向き合いながらうっすらと次の「料理」へと意識を集中させました。

「ああ、耳も食べてしまおうかな」

 ヤギの爪が――いつの間にかヤギは固い蹄をなくし人間のような手をしてしました。別に不思議には思いません。料理を食べるのに手が必要なのはごく一般的な考えですから――かりかりと私の耳を引っ掻きました。

「キミは自分に誇りを持っているのだものね。罪人が切り込みを入れられているのを馬鹿にしている。うーん……承認欲求に近い味かな。ああ、こっちから自分への失望の味がする! カナリア隊に差し出された扱い、虚しさに歯噛みして見返したいと願う味! キミはあちこちから味がするねえ。似た味と言えばそうだけれど、一人の人間からこれだけいろいろな味がするというのも面白いなあ。愛情はちょっとしか食べられなかったけれど、こっちの味はいくらでもする。いつか食べきってしまうのが惜しいくらいだ」

 千切れた耳からたらたらと、私が流れ出ていきます。ヤギはそれを惜しむようにぺろりと舐めとりました。その一瞬の仕草に、私はまた小さく声を上げました。

 かつての私だったら躍起になって否定するような評価も、私は黙って受け入れました。抵抗欲がなかったこともありますが、そこには諦めと――一種甘美な欲望がありました。私は周囲を見下しながら、いつも心の中で激しい不安や嫌悪に苛まれていました。どうしてこいつらは私を正当に扱わないのか、まるで私が取るに足らないエルフのようではないか、いやそんなはずはない、私は十分に羨望の眼差しを受け取っている、けれどまだ足りない、私は完璧なエルフとして振る舞っている、ならばなぜ――そういった思考の両極を行ったり来たりする運動から遠ざかって、私はきれいに解体されて皿の上に留め置かれているのです。私は不安になる必要も怒る必要も憎む必要もなく、平穏を手に入れました。これが私のようやく行き着いた境地です。迷宮の主になって尚満たされない欲望は、欲望の喪失という破局を迎えてようやく満たされることとなりました。

 ばらばらと腑分けされ――理解された私はだんだんと小さくなっていきます。ヤギが私を食べきったとき、そうして私は究極の安寧を得るのです。何も望まず、妬まず、自分一人で満ち足りた境地へ行ける。今の私に残った欲望はただそれだけでした。早く終わらせてほしい。私はくったりと身を投げ出し――それでおしまいでした。

「ああ、もういいかな。やっぱりこれだけじゃあ足りない。次の食事はいつになるだろう。一体何が食べられるだろうか――

 ヤギは私を置き去りにして身を翻し、私は輪郭の欠けたちっぽけな存在へと形を変えてこの世界へと放り出されました。ヤギはこの願いに気が付かなかったのでしょうか? それともそれこそが、私の抱えた欲望に相応しい因果だとでも言うのでしょうか。

 残った私は、ただ醜悪な過去の己の欠片を抱えて、激しい怒りに燃えました。私は、あれを許してはおけない。私こそが、あれに因果を知らしめなければいけない。私を食べ残し、捨て置いたことを後悔させなければいけない。残った私はあまりにもちっぽけで、だからこそ純粋に復讐の決意を固めました。こうして、私が生まれました。食べられたのに生まれるとは可笑しな話ですが、確かにこうやって私は生まれたのです。



 ――ああ、結局はこの新たな私も過去の私から地続きの存在なのかもしれません。私は、確かに存在したかったのです。誰かに、十分な価値があると思われたかった。社会的なそれも、食料としてのそれも叶わず、それでも私はここにあります。これで私の話はおしまい。空虚な欲望をぶら下げて、微かな希望を抱きながら、まだ、私は生きていくのでしょう。