The Garden of Eden
プロローグ
アジラフェルとクロウリーは世界に残された最初の一週間を、今後の地上生活をより快適にするために費やした。長期国債や観葉植物を買いなおすことや、庭師や家庭教師の仕事に忙しく、ずっと手を付けられずにいた本の蒐集に。その間に二人は頻繁に食事や散歩に出歩き、その度に世界に祝杯を挙げた。天も地獄も二人に何の手出しもせず、同じように二人も天と地獄の動きに何の関心も持たなかった。夢のように穏やかな一週間だった。
そして日曜日、アジラフェルの古書店で二人は夕方からだらだらとワインを開け、夜には心地よい酩酊と疲労、沈黙に包まれていた。
「要するに、要するにだ」
クロウリーが声を上げた。
突然の明瞭な声に、アジラフェルはふらふらと揺れる頭をなんとか持ち上げてクロウリーを見つめた。クロウリーはソファに横たわり目を瞑っている。
寝言だろうか。悪魔も夢を見るとは思わなかった。アジラフェルはぼんやりと考えながら声をかける。
「イルカかい?」
悪魔はむずかるように頭を揺らすとゆっくりと目を開いた。金の瞳がぼんやりと宙をさまよった。
「おれがいいたいのは要するに、悪魔になって一番良かったことは、それはもう堕ちることを恐れずに済むってことだ」
それだけをいうとクロウリーは再び目を閉じた。
今度こそ寝入ってしまった悪魔を前に、天使は体を震わせてゆっくりと酒を抜いた。肘掛け椅子に深く座り直す。
アジラフェルがこの六千年と今回の騒動で認めざるを得なかったことは、クロウリーの言う通り、天使と悪魔にほとんど何の違いも無く、どちらも同じくらい盲目だということだった。神の側に立つはずの天使でさえ、神のご意思を図ることはできなかった。悪魔はただの税査察官で、天使は精々郵便配達員だ。アジラフェルはもはやそれを否定できない。
アジラフェルの頭の中で先ほどのクロウリーの言葉が蘇る。それでもやはりわたしたちに違いはあって、それはきっとわたしにはわからないことなのだ。かれはかつてわたしのいる場所に立っていたが、わたしはかれがどこにいるのかを知らない。天使は重力を感じない。堕ちていく感覚も、一度だって味わったことはない。
アジラフェルは頭を振ると、本棚から一冊の本を取り出した。隣で寝ている悪魔が起きるまで、アジラフェルにできることはそう多くなかった。
1.きっかけ
翌日、古書店のドアベルが小さく鳴った。まだ開店には早い時間で、クロウリーはぐっすりと眠り、アジラフェルは四冊目の本に手をかけたところだった。アジラフェルが首をかしげてそっと隠し部屋から出ると、ガブリエルが入口に立っていた。
ひどく疲れた、そして苛立った顔をしたアジラフェルの上司は挨拶もそこそこにいった。
「われわれの結論が出た。もしも今しばらくハルマゲドンが来ないのならば、反キリストを野放しにはできない。彼は今もあらゆる災厄をもたらす力を持っている。そして、大いなる計画を否定してみせた」
それは一週間前までのアジラフェルの考えと似通っていたが、もはや過去の話だった。アジラフェルは慎重に尋ねた。
「それは、上とお話になっての結論ですか?」
「神は何もお話にならなかった」
ガブリエルが草臥れていた理由はそれだった。
「では――、ではつまり、神は現状に満足されているのでは?」
「『父と御子を否定する者』を見過ごせと?」
「あれはただの人間ですよ」
ガブリエルは言葉を詰まらせ、手の施しようのない馬鹿を見る目でアジラフェルを見た。アジラフェルはきゅっと口角を上げてみせた。
「調査にやった天使たちをノイローゼに追いやるのがただの人間か?」
そして、苛々していた理由はこれだった。アダムの啓蒙もしくは排除に向かった天使たちは、いつのまにかアダム・ヤングと連中の遊びに巻き込まれ這う這うの体で帰ってくることになった。そしていかに連中が突飛でひとの話を聞かないかを語り、もう二度と地上に行きたくないと訴えた。
「反キリストを監視しろ。今度は相手を間違える心配もない。君にぴったりの仕事だろう。我々は地上に恩寵を伝え、勢力を拡大することに忙しい」
ガブリエルは早口でまくし立てると踵を返して本屋を出て行った。音を立てて古書店の扉が閉まる。アジラフェルはそれを見つめながらクロウリーと話したことを思い出した。再軍備のチャンス。
やるせない気持ちになりながら隠し扉を開けると、クロウリーがソファに横たわったまま目を開けていた。アジラフェルは後ろめたい思いで彼を見つめた。聞いて面白い話でもない。
「愛想をつかされたみたいだな。脅してやったかいがあった」
クロウリーは起き上がると、笑って首をかしげた。アジラフェルは思わず微笑んで、それから慌てて咎めるような顔をつくった。
*****
車を出すか尋ねたクロウリーに、アジラフェルはぼんやりといった。
「ついでにピクニックをしよう」
そうして二人で近所のカフェでサンドイッチを買い込んで、ベントレーに乗り込んだ。
M40は空いていた。時速百八十キロでベントレーを飛ばしながら、クロウリーはちらりと助手席のアジラフェルを盗み見る。アジラフェルはいつもより無口に思えたが、それでもくつろいだ様子でクイーンのベストを聞いていた。
「わたしはまったく無知で頑固で悪い天使だったのだろうね」
「……今更なんの話だ?」
ようやっと気づいたようなアジラフェルの言葉に、クロウリーは首をすくめた。
「……きみの運転の話だよ。わたしが怖がっていただけだった。実際なんということもなかった。ハルマゲドンのときにスクーターを動かしてね、わたしは安全にやったつもりだったけれど、シャドウェルさんをすっかり怯えさせてしまって。きみの気持ちがわかったよ」
すっかり反省した風なアジラフェルにクロウリーは興味本位で尋ねた。
「何キロ出したんだ?」
「……三百二十キロ」
クロウリーは大笑いしてアクセルを踏むと後ろのパトカーを引き離し、料金所のゲートを消し飛ばした。アジラフェルもつられて笑って、目の前の信号を青に変えた。二人は愉快な気持ちのままタッドフィールドに向かい、ベントレーはアイム・イン・ラブ・ウィズ・マイ・カーを流しながら村の広場に滑り込んだ。
クロウリーが路上に車を止めると、二人はぶらぶらと村を歩き回った。古びた建物や緑の生け垣の一つ一つを評しながら穏やかな暮らしに思いをはせる。そのまま二人は村を抜け、緩やかな丘に登り、ぽつんと置かれたベンチに座った。一見捨て置かれているように見えたこのベンチは、村の物のわかる変わり者が置いたもので、最高の風景を眺めるためにあった。
反キリストの愛が育んだ田園風景だった。
「いいところだね」
サンドイッチをつまみ、そよ風に目を細めながらアジラフェルはいった。
「わたしはもう随分ほかの天使と違ってしまったけれど、この景色を美しいと思えるならそれだけで幸いだろうね」
「……どうしてそんなに悲観的なんだ?」
クロウリーが訝しげにアジラフェルへと顔を向けた。アジラフェルはさっきの言葉をなかったことにするように唇を引き結び飛び去ってゆく景色を眺め続けたが、クロウリーの「アジラフェル」の一声に観念したように首を振った。
「ずっと不安だったんだ。きみと違ってわたしが天の言う通りに仕事ができたことはほとんどない。天に居場所はないし、今回の件にも上はご立腹だ」
アジラフェルの声はかすかに震えた。クロウリーは目を瞬かせた。アジラフェルがそんなことを考えているとは思いもしなかった。クロウリーの頭はぐるぐると回りだした。クロウリーが睡眠やファッションを楽しんでいるように、アジラフェルも地上を楽しんでいるのだと思っていたが、彼にとっては逃避の一環だったのだろうか。彼が天使の立場にこだわるのは。彼が人間に渡した炎の剣が最後に誰に渡るのか。
「でもほかの天使からどういわれても、やってよかったはずだ。きみとこの景色を見られてよかったよ」
アジラフェルは急いで付け加えると、もう一切れサンドイッチを手に取った。クロウリーは何かをいおうと口を開いたが、言葉が見つからずに口を閉じた。
二人の間に沈黙が落ちた。アジラフェルは無言でサンドイッチを食べ進め、クロウリーは近くの灌木を睨み続けた。
日が傾き西の空に茜色が見え始めたころ、丘のふもとから人影が近づいてきた。アダム・ヤングがドッグを連れて歩いてくる。
「天使でしょう。分かるんだから。あれだけ遊ばれてまだ足りないの――」
まくし立てようとしたアダムは、アジラフェルとクロウリーに気づくと立ち止まった。
クロウリーは挨拶代わりに片手を上げた。
「悪魔もいるぞ」
アダムは二人の間にサンドイッチが入っていたバスケットを見つけて困惑した。
「何しに来たの?」
「おまえの偵察」クロウリーがいった。
「という名のピクニック」アジラフェルが付け加える。
「アリバイ作りってやつだ」
クロウリーはにやりと笑った。それでアダムも了解して笑い返した。
二人は目的は果たしたとばかりにベンチから立ち上がると車へと戻りはじめる。アダムもそれについて行った。
「力は残っているのか?」
クロウリーは足下を跳ね回る元地獄の番犬を眺めながら尋ねた。
「うーん、たぶん。できるだけ使わないようにしているから。声が聞こえるんだ」
「声?」
「世界をどうこうしろってやつ」
二人は顔を曇らせた。大いなる構想は立ち消えになったが、それは未来が分からないという点で、より恐ろしいことなのかもしれないとぼんやり考え始めていた。
しかし、アダムは肩をすくめてみせた。
「今はそんなのに耳を貸す暇がないほど忙しいんだ。明日も、〈ジョンソン主義者〉たちがアメフトを始めたのを冷やかしに行くし」
アジラフェルは〈ジョンソン主義者〉の宗旨について聞きたくて仕方がなかったが、クロウリーが腕を引っ張ってやめさせた。
「友達が増えたよ。増えたっていうか、いたことに気づいたっていうか。ぼくたちと〈ジョンソンとジョンソン主義者〉はもうちょっと仲良くなれると思うし。だからまあ、大丈夫だよ」
ちょうどベントレーにたどり着いた二人は、顔を見合わせてからアダムに向き直った。
「不要かもしれないが、助けが必要なことがあったら連絡してくれ」
アジラフェルは古書店の名刺を差し出した。クロウリーがそれを取り上げて裏面に自分のナンバーを書く。アダムは目を輝かせてそれを受け取った。アダムの頭の中はそのとき、自分が名刺を作るならどういったデザインにするかでいっぱいだった。
二人がベントレーに乗り込むと、ひとりでにカーステレオからクイーンのアンダー・プレッシャーが流れ始める。目を丸くするアダムにアジラフェルがいった。
「言い忘れていた。ハルマゲドンを止めてくれてありがとう。本とベントレーのことも」
「どういたしまして」
アダムは手を振って二人を見送った。二人も手を振り返す。
「チャオ」
時速百四十キロで走り去るベントレーを眺めながらアダムは思った。しまった、何とかしてあの車に乗せてもらえばよかった。あれはかっこいい。それにしても、あの悪魔、何か失くしていなかっただろうか。
その瞬間、クロウリーに戻ってきた記憶があった。しかし、クロウリーはまだそれに気づいてはいなかった。もちろん、他のどの人間も、霊的存在も、オカルト的存在も。神を除いて。
2.悪い兆し
アジラフェルを送り届けてメイフェアのフラットに戻ったクロウリーを迎えたのは、一匹の蠅だった。もちろんそれはただの蠅ではなく、クロウリーの目の前で数を増やし、人型をとった。
クロウリーは数歩後ずさり、恭しくお辞儀をした。
「あー、ベルゼブブ様。ご足労を」
「まったくだ」
ベルゼブブはフラットを見渡していった。クロウリーはお辞儀に隠れて見えないように顔をしかめた。
「天使は反キリストに対抗して祝福を振りまいているようだが、どう足掻こうと無駄だ。反キリストが地上にいる以上、悪は栄える。我々は地上に悪をもたらし、より大きな力を手に入れる。貴様にもきちんと働いてもらう」
ベルゼブブは冷たい目でクロウリーを見つめた。
「随分と地上に馴染んだようだが、同類に同情などしないことだ」
ぱちんと音を立ててベルゼブブが消えた部屋で、クロウリーは天を仰いだ。
「天国も地獄もくそったれだ」
クロウリーは部屋中を歩き回りながら思いつく限りの悪態をついた。この緊張ぶりではちょっとしたきっかけでハルマゲドンなしに勝手に戦争を始めかねない。
クロウリーは人間が好きだったし、その思いはハルマゲドン未遂を通してますます強くなった。まったくもってアダムの言う通り、天国も地獄も地上から手を引いて、人間たちがなにをやるのか見るほうがずっといいと感じていた。いまどき天使や悪魔にできることなど高が知れていたし、そうしたほうが善と悪の趨勢についてはっきりする。
「今さらどうしてこんなことになるんだ。意味ないだろう。なあ――」
そしてクロウリーは思い出した。日曜日、セント・ジェイムズ・パークで何を話したか。自分の作ったものが全部ちゃんと動くかどうかみるための、大きなテストかなにか。これは大いなる宇宙のチェスゲームなんかじゃなくて、すごく複雑なひとり遊び――
「いい加減何かいったらどうだ!? あんたの使いが暴走してるぞ!」
クロウリーは天井を見上げると大声を上げた。
「人間はあんたの期待通りに動いたんじゃないのか?」
部屋中をうろうろと歩き回る。
「それともこれも含めてあんたの計画のうちか?」
頭をかきむしる。
「おれはもうあんたの手の内にいるのはまっぴらだ!」
ぱちんぱちんと指を鳴らして部屋の電気を点滅させる。
「悪魔になって解放されたと思ったらこれだ!」
どすどすと床を踏みつける。
「アジラフェルに余計なことをやらせるのもやめろ! あいつは歴とした天使なんだぞ!」
クロウリーの派手なパフォーマンスにもかかわらず、部屋はしんと静まり返った。クロウリーはその静けさに怯み、じわじわと表情を変えた。酷く傷ついた子どものように。この沈黙が世界の答えだった。
「こんな世界もうたくさんだ! 出て行ってやるからな!」
それでもクロウリーは部屋に射す朝日に気がつくと、黙って仕事のために部屋を出た。
彼に天使と悪魔以外の選択肢など思いつかなかったので。
*****
例の協定によっていくらか天使の仕事を肩代わりしてきたクロウリーはしばしば、その仕事の簡単さに拍子抜けすることがあった。大半の仕事は、適当な容姿をつくって、虹色に光るか、宙に浮くかしてそれっぽいことをいうだけで済んだ。何もいわなくてもよかった。人間は勝手に何かを読み取って、勝手に善行をなしていった。
それに比べると悪魔の仕事は多少頭を使う必要があった。悪魔の姿で「悪行をなせ」なんていっても誰も聞いてはくれない。人間の様子を見計らって心が荒んだ隙に適切な悪行をささやく必要があった。しかし時代が下るにつれ、クロウリーの仕事はずっと工夫のし甲斐がある、面白いものになった。人間の社会はより密集し、高度化し、些細なことで揺さぶられるようになった。
しかし今、クロウリーは大きな公園のベンチでため息をついていた。もう三日、ここに座っている。
地獄ではクロウリーが人間の肩をもっている、今までの大きな仕事も人間に直接手を出したくないが故だという見方が広がっているようだった。今クロウリーに求められているのは人間の聖職者やら政治家やらを直接堕落させて、地獄への忠誠を示すことだ。しかしそれはまさしくクロウリーの嫌いな十四世紀的な仕事だった。気乗りがしない。あくどい貴族や聖職者を見つけて手柄にしたこともあったが、それはずいぶん昔の話で、この三日、公園を通り過ぎる誰を見たって、とりたてて地獄が似合う人間は見つからなかった。
そこに、一人の人間がやってきた。隣に座っても? の声に頷いて、ちらりと目を遣る。くたびれたスーツの女だった。
ふと気が向いて、クロウリーは彼女に話しかけた。
「なあ、地獄に落としたい人間はいるか? 落ちそうな人間でもいい。仕事にそういう奴が必要なんだ」
彼女は不審げに目を眇めてクロウリーをみたが、律義に答えた。
「……私は無神論者だけど?」
「悪かった。好きな表現に置き換えてくれ」
「私は検事だから、”そういう”人にはふさわしい刑罰と更生を期待するほかはできないし、”そういう”人の所業はいつか日の目をみると思っている」
クロウリーは彼女の答えに興味をひかれたように唸った。
「現実がどうであれ?」
「理想は共有できていると思っている。そうじゃなきゃ人間社会なんてやってない」
そう言って彼女は立ち上がった。
「あなたの探し人がだれか知らないけれど、反社会的行為はやめておいて」
歩き去る彼女を眺めながらトラウマのようになっている異端審問を思い出して、クロウリーはしみじみと呟いた。
「人間ってのは変わるもんなんだな」
それから彼女を追うように公園を出た。もう仕事をする気はなかった。
尻ポケットにいれたスマホから、低い声がクロウリーを責め立てていたが、ああ煩いなと思った途端、ぷつりと音が途切れた。
何故だかすがすがしい気分になって、鼻歌を歌いだす。世界が随分いいものに見えた。
「I want to break free」
「I want to break free」
「You’re so self-satisfied, I don’t need you――」
*****
ソーホーの古書店は閉店の札が掛かり、中ではアジラフェルが本の在庫整理に精を出していた。本部はアジラフェルを見限ったらしく、適当に上げた報告にも反応がない。アジラフェルはこの暇を有効活用するつもりだった。
ドアを叩く音にアジラフェルが顔を上げると、アナサマが手を振っていた。
「どうしてここを?」
「アダムに聞いたの」
アジラフェルがドアを開けて、アナサマは店内に入った。アナサマはあたりを見渡して小さな椅子に座ると、アジラフェルを見上げていった。
「相談というか確認なのだけど……アグネス・ナッターの予言書を取り扱ってはいないわよね?」
アナサマの声には諦めの様子が浮かんでいたが、それでも瞳は一縷の望みをかけてアジラフェルを見つめていた。アジラフェルはアナサマの疲れた顔を見つめ返して首を振った。
「そう……だろうとは思ったけれど」
「本のことはすまないと思っている」
「あなたに必要だったのは分かってる」
アナサマは小さく首を振った。
「本当は本の話はついでなの。話を聞いてほしくて」
「天使は相談相手には向かないよ」
アジラフェルは本心からそう述べたが、アナサマは苛立ったように首を振った。
「わたしの可哀想な予言書の償いだと思って」
それでアジラフェルは二人分のココアを淹れることになった。
アナサマは日曜日に新しい予言書を燃やした話をした。アジラフェルは悲痛に顔を歪めたが、黙って話を聞いた。
「でも、ふと思いついてしまったの。もう予言書がないのならニュートンのことをどう考えればいいのかしらって」
アナサマは同意を得たいというように手を広げて見せた。
「つまり、ニュートンと別れる選択肢があるのかもしれない。わたしが読まなかっただけで。そう考えるとコテージにはいられなくなって。せめて古い予言書が手元にあったら安心できるかと思ったんだけど」
ため息をつくアナサマにアジラフェルは伝えた。
「本当に、わたしからは何もいえないよ。恋愛の排他性の話をしているのだろうけど、わたしにそういった関係の人はいなかったから」
「恋愛じゃなくてもいいの。自分の選択に自信が持てないことは?」
「ないよ」
アナサマは意外そうに眉を上げた。アジラフェルは僅かに微笑んでみせる。霊能者といえど人間は天使に詳しくない。特に変わり者の天使には。
「わたしはきちんとわたしに従った選択をしてきたよ。それが必ずしも良い結果をもたらさないとしても」
そしてその結果を思い浮かべて、アジラフェルは心の中でため息をついた。わたしの選択は人間を傷つけ、友人を置き去りにし、天を混乱させてきた。しかしわたしはいまだのうのうとここにある。
「本当に、参考にならないのね」
アナサマはもう一度深く息を吐いた。アジラフェルは黙って彼女を見つめた。
「結局、この責任をアグネスに押しつけることはできないのよね。わたしが選んで、引き受けないと」
アナサマは呟くと「帰る」と宣言して立ち上がった。と同時にドアベルが鳴り、ドアが大きな音を立てて開いた。二人が振り向くとクロウリーが店の入り口で戸惑ったように立ち止まっていた。
「取り込み中か?」
「終わったよ」
アジラフェルが答えて、アナサマは店を出ていった。店の入り口で振り向いてクロウリーに告げる。
「あなたのオーラ、何だか変よ。初めて見た」
とりあえず気をつけてとだけ言い残したアナサマを見送ると、クロウリーが指を鳴らした。もう一度大きな音を立ててドアが閉まる。
「今日も出かけるかい?」
アジラフェルの問いかけにクロウリーは首を振った。
「いや、しばらく仕事を休んで寝るって言いに来たんだ。それにしても、『初めて見た』って何の忠告にもなってないな」
アジラフェルはクロウリーのやけに晴れ晴れしい様子に首を傾げた。
「君も閑職に追いやられたの?」
「あー、そんなもん」
「ふうん。どのくらい?」
「まだ決めてない」
はしゃいだように話すクロウリーを、アジラフェルは咎めたてたい気持ちでいっぱいだったが、何の正当性も持たないそれに結局黙って微笑んだ。
「わかった。連絡はいつでも待っているよ。きみと違ってわたしは暇だから」
アジラフェルはそれを冗談のつもりで伝えたが、クロウリーは真顔に戻った。
「大丈夫か?」
「何が?」
今度はクロウリーがもぞもぞと口を動かす番だったが、結局いつもと同じように別れを告げ、アジラフェルもそれに答えた。
どこかぎこちない別れだった。
3.それを知らせるのは
それからおよそ三か月後、ベルゼブブとガブリエルはロンドン郊外の丘をだらだらと歩いていた。呼び出したのはベルゼブブで、場所を指定したのはガブリエルだった。リッチモンド。天使が誇る高級住宅街。
ハルマゲドンの失敗以来、天使と悪魔の上層部は、部下の対立を煽りながらも奇妙な協力体制を築き始めていた。
ガブリエルが前に出ないようにきっちり横並びで歩きながら、ベルゼブブはため息をついた。これから告げることはどう考えても天使に協力を要請するほどの一大事で、地獄の不始末でもあった。
ベルゼブブは部下からの報告を思い返した。どうやらストライキに入ったらしいクロウリーに差し向けた使い捨て悪魔が、数を減らして帰ってきたのが始まりだった。それが言うにはクロウリーのフラット周辺は酷く不気味で居心地が悪く(地獄の不気味とは違うんですよお。すっごい静かで落ち着かない感じなんです――)、それでも嫌々部屋に押し入ろうとしたところで二体が消滅したらしい。(もうあの人にかかわるの無理じゃないですかあ。聖水も効かないんですよねえ)
クロウリーの使ったトリックに思い当たりがあったベルゼブブがまともな悪魔を送っても結果は同じで(ただしその悪魔は皮膚をただれさせながら逃げ帰ってきた)、ならばと伝手を使って適当な天使を送り込んでも結果は一緒だった。(その天使がどうなったかは知らない)
そうこうしているうちに『居心地の悪さ』は勢力を拡大し、今ではメイフェア一帯に誰も近づけなくなった。さらには地球上のあちこちで奇跡が起こせないだの急に仕事が上手くいかなくなっただのと報告が入り、とうとう昨日は一人も人間が地獄に落ちてこない有様だった。
「……地獄の勢力が届かない場所がある」
「良いことじゃないか」
「そこでは天の勢力も及ばない」
「ありえない。神の恩寵は余すところなく世界に満ちている」
ガブリエルの言葉にベルゼブブはせせら笑った。天使の身には確かに神の恩寵が満ちている。正確に言うなら、真実がどうあれ天使はそれを知っていて、信じている。当然の帰結として、その身から見た世界は祝福されている。悪魔とは逆に。
「相変わらず頭が天使だな。最近虹を見たのはいつだ? 足の生えた蛇のニュースは見たか? 昨日天国に入った人間が何人いた?」
ベルゼブブは立ち止まった。ガブリエルは構わず歩く。
「奇跡が起こせない。向かわせた悪魔は落ち着かないと帰ってくる。『使い捨て』は即座に消えた。天使に同じことが起こることも確認済みだ」
ガブリエルも足を止めた。背後から声が通る。
「地獄とも天ともつながらない場所。そこはいったい何になる?」
ガブリエルがふと足元を見ると、そこではからしの草が枯れていた。
*****
古書店業に精を出すアジラフェルを一人の天使が訪ねてきた。明るい色のタイトなスーツを着て、天使らしく、傲慢寸前の自信に満ちた顔をした彼(男性の見た目をしていた)は丁寧かつ不作法に、店内で声を張り上げた。
「アジラフェルさん。初めまして。少しお話よろしいですか?」
ほかの客の視線を跳ねのけて、その天使は微笑んだ。
「でも、ここはすこし部外者が多いですね」
そそくさと全ての客が出て行ったあとで、天使は手近な椅子に座るとアジラフェルを見上げた。アジラフェルは今後あの客たちが店に寄り付かない幸運と、店を続け辛くなる不運を天秤にかけたあとにどちらも放り投げると、とりあえず今一番迷惑な客を押し返すために冷たい声を出した。
「なんの用かな」
「上層部はしばらく地上から引き上げることに決めました。あなたも身の振り方を考えたほうがいい」
「引き上げる?」
「上層部は明言しませんでしたが、地上に神のお力の及ばない場所ができたともっぱらの噂です」
話についていけないアジラフェルに、天使は追い打ちをかける。
「そうなったきっかけは、ハルマゲドンを阻止した悪魔だとか」
「クロウリー?」
名前は知りませんが。天使は律義にいった。
「ですから上はあなたも警戒しています。天に避難はできないでしょう。上は、このままあなたが地上で消滅するか、そうでなければあなたはもはや天使ではないのだという二択を考えています」
「魔女裁判みたいだね」
アジラフェルの言葉に、天使は真顔だった。わたしの冗談はウケたためしがないとアジラフェルは思う。
「――本来わたしに知らせる予定もなかった?」
「ええ」
天使ははっきりといった。アジラフェルは呆然と口を開いた。
「どうして?」
「わたしはハルマゲドンが怖かったんです。だから、あなたに感謝しています」
天使は、まるで人間のように真摯にアジラフェルに向き合った。最初に見せた傲慢さが、それで対外用の振舞いだとわかった。アジラフェルは、どうしてかいたたまれない気持ちで彼の目を見る。
「わたしにできる、唯一のことがこれでした。上の決定は覆せませんでしたが、あなたがどうにか生き残れればと思っています」
お力になれず申し訳ありません。天使は頭を下げた。
「きみみたいな天使がいるとは思わなかった」
「意外に多いと思っていますよ。あなたもそうでしょう?」
折り目正しく挨拶して店を出た天使を見送りながら、アジラフェルは高潔だなと思った。それから、それは天使の美徳にはならないだろうなとも。
わたしは嫌な天使だ。
*****
合鍵でクロウリーのフラットへ侵入したアジラフェルは、部屋の静けさに眉をひそめた。一部屋一部屋を慎重に見てまわる。一番奥の部屋が寝室で、クロウリーはそこにいた。四人が並んで眠れそうなほど広いベッドに、一人横たわっている。
「クロウリー?」
近づいてみると、彼はただ穏やかに眠っているように見えた。蛇の瞳が隠れたいま、人間のように。それでもアジラフェルは困惑を隠せなかった。なにか普段の彼と違うものを見いだそうと彼を凝視する。
アジラフェルが悪魔全般にどうしても抱く微かなわだかまりは消えていた。しかし、いつも感じていたクロウリーからの愛情が感じ取れない。変わりに感じるのは酷い冷たさと寂しさだけだ。
訳が分からないままアジラフェルは彼を起こそうとした。声をかける。揺さぶってみる。光を当てる。指を鳴らす。ベッドから落としてみても目を開けないクロウリーに、アジラフェルは途方に暮れた。
一度寝室から出て、観葉植物を調べる。いくらか萎れた植物たちは微かに葉を震わせてアジラフェルに挨拶をした。アジラフェルは霧吹きに水を満たすと植物たちを潤してやる。人間ならば咽び泣かんばかりの植物たちの感謝を受け取りながらアジラフェルは思い悩んだ。
アジラフェルはもう一度寝室に戻ると、床に転がしていたクロウリーをベッドに戻した。そしてじっとその顔を見つめた。
彼は十分に賢い天使なので、いまのクロウリーの状況を推し量ることができ、こうなった彼に接触できる可能性を知っていた。歴史上の逸話が示すように、天使は夢に現れることができる。しかし、その選択肢をとることが正しいのか、アジラフェルには分からなかった。どういう立場があれば堂々と彼の心に踏み込めるのだろう。
「ごめんよ」
それでもアジラフェルは指を鳴らした。主を失った肉体がどさりと崩れ落ちて消えた。
4.楽園回帰、楽園脱出
「地獄とは神の不在なり」という小説がある。
もちろんこれはフィクションで、地獄にも神は存在する。
*****
硫黄の池のほとりで天を見上げる。*****は戸惑っていた。そして親に見捨てられたような気持ちでいた。
「あなたほどの方が、なぜちっぽけなわれわれにここまでのことをするのです?」
答えはなかった。なので*****は小さく頭を振るとこれからの同僚の元へと歩いていった。
もはや戻れないことだけはわかったので、これで消えなかったのだからこれからもどうにかなるだろうと思うことにした。もう堕ちようもない。その考えはなんだか愉快な気さえした。
*****
天使の翼の下で、雨が上がってゆくのを眺めていた。
クローリーはさっき自分がいったことを黙って考えていた。もしおれが良いことをして、この天使が悪いことをしていたのなら、それはどういう意味だろう。人間が賢くなって、武器を持つ。でも善悪を知る人間なら武器だって善く使うだろう。
それではおれの仕事の意味がなくなる。じゃあ本当におれが悪いことをして、この天使が良いことをしていたなら。そう考えて首を傾げた。クローリーによって堕ちた人間は、天使の善行で回復できるものなのだろうか。堕天使が天使に戻るようなことが?
隣の天使に尋ねようとして、その矢先に微笑まれた。天使が指す手の先には獣の肉を焼いて食らう人間がいる。
「元同僚と戦うよりずっと良い使い道じゃないかな。わたしも彼らを追い返すのは心が痛むし」
「そうかもしれない」
その笑顔にそう返すしかできなかった。
*****
アジラフェルとある程度和やかな会話ができるようになって、かねてからいいたかったことをいってみた。
「あの兄弟げんかを見たときにはおれたちはどっちも悪いことをしたのかと思っていたが、今じゃどっちなのかさっぱり分からないな」
アジラフェルは決まり悪げな顔をしたが、気にせず首をかしげる。
「驚かなかったか? 善悪を知っているのにやっちまうんだから」
アジラフェルは少し時間をおいてこういった。
「つまり、それが自由意思なんじゃないかな。わたしたちと違って、彼らは両方を知った上で選ぶことができる」
「それじゃあ結局、世の中全然分からないままだな。神は何がしたいんだ?」
*****
世界が終わる寸前、人間を見た。考え続ける存在。選び続ける生き物を。
*****
セント・ジェイムズ・パークでアヒルを眺めながら考える。
「計り知れない計画がどういうものか考えたことはあるか?」
「例えばアダムが世界をすっかり変えてしまったとしたら」
喉が渇く。唇を何度も湿らせて、途切れ途切れに話を続ける。
「つまり――、あいつはいったよな。書かれたことだっていつでも消せるって」
「それって、人間が神の介入をやめさせたってことじゃないか。だったらこれから――」
「だめ」
腕をつかまれた。アジラフェルのペールブルーの瞳がおれを見ていた。
*****
蛇の瞳が瞬いた。アジラフェルに合わせるようにクロウリーも立ち上がり、アジラフェルは懇願するようにクロウリーを見上げた。
「きみ、いま自分がどうなっているか知っている?」
アジラフェルは震える声でいった。
「いなくなりかけている。きみはいま、神の手を離れようとしている。そんなことできっこない」
「アジラフェル?」
「それ以上考えないで。戻ってきて」
どうして彼はいつも、恐ろしいことをするのだろう。彼が何気ない顔で語る神への疑問が怖い。わたしにできないことを簡単に勧めてみせるのが怖い。
そうしてわたしの心が乱れることが一番怖い。どうしてわたしはこうやって懇願しているのだろう。こんなに必死で、でも空虚な言葉で。
「おまえ、あの日のこと覚えていたのか?」
「わたしは天使だから。考えないようにすることができる」
「……考えるのは、悪いことか?」
「考えても、知ることはできない。その道は虚しい道だ」
「人間は?」
「人間は既に、善悪を知っている。そして神が創った肉を繋ぎ、神が禁じた知恵を深めここまで来た。わたしたちはちがう」
「じゃあ、おれたちの六千年は何だったんだ?」
丸い蛇の瞳でじっとアジラフェルを見つめるクロウリーの背後で、周りの景色が変わっていくのが見えた。建物が、木々がさらさらと崩れ去る。池は枯れ、芝生は砂になる。あたり一面の荒野に二人は立っていた。神に作られたばかりの原風景。二人が出会った場所。しかし、見渡してもエデンの姿はない。
*****
手を繋いで荒野を歩く。歩くたびに砂に足を取られ、じりじりと太陽が背を焦がす。行く当てもないまま進むアジラフェルに、クロウリーはおとなしく従っていた。クロウリーの手を引きながら、アジラフェルは彼に見えないように唇をかんだ。
アジラフェルは必死に考えていた。どうしたら世界に彼を許してもらえるだろう。心の中で誰にともなく呟く。
彼はまったく善い悪魔です。彼ほどの人をわたしは知りません。彼ほどの優しさと、繊細さと、いざという時の覚悟をわたしは知りません。私が地上を気に入っているのは、全て彼のおかげなのです。彼が示した地上の光を、わたしはただ目に留めただけなのです。彼はほんとうにわたしによくしてくれるのです。あなたが彼を捨て去っても、わたしはそうはできません。彼があなたを無視しても、わたしを無視することはできません。わたしは彼を、愛しているのです。そして、もちろん彼も、わたしを愛しています。あなたの愛が届かなくても、わたしの愛は――
アジラフェルは思わず笑った。笑って、それから少し恥ずかしく思って、それでももう一度笑った。
「クロウリー、大丈夫だよ」
怪訝な顔をする彼に笑顔を見せる。
「大丈夫、ここがエデンだ」
「ねえ、愛しているよ」
「あの方はわたしを愛しているし、わたしはきみを愛している」
「許されているはずなんだ。わたしも、きみも。ねえ、思い出してよ」
アジラフェルが話すごとにクロウリーは瞬いた。それに合わせて足元の砂が色を変える。しっとりと濡れた黒い土が二人の周囲に広がる。肥沃な大地が草を呼び、花を呼び、木々が早回しで生い茂る。気が付くと、二人は穏やかな木漏れ日の中に立っていた。どこかで鳥の声がする。草むらがささやかに揺れる。原始の庭。罪を知らない者だけに許された楽園。
*****
アジラフェルは微笑んでいた。微笑んで、慈しむようにクロウリーの手を撫ぜた。クロウリーは今ほど自分の体を悲しみ、感謝したことはなかった。きっと人間なら激しく心臓が打つのを感じられただろうし、頬が真っ赤に紅潮していたはずだった。六千年かけて育み、ようやく認められた愛情を胸に、快哉を叫んだはずだった。
それでもクロウリーは頷くわけにはいかなかった。彼自身とアジラフェルの六千年にかけて。
「おれたちの六千年は何だったんだ?」
クロウリーはもう一度繰り返した。おれたちの六千年。人間たちの六千年。世界の六千年。
天使じみて輝くアジラフェルの手をきつく握りしめる。
「おれは楽園が欲しいんじゃない。ただ、考えただけなんだ」
戸惑うアジラフェルに、どうかわかってくれと心の中で叫ぶ。
「ずっとだ。おれが天使のころからずっと、考えてきただけなんだ」
「もう戻れない。おれはずっと昔に天使をやめて、悪魔になった。もう変わらないかと思っていた。これでもう何を考えても咎められることもないかと」
クロウリーは深く息を吸い込んだ。震えるアジラフェルの唇を認識しながら、言葉を吐き出す。
「でも違った。おれはこれから悪魔もやめることになる。どうなるのかはわからない。間違った道かもしれない。それでも考えることはやめられない」
「やめて……」
「無理だ」
「どうして……」
「アジラフェル、おれを許してくれ。いまは愛情はいらない、おれを認めてくれ」
今度はクロウリーがアジラフェルの腕をつかむ番だった。腰が抜けたようにずるずると座り込むアジラフェルを見下ろして、クロウリーは震える声で続けた。この言葉は天使を傷つける。
「わかっているだろう。おまえだって変わった。もうまっとうな天使じゃなくなった。六千年かけて――」
「わかってる!」
アジラフェルは悲鳴のように叫んだ。
「わかってる!」
「でも、そんなのはだめなんだ! あの方の愛情を覚えてないの? あの方がわたしをどう作ったか知っていて、それからどんどんずれていって、そのとおりにできないわたしが――」
アジラフェルはひきつけのように呼吸し、言葉を詰まらせた。それを見つめながら、クロウリーは自分がふたつに分裂したような気持ちを味わっていた。彼を痛ましげに見つめる一方で、頭の片隅が勝ち誇ったように彼を憐れんでいる。初めて知った悪魔を見る天使の気持ちだった。
その気持ちをじっくりと咀嚼して、いままでのことを思い出して、ああ、いまなら言えると思えた。
「おれはおまえを許すよ。おまえの全部を」
クロウリーはそっと屈んで膝をつくと、アジラフェルを抱きしめた。初めてのことなのにやはり頭の片隅は冷静で、あたたかさはあるのに鼓動が聞こえないなと、もう一度この体を惜しんだ。
「おまえの傲慢と、恐れを教えてくれてありがとう」
震えが止まるように腕に力を籠めて、教え込むようにゆっくりと呼吸を繰り返す。そのうちアジラフェルの震えがゆっくりと落ち着いていった。もぞもぞと身をよじらせるので、クロウリーは惜しみながら体を離した。
ペールブルーのうるんだ瞳がはっきりとクロウリーを見つめた。アジラフェルは一度ぎゅっと唇を引き結ぶと囁いた。
「わたしもきみを許したい――」
クロウリーはきゅっと口角を上げて、できるだけ気軽に聞こえる声を作った。待つのは慣れている。
「どうしたらいい?」
「――もう一度、許すっていってくれ」
「――許すよ」
「わたしも、きみを許すよ。きみがどうなったって、一緒にいくよ」
今度はアジラフェルがおずおずと腕を伸ばし、クロウリーを抱きしめた。クロウリーはほうと息を吐き、自分が緊張していたことを知った。ゆっくりとアジラフェルの背に腕を回し二人で抱きしめ合った。
しばらくそうして二人の体温が馴染んだころ、クロウリーはぽつりといった。
「おれたち、心臓の音がしないか?」
アジラフェルはぱっと体を離すと、自分の胸に手を当てた。クロウリーも同じように胸に手を当てる。心臓が脈打っているのが手のひらでわかった。アジラフェルは困ったように眉尻を下げた。
「わたしたち、もう変わってしまうの?」
「かもな」
クロウリーは軽やかに立ち上がった。うんと伸びをしてあたりを見回す。
「行こうぜ。これからのことを考えよう」
楽園は消え、現実の公園に戻ってきていた。昼下がりらしく人々のざわめきと、池のアヒルの鳴き声が聞こえる。それを横目に、クロウリーは座ったままのアジラフェルに手を差し伸べた。アジラフェルも肩をすくめてその手をとる。
「上手いこといったら田舎に引っ込んで同居でもしないか」
「じゃあサウスダウンズはどうだろう。わたしが手を入れた街だよ」
そして二人は顔を見合わせて破顔すると、今度こそ公園を去っていった。
5.後日譚もしくはアジラフェルだけが知っていること
アジラフェルが一旦クロウリーと分かれて古書店へ戻ると、店の床に大穴が開いていた。慌てて駆け寄ってのぞき込むと、暗闇の中にぼんやりと螺旋階段が下っている。アジラフェルはじっくりとその様子を検分すると、意を決して足を踏み出した。少し下るだけで、あっという間に本屋の光が見えなくなる。アジラフェルは、いまや一寸先も見えない暗がりを、手すりと足先の感覚だけを頼りに慎重に降りていった。
アジラフェルの足が疲れてきたころ、周囲が僅かに明るくなった。暗闇に目を凝らすと、遠くに川と門が見えて、それでアジラフェルはここがどこだか思い当たった。アジラフェルはなぜだか開き直って、それからはあっという間に地獄の層を下って行った。
地獄の最下層にはサタンが眠っていた。アジラフェルは巨大なその姿を見上げながら、やっぱりダンテは思い込みの激しい出鱈目を書いていたなと呆れた。サタンの姿はいくらか描写に近かったが、顔はひとつで、地面に埋まってもいなかった。三人の罪人も見当たらない。
サタンを見上げ、「来ましたよ」と声を張り上げる。サタンは眠った姿勢のまま薄目を開け、アジラフェルを認めると目を閉じた。
むっとしたアジラフェルが抗議する間もなく、低い声が響き渡る。
「クロウリーにクビだと伝えておけ。もはや地獄にあいつの居場所はない」
それでアジラフェルは口を閉じた。
「ご自分でお伝えになったらどうですか?」
しばらく待っても返事はなかったのでアジラフェルは踵を返し、その途中でふと思いついて問いかける。
「ところでエレベータはありますか?ここまで来るのは骨が折れたんですけど」
アジラフェルの間抜けな問いにサタンは目をつぶったまま黙って自らの背後の大穴を示した。古書店にあったのとよく似た穴だ。アジラフェルがその穴に近づいて覗き込むと、そこには夜空が広がっていた。しかし階段が見当たらない。後ろを振り返ってもサタンは何の説明もせず、眠る姿勢のままだった。アジラフェルは少し考えると背中の羽を広げた。
翼はまだあるし白いままで、アジラフェルは自分たちがどうなったのかいまいちわかっていない。まあそれでいいのだろうと床を蹴って強く羽を羽ばたかせた。
もはやロンドンでは見られなくなった満天の星々の間を緩やかに降下する。アジラフェルは眼下に見える白い光を目指し翼を動かすが、いつまでたっても近づかない。おかしいと思い始めたところで突然空が白み始めた。
アジラフェルが一つ羽ばたき降下するごとに、空が光を湛え、星が霞んでいく。濃紺から青へ、青から水色へ、そうしてどんどんとあたりは明るさを増して、地上が鮮明に照らされていく。
突然近づき始めた地上にアジラフェルが目を凝らすと、地上と思っていたものは白い床で、白い光は人のかたちをとっていることに気づく。光の正体に思い当たったアジラフェルは急いでその光の下へ降り立った。
「面白いことになってきたね。わたしが始めたゲームなのに、手出しができなくなってしまった」
白い光はひとりごとのようにアジラフェルに語り掛けた。アジラフェルがどう答えていいかわからずに黙っていると、気にするなというように手を振った。
「こちらのはなしだよ。きみにはフォローが必要かと思ったのだけど、聞きたいこと、言いたいことはあるかな?」
アジラフェルはぱちぱちと瞬きをするとじっと黙って考えを巡らせ始めた。光は、出来の悪い生徒に対峙する教師のように黙ってその様子を見ている(ように見えた)。
なにも変化しない世界の中で、それでもたっぷりと時間が流れてから、アジラフェルはおずおずと口を開いた。
「どちらもありますが、もうしばらく自分で考えてみます」
「そう」
声は柔らかく、否定するでも肯定するでもないその答えに、アジラフェルは泣きたくなった。
「わたしの用件はそれだけ。メタトロンにいいように伝えておくから、しばらくは好きなようにしなさい。そして、悪いけれど、帰りももう少し羽を使ってもらうよ」
アジラフェルのすぐ横の床に、大きな穴が開いていた。二回目のそれに、アジラフェルも黙って羽を広げた。
アジラフェルが穴に飛び込むと、そこは地上、正確に言うなら地上から高度三千メートルの空中だった。びゅうびゅうと吹き付ける冷たい風に、必死で羽を動かしながらアジラフェルは自分の目に涙が滲んでいることに気づいた。風のせいだろうか。きっと違う。
アジラフェルは、くるりと体をひっくり返すと羽ばたきを止めた。重力に逆らわずに遠ざかりつつある空を見上げる。太陽を目に焼きつけながら、ずっと昔の誰かも同じような経験をしたのかと考えた。
そうして落ち続けるアジラフェルの体を、強い風がもう一度転がした。同時に雲を通り抜け、地上の様子が露わになる。そこはロンドンの中心部で、ビル群と公園の緑が入り混じっているのが見えた。ぼんやりと全体を眺めていたはずが、無意識にメイフェアのフラットに目を留めていることに気がついて、アジラフェルは苦笑した。
クロウリーに会わなくちゃ。
やっぱりわたしに彼の気持ちはわからなかったけれど、きっといまならおもしろい話ができる。
そうしてアジラフェルはもう一度翼を動かし、ゆっくり地上へと降り立って行った。