永遠は来ない

グラウンド・ゼロ

辻と犬飼

「でも、もう何の意味もないのにね」

 犬飼は笑ってそう言った。でも、意味があることなんてほとんどないのだと、流石に辻も気づいている。

 鳩原の処分が公表されて、二宮隊は降格した。だから今辻と犬飼がいるB級用の作戦室はどこか見慣れない。見慣れないが、ほかに居場所もなかった。辻はラウンジを渦巻く噂話に餌を提供する気はない。「コソ練でもする?」という犬飼の言葉に頷いて、最近は氷見も交えて連携の見直しばかりしている。

 本当に大変だったのは、鳩原の処分が公表される前だった。夜中に呼び出されて、事情聴取を受けて、作戦室を捜索されて、それから消失したトリガーの位置情報やら監視カメラやらの解析を受けて失踪者の目星をつけて説明をして。それが終わった今となっては、ほかの隊員の噂話などかわいいものだと辻は思う。そして多分、それよりも前、失踪前の鳩原こそが、きっと一番大変だった。

 全て後の祭りなのだ。愕然とする二宮も、非難する上層部も、どうにもならないことをあれこれ語っている。誰も気づかなかった。それが答えだ。あるいは未来視のSEを持つ人間なら? それでも過去は変えられない。

 だから辻は淡々と、狙撃手抜きの連携を体に馴染ませる。動揺しなかったわけではない。どうして、と思わなかったわけでもない。だけど全て、終わった話だ。

「まあ、ボーダーにいたんじゃ鳩原ちゃん遠征行けないだろうしねえ。でも一言欲しかったですね」

 鳩原失踪がわかったとき、二宮隊で最初に言葉を発したのは犬飼だった。二宮隊において、戦闘の指示を出すのは二宮だが、隊の雰囲気を作るのは犬飼だ。犬飼がそう言ったので、二宮以外の三人はそういう風に鳩原を扱うことに決めた。

「一言言われていたら流石に止めますよ」
「やっぱり? じゃあ仕方ないか」

 それで辻は鳩原を許した。氷見もこくりと頷いた。二宮隊、正確に言うなら二宮を除く二宮隊の中では、それで話は終わった。裏切られたと思わなくていい。怒らなくてもいいし、悲しまなくてもいい。犬飼は態度でそう示した。

 当たり前に鳩原のことが話題に上がる。二宮はほとんど反応しないが、犬飼が言うのだ。

「でも、もうほかに話せる人いないから。かわいそうじゃん」

 「外」がどうなっているのか知らないが、二宮隊は穏やかだ。「近界ってどんなところかな?」「絵はがきとか欲しい」「写真で良くないですか?」「元気だといいね」「弟も無事だといいけど」

 軽やかな会話だ。決して核心に触れることはない。例えば、トリガーのみで近界を移動できるのかとか、狙撃用トリガーで多人数を相手にできるのかとか、そう言う話は一切しない。それでも込められた祈りは本物だ。作戦室のテーブルは四人用に変わったが、ベイルアウト用ベッドは未だに四つ。鳩原の分のベイルアウト座標はきちんとB級の作戦室に設定しなおされている。

「意味はないんだけどね」

 犬飼はたまにそう零す。

「そんなものですよ」

 数字のゼロみたいなものだと辻は思う。ないことが必要なことがある。

 遠征に行きたがった鳩原が原因で遠征には行けなくなった。潔白が確認されたうえで二宮隊は降格した。今の二宮隊ならあるいは遠征に行けるのかもしれないが、そんなものに意味はない。鳩原への祈りが通じることはない。ついでに影浦隊の狙撃手に目の敵にされている。世の中はあべこべのちぐはぐだ。辻は意味のないものを穏やかになぞる。ゼロは穴だ。二宮隊に空いた穴は、今でもすうすうと風を通している。

知らなかったし知りたくなかった

影浦と犬飼

 犬飼が嫌いだ。興味がないなら近づくな。楽しくないなら笑うな。見るたびに影浦はそう思う。普段なら視界に入れないようにするし、話しかけられても無視をする。けれど今日ばかりは彼に話があった。

「鳩原はどうした」

 影浦は学校を早めにふけて、作戦室がある廊下で犬飼を待った。人気のなかったラウンジのざわめきが聞こえ始めたころ、ようやく犬飼が姿を見せる。六頴館の制服に通学用の鞄を持っているから、どうやら学校から直接本部に来たらしかった。

「ボーダーからのお知らせ見てないの?」

 犬飼は笑っている。いつも通りの笑みだ。そしていつも通り、楽しげな感情は刺さってこない。それに苛立ちながらも、影浦は微かに刺さる別の感情に気づく。警戒。

 なるほど。影浦は思う。犬飼は何かを知っている。そして犬飼も、影浦が気づいたことに気が付いた。より深く、感情が刺さる。痛い。痛いが、いつもよりはマシだ。

「ユズルが、鳩原が何も言わずにいなくなるのはおかしいと言っている」

 ゴールデンウィークが明けたとき、鳩原は退学したことになっていた。ボーダーからは除隊処分が発表されている。ユズルはただただ混乱していて、だから影浦はできるだけのことをしてやりたかった。

「例え本当に規則違反をしたんだとしても、その前に一言もないのはおかしいんだと」
「ふうん」

 つまらなさそうな相槌だった。

「じゃあカゲはこう言いたいわけだ」

 犬飼は笑う。一歩間違えれば人を馬鹿にしたような笑顔だ。

「鳩原ちゃんが何でも話せる弟子には一言も言わなかった事情を、二宮隊は知っているって」

 悲しいねえ。それはユズルくんも傷つく。

 押さえろ。影浦は自分に言い聞かせる。ただの挑発だ。実際に犬飼から刺さる感情に馬鹿にしたところはひとつもない。

「実際に何か知ってやがるだろ」
「どちらにせよ『知らない』としか言わないんじゃない?」

 こいつのこういうところが嫌いなんだ。影浦は心の中で叫ぶ。どうして「知らない」とか「言えない」とか、誠意ある対応ができないんだ。誰でもわかるような一般論が聞きたいんじゃないんだと、知っていながらどうして煙に巻く。

「話は終わり? おれもう行くね」
「待て」

 意識して息を深く吸う。犬飼は黙って影浦の言葉を待っている。犬飼から刺さるのは、警戒心と微かな苛立ち。影浦にはそれしかわからない。犬飼の内心も、考えも、影浦以外に向ける感情もわからない。何も知らないが、そのままでいるわけにもいかない。

「お前いま、鳩原のことどう思ってる」

 虚を突かれたように犬飼は目を丸くする。初めて犬飼から刺さる感情と外面が一致した。「心の中にあるのは感情だけじゃないぞ」というのは荒船の言葉で、けれど影浦の指針は揺らがない。何を考えているかではなく、何を感じているかが大事なのだと、影浦は信じている。

 しかし犬飼の虚脱は一瞬で、次に見たのはいつもの読めない笑顔だった。

「秘密」

 肌を撫でるのは知らない感情で、それを探っているうちに犬飼は軽やかなステップで作戦室に消えた。誰もいない無機質な廊下で、影浦は知りたくなかったと顔を顰めた。

永遠は来ない

二宮と犬飼

 二宮隊のコンセプトは単純だった。「二宮が点を取るためのチーム」だ。加古は「いっそ清々しい」と笑うが、人のことは言えないはずだと二宮は思っている。東から薫陶を受けたおかげで流石に一人で全てをどうにかしようとは思わないが、二宮がボーダーで有数の射手であることは間違いなく、それなら二宮を軸に作戦を立るべきだ。人を撃てない鳩原を隊に入れたのも、二宮が点を取ることができるならそれでいいと考えたから。さすがの二宮も寄られると弱いから、それを防ぐための遠距離からの援護を必要とした。あとは状況を整えるための中射程が一人欲しいし、その中射程を生かすためのアシストもいる。そうやって二宮は隊をつくった。

 そして最近、その隊員が一人欠けた。

「二宮さんの負担がちょっと増える感じですかね」

 二宮は残った隊員に隊を抜けるか尋ねたが、全員が首を振った。誰も新しい狙撃手をいれようとは言わず、当たり前に狙撃手抜きの戦略を話し出す。

「二宮さん寄られたら諦めてくださいね。辻ちゃんはおれにつけて下さい」
「馬鹿か」

 二宮は犬飼の軽口をそう切り捨てたが、気を使われていたのかもしれないと振り返って思う。犬飼は最初から冷静だった。第一報を聞いたとき、二宮は信じなかった。氷見は震えて、辻は呆然としていた。今の二宮隊の空気を作ったのは間違いなく犬飼だ。

 犬飼はいつでも自然体で相手に寄り添う。相手を損なわず、かといって自分が無理することもない。二宮はそこを信頼していた。つられて思い出すのはいなくなった狙撃手で、彼女は犬飼とは正反対だった。

「遠征に行きたいです」

 A級上位に上がり、ボーダーから明かされる情報が増えた。近界遠征もその一つで、そのことを知った鳩原は迷わずそう言った。

「そのためなら何でもします」

 そうは言ってもやることは変わらない。二宮隊の軸は二宮だ。点を取るのも、指揮を執るのも。だから鳩原は二宮に阿るように笑顔を作る。そんな必要はなかったのに。

 遠征合格が取り消されても、誰も鳩原を責めなかった。それは呆れではなく許しなのだと、鳩原は気づいていただろうか。遠征を希望していたのは鳩原だけだから、狙撃手を入れ替えるのは本末転倒だった。鳩原を遠征に連れて行きたいと二宮隊の全員が思っていた。

 あの頃の鳩原が無理をしていたのは知っていたが、誰にもどうにもできなかった。泣いて喚いてくれていたら、と二宮は思う。何かが変わっていただろうか。鳩原はへらへらと笑いながら自分を責めて訓練室に籠った。「他に道はないんです」そう呟いたことを二宮は覚えているけれど、結局鳩原は他の道に行ってしまった。二宮以外の隊の人間はどちらかというとそれを解放と捉えたが、二宮はそれを許せずにいる。

 そうして二宮が行動しているのを知りながら、隊の人間は放っておいてくれている。二宮が集めた隊員は賢く、他人に介入しない思慮深さがあった。あるいはそれが鳩原を追いつめたのかもしれない。

「無理はしないでくださいね。最近顔こわいですよ」

 辻と氷見が帰った作戦室で、犬飼は真っすぐに二宮を見つめる。珍しいことだった。犬飼から渡されるのは遠回しな気遣いが多い。わざわざ二人きりのときに、こんな風に向き合って話すことは滅多にない。

「無理はしていない」

 本当だった。大学も任務も手を抜いていない。空いた時間に調べ物をするくらいだし、そもそも何の権力も持たない二宮にできることは多くない。

「行動じゃない方ですよ」

 今度は迂遠な言い方だった。恐らくはストレスとか、心情とかの話だろう。

「それはどうにかできるものなのか?」

 どうにかできるならこんなことはしていない。

「話を聞いたりできますよ」

 なるほど、と二宮は思う。確かに犬飼はしばしば鳩原の話題を振ってくる。黙って転校していった同級生、くらいの扱いで、「やっぱり一言欲しかったよね」や「元気でやっているかな」などと話すのを馬鹿らしいと思っていたが、辻や氷見の息抜きやカウンセリングの意図があったのだろう。

 それで二宮は眉を寄せた。辻も氷見も理性的で落ち着いていて、何より素直な人間だった。そして犬飼はそうではない。明るく社交的で、しかし扱いやすくはないことに今更思い至る。犬飼は自然に相手に合わせる。戦闘においても盤面を整えるのが仕事だ。そうすると、犬飼自身のことが見えなくなる。犬飼が自ら弱みを晒さない限り、二宮が気づくことはできないだろう。普段の犬飼なら「今回のテストやばかったです」などと軽く口にするが、最近は犬飼の弱音を聞いた覚えがない。

「お前は?」

 犬飼はへらりと笑う。

「やだなあ話逸らさないでください。二宮さんの話をしてるんですよ」

 犬飼の表情は笑顔のまま固まっている。犬飼は二宮とは別方向にプライドが高いのだと、流石の二宮も気づいている。

「わかった。じゃあ話をする」
「へ?」

 犬飼に席に着くように指示を出して、簡易キッチンでコーヒーを淹れる。「おれがやりますよ」と言う犬飼を無視して、ミルクと砂糖を一つずつ入れたコップを二つ、テーブルの上に並べた。

 さて何を言えばいいのだろうか。犬飼の向かいの椅子に座りながら二宮は考える。

「睡眠はとれている」
「よかったです」
「お前は?」

 犬飼は困ったように眉を下げた。

「これ、交互に話す感じですか? お見合い?」
「俺が話をする。お前も話をする。それでいいだろ」

 犬飼はこういうときに逃げる人間ではなかった。それなら二宮の勝ちは決まっている。黙る犬飼に、二宮は一方的に口を開く。

――鳩原は、賢くはないだろう」
「ひどい言い草ですね」
「事実だ。遠征のことだって知らなかった」

 近界遠征は一部の人間にとっては周知の事実だが、ボーダーの全員が知っているわけではない。二宮は元々東隊にいたから早いうちから知っていたが、二宮隊の人間に伝えたのはずっと後だ。そのときの鳩原の驚愕と希望に満ちた顔が、演技だったはずはない。

「遠征が取り消された後も、訓練を続けていた。他の手段を思いついたはずがない」

 普段の鳩原は鈍い。声をかけたとき、返事はいつも一拍遅れた。別にそれで構わなかった。狙撃手に必要なのは、何分でも何時間でも同じ姿勢で的を狙う粘り強さだ。スコープの中の一点さえ見えていればそれでいい。そしてたとえ成果がなかろうと、鳩原は努力をやめなかった。

「それがどうしてあんなことができる?」

 二宮にはそれがわからない。あの努力は何だったのだろう。憔悴した顔で、それでも笑顔を張り付けて「何とかします」を繰り返していたのは何だったのだ。

 今まで築き上げた信頼と努力を放り出して、鳩原は消えた。二宮はただ、その理由が知りたい。

 犬飼は黙っている。二人とも、コーヒーに口をつけることはない。もう湯気は消えているから、このまま流しに捨てることになるだろうと二宮は思う。

 時間が過ぎていく。犬飼は喋らなかったし動かなかった。二宮はじっと犬飼の顔を見つめ続けた。

 そうしてようやく犬飼の口元が小さくわななく。

「ずっと考えているんですよ」

 犬飼は笑った。鳩原の、無理矢理口角を上げただけの笑顔とは違う。ごく自然な、美しい微笑み。それでもそれは偽物だった。柔らかくたわむ目元に、濃い感情が滲んでいる。

「おれがボーダーをやめるときに、どうやって鳩原の記憶を持ち出すか」

 二宮は、決着をつけたかった。犬飼は違うのだと、その目が訴えている。普段は澄んでいる瞳が、深い色を浮かべている。怒りなのか、悲しみなのか、呆れなのか、恨みなのか、あるいはその全てなのか二宮にはわからない。ただ、犬飼はあの日からずっと、後生大事にそれを隠し持っている。そして永遠に、その感情を抱え続けるつもりなのだ。風化させることなく、ずっと。

 目を見開く二宮に、ぱっと犬飼は表情を変えて見せた。人懐っこい笑顔だ。澄んだ瞳が明るく輝く。

「お互い頑張りましょう、ってことで。二宮さん辛かったらいつでも言ってくださいね」

 犬飼は冷めたコーヒーを一息に飲み干す。ぎゅっと顔を顰める顔は幼い。

「コーヒー冷めちゃいましたね。二宮さんの分捨てちゃいましょうか?」
「いや、いい」

 二宮もコップに口をつける。冷めたコーヒーは酷く苦い。毒でも呷っているようだった。犬飼は二宮からコップを取り上げて簡易キッチンへ向かう。その背中を眺めながら、少なくとも彼がいなくなることは永遠にないのだと二宮は安堵した。

ボーダーライン

水上と犬飼

「ところで」

 犬飼は唐突に声を上げた。

「水上はどこまで察してる感じ?」

 今シーズンのB級ランク戦では、当たり前のように二宮隊と影浦隊が上位についた。生駒隊はB級一位から陥落し、変動した順位に合わせてトリオン体の隊服が変更される。目立つ部分ではないからそのままにするか、いっそ順位の表記を消したいと思ったが、そういう訳にはいかないらしい。

 その手続きの場に居合わせた犬飼は、にこにこと笑いながら水上に問いかける。トリオン体の登録を担う開発室から作戦室までの道のりに人は少ない。同時に開発室を訪れた生駒たちは、犬飼に気を使ってさっさと作戦室に引き上げたから、廊下を歩いているのは二人だけだ。多分狙っていたんだろうなと水上は察した。

「んー? 察しちゃあかんってことはわかるで」
「あはは」

 正解とも不正解とも言わず犬飼は笑う。頭の回転が早いが、王子とは違うタイプだ。犬飼は同学年だが、学校も違うしランクも違う。お互い銃手と射手だから個人戦もしないので、今までほとんど接点がなかった。今後は会話も増えるだろう。二宮隊はB級に降格したし、恐らくしばらくはそのままだ。

「ラウンジの噂教えたろか?」
「それは知ってる」
「知っとるんかい」

 普通、噂を本人に話す人間はいない。それを把握しているというなら、綱紀粛正の通達とか、隊長会議の内容とかも知っているのだろう。定例の議題に付け加えられた一言。隊長は隊員の日常生活にも目を配ること。生駒はあらゆることをそのまま喋るので、水上も内容を知っていた。

「当真は『今回はマジで知らねー』で、影浦はイライラしとった。当真の言うとることが本当かはわからんけど、A級なら知っとるわけやないらしい。公表された処分は鳩原一人のものやし、隊を解散しとらんから二宮隊は無関係。だけど降格しとるなら内容は知っとる。鳩原は退学。休学やないってことは三門におらんか戻らんかがはっきりしとる」

 何を聞きたいのかは知らないが、水上はわかっていることをつらつら話す。

「『こっち』の問題やない。『あっち』絡みや。これ以上言いたないわ」

 そもそも内容が言えない規律違反など早々ない。例えば公表すると同様の違反を誘発する可能性があるとか、まで考えて水上は三門の悲惨さを思い出した。

「じゃあ王子とかも察してるかな?」
「知らん。そこまで興味あるようには見えんけど」
「確かに」

 犬飼は黙った。用が済んだのだろう。横顔はごくごく静かで笑みもない。影浦にもそういう風に接すればいいのにと思うが、他人が口出すことではなかった。

 沈黙は苦ではないが、水上にも尋ねたいことがあった。いい機会だと口を開く。

「そう言えば、ハウンドとスコーピオンは自主的に入れてるん?」

 ある試合で、海に左腕を落とされた犬飼は銃を右手に持ち替えた。そこまでなら銃手には当たり前の挙動だが、胴体から生やしたスコーピオンで海の弧月を止めたのも、射手用のハウンドと合わせて海を集中砲火したのにも驚いた。あとから北添に尋ねたが、銃手のトリガー構成でもあまり見ないタイプらしい。

「うん。おれの判断」
「ようやるわ」

 ちらりと横を見ても、犬飼の表情は変わらなかった。例えばA級の三輪などは近界民は敵だと公言して憚らないが、そういう憎悪があるようには見えない。両手がなくなっても戦いたい戦闘ジャンキーでもないだろう。それならただの合理性だろうか。

「引き際見極めきれんような人間やないやろ」

 ハウンドを使うのは両腕がないときで、スコーピオンは片足がないときだろうか。そんな状況は滅多にないだろうし、そんな体でまともに相手を倒せるとは思わない。悪足掻き、あるいは行き過ぎた慎重さだと水上は思う。ほかの銃手がそうしていないのがその証拠だ。海は落とされたけれど。

 防衛任務に終わりはないのだと、ボーダーに入って早々水上は気がついた。トリオン兵は毎日やってくるから、倒すことではなく死なないことのほうが重要だった。駒交換は存在しない。王手も詰めも寄せもない。見据えるべきは「最後」ではなく「その先」だ。いつかの先には決死の覚悟が必要になるの可能性があるのだとしても、それは近い将来ではないように思える。

 そもそも将棋でも「最後まで」やることはないしな、と水上は思う。負けを悟った時点で投了する。それをしないのは先が読めない馬鹿だという自己申告にしかならない。

「引き際はねえ、もう過ぎちゃってるの」

 犬飼は明るく笑った。

「最後までやるしかないんだよ」

 水上はその笑いに覚えがあった。追いつめられて、なすすべのない人間の笑いだ。そしてそれは、三門市においては身近なものだ。あれだけの侵攻を受けてなお逃げ出すことのできない人間たちのやけくその日常。

 三門に来て、地元と違うと思うことはたくさんある。テレビのCMも休日に出かける繁華街も高校の雰囲気も違う。独特なのは、家族や家の話をするハードルが高いことだ。本人が話すまで聞かないことがマナーになっている。うかつに尋ねると「死んでる」とか「仮設住宅に住んでいる」とか言われるのだと教えてくれたのは、県外からの人間だった。

 申し訳ないとは思うが、水上はその空気に安堵した。ここでは誰もが言いたくないことを抱えていて、それに触れない技術を身に着けている。家族のこと、家のこと、それから過去のこと。

 水上は、かつてプロ棋士を目指していた。

 正確に言うなら、プロ棋士になれると思っていた。この二つの差は大きいと、将棋から距離を置いて改めて気づいた。初段の次は二段だし、二段の次は三段だ。ずっと先までそれが続くのだと、水上は無邪気に信じていた。例えば、春から夏が来るのを疑ったことがないように。それが幻だと気づいたときに、それでも進む覚悟が水上にはなかった。

 必要なのは覚悟ではなくて、執着のほうだっただろうかとたまに思う。悪い意味ではなく、三門の住民は地元への愛着を捨てきれない人間が多い。仕方ないのだと彼らは口にした。そして水上も、将棋盤を捨てきれなかった。それがわかった今ならもう一度プロを目指せるだろうかと考えないでもないが、三門に来なかったならそもそもそういう発想には至らなかっただろうと割り切った。

 沢山傷ついて挫折して諦めて、それでもできることをするしかない。三門にはそういう暗黙の了解がある。

 犬飼の傷はどこにあるのだろう。侵攻によるものか、あるいは鳩原の規律違反によるものか。知らなくてもいいと水上は思う。水上だって自分の過去を話すつもりはない。だから言えるのは一言だけだ。

「ならしゃあないな」

 何も知らないが、犬飼が思うようにできたらいいと水上は祈る。それはついでに、過去の自分への慰めでもあった。