人に
プロローグ
咄嗟のことだった。
皆守は急いで腕を伸ばす。その先にいるのは《転校生》だ。突き飛ばすように背中を叩くと《転校生》が一歩よろめく。その一歩分ずれた空間を蚊欲の鋭い牙が噛み砕く。
その一連の動きがコマ送りで再生される。自分で行動を起こしておきながら他人事のように、あるいは人生の一大事に居合わせているように、ひとつひとつの動きをやけにはっきりと見ることができた。
そして理解が湧きあがる――ずっとこうしたかった。
何度も通った遺跡だった。土と埃、湿った匂い、そのすべてに覚えがあって、知らないことと言えば前を歩く《転校生》と八千穂だけだ。見慣れた、皆守にとっては慕わしいとすら言える遺跡を、《転校生》は切り開くように歩いていた。
その背中を眺めながら皆守は考えていた。少なくとも、これで――皆守がここにいることで、即座に処罰が実行されることは無くなるだろう。今夜、《転校生》が死ぬにしろ生きるにしろ、八千穂の無事は保証される。
転校二日目にして遺跡に踏み入った墓荒らしはともかく、同級生が、しかも人助けをしようという生粋のお人好しが処罰を受けるのは目覚めが悪い。そのくらいの感情は皆守だって持ち合わせていた。皆守はそっと息をつきながら、同時に自嘲する。――いつか必ず、処罰は実行されて墓荒らしは死ぬのに? この延命措置に何の意味があるのだろう。この先で待ち構えている取手が救われるなんて思ってもみないくせに、何を見届けようというのか。
それでも皆守は衝動的に葉佩を助けた。地面をしっかりと踏み直した葉佩は銃を構えて蚊欲に向ける。あっという間に塵と化したそれを見届けることなく葉佩は次の敵へと向かう。
「サンキュ」
その間際、走り出しながらの一言に皆守は愕然とする。
安堵と達成感。久しく知らなかった感情が皆守の胸に湧き出て、ひたひたと心臓を浸す。
それが潤いだと、今まで乾いていたのだと気づいてしまえばもう駄目だった。さっき触れたアサルトベストのナイロンの感触、その内側の人の輪郭が手のひらにまだ残っている。手は宙を彷徨い、そうして落ちる。
「ああ……眠い」
苦し紛れの声は掠れて、真実眠たそうに聞こえた。
14
誰かに、特定の誰かに何かをしてやりたいという思いは恋だろうか。あるいは、特定の誰かに何かをされてうれしく思う気持ちは。
皆守は屋上で貯水槽に凭れて目を瞑る。九月も終わり、風は冷たいが太陽はまだ温く、黒い学生服が熱を吸収して暑いくらいだ。
空の色は夏のくっきりとした青から、秋の薄く高く伸びた色へと変わっている。それを瞼の裏に思い浮かべながら、皆守はこの間の出来事を反芻する。
自分が誰かに親切にしたなんて嘘だ。
そう思いたいのに、皆守の手はまだあのアサルトベストの感触を覚えている。あるいは、思い出したいと思っている。
どうしてだろう。葉佩が特別なのか、それとも、特殊な状況に突き動かされただけで元々皆守が持っていた感情だったのか。
何一つ分からないまま皆守は胎児のように体を丸める。
何事もありませんように。何の事件もなくこの静寂が乱されませんように。もう二度とあんな状況が起こりませんように。遠くで終業のチャイムが鳴っても皆守は屋上から動くことなく沈黙に蹲り続ける。
体を温めていた太陽が傾き、冷えた風がじわじわと熱を奪っていく。それでも皆守が屋上から動けずにいたところで、きいと鉄の扉が開く音が聞こえた。それから足音が。
足音は大股で、少しだけ早足。それが威圧的に聞こえないのは跳ねるような軽やかさがあるせいだ。目標に向かって迷うことなく進む足音を耳にしていながら皆守は目を閉じ続ける。
足音の主を知っていると思った。
「皆守」
そして想像通りの声が降ってくる。仕方なしに目を開けると、葉佩が太陽を背にして立っていた。鞄を二つ、片手ごとに下げていて、つまり一つは皆守のものだ。
「もうホームルームも終わったぜ」
「寝てたんだ」
「だろうな」
ほんの少し眉を下げて、葉佩は皆守を待っている。体を起こすと薄く微笑まれて、それがどうにも気まずかった。手を伸ばして鞄を受け取ると、「教科書とか、何にも詰めてないけど」と補足された。
「もともと持ってきてないんだ」
薄い鞄は三年使ったにしてはきれいなままだ。傷も、使い込まれたヨレもない。それを引っ提げて立ち上がって、スラックスの汚れを払う。
「こんなこと、しなくてもいいんだ」
なんだか負け惜しみのようだ。そう思いながらも口にした言葉に葉佩はただ笑うだけだ。
「皆守が言ったんだろ。放課後はさっさと帰れって」
「ああ……そりゃそうだ」
そう忠告したのは確かに皆守だ。それが放課後も居座っているようでは心配もされるだろう。
「皆守には世話になったし、同じ帰宅部の誼ってやつ」
「どうも。何かした覚えもないがな」
有り難がっているとは言い難い声が出たが、葉佩は気にした様子もなく笑う。遺跡に潜った夜から、葉佩はこうして皆守に話しかけるようになった。生活のちょっとした隙間から気に掛けられていると感じる。それは決して静寂でも安寧でもないが、だからといって排除するほど悪いものとも思えない。
何かが巡っていると感じる。あの日皆守の起こした衝動が波紋となって広がり、そうしてどこか、遠いところで反射して新たな波となって帰ってくる。そんなイメージ。
その波に体を浸して、皆守はわずかに身震いする。このむずむずと落ち着かない気持ちは何だろう。
喜びと言うにはあまりに恐ろしく、恐怖と言うにはあまりに甘い。
「じゃあ、行くか」
これが恋だと言うのなら、恋というのは人類の手に負える感情ではないのだろう。
夕陽を背負った葉佩が「おう」と笑う。彼が微笑んでいるという事実に微笑んで、皆守はその気持ちを忘れることにした。
13
こんなにも、と思う時点で負けている。
そもそも葉佩が《転校生》である時点で、皆守の言うことなど聞く道理はないのだ。それでも言わずにはいられなかった。
「俺なんか、庇う必要はないんだよッ」
マミーズで起こった爆発騒ぎのときだ。
爆発だろうが何だろうが、皆守を庇う必要など本当になかった。皆守はあの爆発を避けることができたし、何なら爆発に巻き込まれても無事でいられた。隣にパニック状態のウエイトレスがいるなかで、わざわざ皆守を庇う必要がどこにあったのか。そのつもりで言い募っても、葉佩は真剣に怒るだけだ。
「『俺なんか』ってどういう意味だよ。自分を大事にしろ馬鹿」
皆守はそれに絶句するしかない。皆守は自分のことをきちんと把握している。《生徒会》の《副会長》で、《墓守》で、《力》の持ち主だ。その立場から言っているのに、何も知らない葉佩は怒る。葉佩は何も知らないのだ。その実感が、何も知らないのに、という滑稽さを押し流していく。何も知らないのに、葉佩は皆守のことに真剣だった。
あまりに呆然としていたせいで、反論を思いついたのはその日の夜、遺跡で椎名と対峙する葉佩の背中を眺めながらになってしまった。
葉佩は死ぬのが怖いと言う。怖いと言いながら決して椎名の正面を譲ろうとはしなかった。何も知らない少女の問いかけに真正面から答えて見せた。
それじゃあおまえは何なのか。おまえは、自分のことを大事にしているのか。俺がいま、おまえが死ぬのを恐れていることを知っているか。俺が本当に、ほんとうにおまえが死ぬことを恐れていて、今この瞬間もばくばくと心臓が怯えているのを知っているか。俺がどんな気持ちで遺跡に行くのをやめろと言ったか知っているか。
なあ、おまえが俺に怒ったのと同じように、俺がおまえに怯えているのを知っているか。俺がおまえに遺跡に行ってほしくないと言うのは、おまえが俺に自分を大事にしろと言うのと何が違うんだ。
おまえが大事にする自分はどこにいるのか。あまりにもあっさりと危険に身を晒して、それで何を得るつもりなのか。
言葉は何一つ届かず、皆守にできることと言ったらただ小さく呟くだけだ。
「ああ……眠い」
どうしてこれしか言えないのだろう。こんなにも、こんなにも無事でいてくれと願っているのに。
12
同じであることは親近感の始まりだ。それが正だとするなら、こんなにも葉佩の返事を求める皆守は葉佩を好きになりたいのか。
「なあ、葉佩?」
今日はやけに葉佩にこう問いかけた日だった。朝から八千穂のふざけた話を聞いたとき、女子寮の見回りを押し付けられて面倒がっているとき、葉佩にこう問いかけると彼は同意するように皆守に笑いかけた。
そして今、皆守は女子寮を覗いていた男へひっ捕らえると宣言し、それから葉佩へ問いかける。葉佩は「おう」と頷いた。それは力強くはっきりとした声で、皆守はほっと息をついて二人で覗き魔と対峙する。
同じ船に乗っている。皆守は思う。この日ばかりは皆守の敵は葉佩の敵で、葉佩の敵が皆守の敵だ。ついでに八千穂と女子全員の敵でもある。
葉佩を手助けするのに躊躇は要らない。あるいは、葉佩を――好ましく思うのに? 皆守はそこまで考えて首を傾げる。
とにかく、墓を逃げ場所にして生徒の半分を敵に回すような行為を許すのはよくない。皆守はため息を吐いて応援を呼ぶメールを送った。
もし、葉佩に問いかけた返事が違うものだったらどうしただろう。苛々と地面を蹴り葉佩を待ちながら皆守は《転校生》の「もし」を考える。なあ、と問いかけた返事が想定外のものだったなら。
好ましく思っただろうか。あるいは嫌いになっただろうか。それとも興味深く思っただろうか。
――興味。
そう、それだ。皆守は夜の闇の中で一人頷く。興味がある。外から来た男、金でもスリルでも名誉でもないもののために命を危険にさらす男に。今日の問いかけも、そういった動機だったのかもしれない。
――それでも、あの問いに返事を貰えた瞬間の心強さと言ったらなかった。皆守は遠くに駆け寄ってくる大股の足音を聞きながら人影に向かって手を振った。
11
この気持ちを知ってくれ、と言うのは馬鹿だ。けれど、この気持ちを恥ずかしいと思うことも同じくらい愚かだ。
皆守は自分にそう言い聞かせる。内心というのは皆守の内側にしかない。だから葉佩が知るはずもないのだと。そうして何事もない風に屋上で目を瞑る。
昼休みのチャイムが鳴ってしばらくすると、鉄の扉が開く音がする。それから早足の足音が。武器も何も背負っていない、軽やかな足音だ。
それが皆守の許へ近づいてきて、それから立ち止まる。
「皆守、カレーパンいる?」
声が聞こえてから皆守は目を開ける。一度カレーパンを強請ってからというもの、葉佩は時々こうして皆守に食料を渡しに来るようになった。返礼品のカレー鍋によほど感動したのか、あるいはそういうものだと刷り込んでしまったのか。
「もらう」
ともかくそう答えると差し出されたのはカレーパンと緑茶のペットボトルで、そこまで頼んだことはないのに、と皆守は愉快になりながら有り難く受け取る。葉佩がその様子を眺めているのに、「まあ座れよ」と隣の空いているスペースを指さした。屋上なのでどこでも空いていると言えば空いているのだが、わざわざ遠くに座ることもないだろう。こういうとき、葉佩が自分の分の食料も持ってきているのは学習済みだ。
葉佩は面白がるように「お邪魔します」とコンクリートの上に胡坐をかく。葉佩はなぜか探索にカレーパンと焼きそばパンを持ち込むので、昼はそれ以外のあんぱんなんかを食べている。
「皆守ってカレーなら何でも好きなの?」
皆守はカレーパンの包装を破りながら、その問いかけをくすぐったく思う。葉佩が自分に興味を持っていることが、何故か特別なことに思える。
「何でもってわけじゃない」
「でもカレーパンは好き?」
「好きだな」
好き、だなんて。何ら特別ではない単語のはずが妙に気恥ずかしい。
「ふうん」
「何だよ」
「お近づきになれて嬉しいなってだけ」
「そうかよ」
皆守の不貞腐れたような返事にも葉佩は笑う。いつも少しだけ笑みの形に撓んでいる目がはっきりと細められて、くしゃりと顔が歪む。それが彼の笑みだともう知っていた。
知っていると知られたなら、そんなことをわざわざ確かめるように覚えていると知られたのなら、葉佩はどう思うだろう。彼の一挙手一投足に、彼に相対する自分の一言ひとことに、いつでも神経を尖らせている。その意識を恥ずかしいとは思いつつ、皆守は素知らぬ顔で頷くだけだ。
「あの鍋でカレー作ったなら教えろよ。品評してやるから」
「え、おれが作るの?」
「当たり前だろ、もうおまえの鍋なんだから」
「おれ、皆守にご馳走してもらえると思ってたのに」
「まずは俺を唸らせるカレーを作ってからだな」
「えー難しそう」
彼のその評価が嬉しくて、皆守はふふんと笑った。
「実際そうだぜ。まあ、楽しみに待っておくさ」
10
慣れてきた。八千穂がトラブルを持ち込むことにも、葉佩の存在にも、あるいは暴走する執行委員にも。
でも、これはそれとは関係のない話だ。
「皆守、葉佩知らないか?」
放課後、鞄を取りに保健室から教室に戻ったところでクラスメイトにそう声をかけられて、皆守は胡乱げに相手を見つめ返した。最近はこういう問いかけばかり聞く気がする。
「知らない」
一言言えばひるむかと思ったのに、男子生徒はふうんと頷くばかりだ。
「じゃあ数学のオザワが探してたって言っといて」
「はあ? なんで俺が」
「見当たらねーもん。鞄はあるんだけどさ」
「おい、俺だって知らないんだよ」
「おまえら帰宅部だし仲いいじゃん。俺もう部活行くから」
わざわざそのために教室に残っていたらしい。男子生徒は鞄を片手にぱたぱたと教室を出ていき、残されたのは皆守一人だ。
皆守はため息をついて自分の机に腰かけた。葉佩の机にはクラスメイトの言う通り葉佩の鞄が乗っかっている。生徒たちが下校し人気のない教室で、その机だけが存在感を主張していた。真新しく、キーホルダーも何もついていない鞄は皆守のものより分厚い。黒い革がてかてかと夕陽を反射している。いつかとは逆だと思う。
「……何をしているんだか」
放課後は速やかに校舎から出ろ、そう言ったのを忘れたのだろうか。そもそも教師に呼び出されるとは何をやったのか。内心でそう悪態をつきながらも、別段嫌な気持ちにはならなかった。彼に関することで当たり前に自分を頼られる、その事実が誇らしかった。仲がいい、と称されたことも。他人が気軽に接してくる拒否感を退けるほどに。
ほかの人間が葉佩のことで皆守を頼るように、葉佩自身も皆守のことをそう認識していればいい。頼れる人、親しい人として。
自負と願いの二つの心は正反対に走り出して、その間で引っ張られるようにして皆守の心はゆらゆら揺れる。どうして正反対のことを思いながらこの心は静止してくれないのだろう。ぼんやりと葉佩の机を眺めていたところで遠くから聞こえる足音を聞いた。
大股で早足の、跳ねるような足音。それで皆守の心臓はただ一方向へと一目散に駆け出した。葉佩の机から視線を外し、教室のドアを一心に眺める。
「遅いぞ」
ドアが開くのと同時にそう言ってやると、きょとんとした葉佩と目が合った。
「皆守じゃん、どうしたの?」
「伝言預かってるんだよ。オザワがおまえを探してるって」
「ああ」
そう言いながら葉佩は自分の机に近寄ると鞄を掴む。
「じゃあ入れ違いだ。さっきまで話してたところ」
「何の用だったんだ?」
「この間の宿題のこと。行こうぜ」
葉佩が当たり前の顔で皆守を見る。もう待っていてやったことに言い訳は必要なくて、皆守はただ「遅いんだよ」とだけ繰り返した。葉佩が「ごめんって」と笑う。そうして並んで教室を出た。
9
自分が不安定な場所に立っていることを知っている。
しかし、どうしろというのか。皆守は休日に届いたメールに目を眇める。送信元は葉佩九龍。内容は「昼もう食べた?」の一言だ。気に掛けられている、その事実に妙な優越感が湧いて、それからその先を想像して気分が沈む。
葉佩が《転校》してきてからもう二か月近くが経ち、葉佩は順調に遺跡を攻略しつつある。執行委員がすべて倒されるのも時間の問題だろう。その先に待ち受けるのは生徒会役員であり――つまり、皆守自身だ。
衝動から始まった現状は行く先が分からないまま未来へと続いていく。阿門は《転校生》への警戒を強め、ファントムを名乗る謎の存在が學園をかき回す。
それでも皆守にできることは現実に流されることだけだ。「まだ」の一言だけメールを返す。どうせそのうち葉佩が訪ねてきて、マミーズに行こうと誘われるに違いないのだ。
その予感は違わず、皆守の部屋にノックの音が響いたのはメールを返信した五分後のことだった。
「皆守、マミーズ行こうぜ」
ドアの外の遠い声を聞きながら、皆守は声を張り上げて返事を返す。
「今行く」
ちょうどベッドから降りて着替えを終えたところだった。鍵と財布を引っ掴み皆守は部屋を出る。休日の昼過ぎ、ブランチにも遅すぎる時間だがこれが皆守にとっての朝食兼昼食になる。葉佩にとって何なのかはよく知らない。
マミーズでは運よく四人掛けの席に案内されて、向かい合って座る。案内した舞草に葉佩が「注文良いですか? カレーライスと、皆守もカレー? じゃあカレーライスふたつ」とさっさと注文してしまう。それから頬杖をついて首を傾げるようにして皆守を見た。
「皆守っていつも何時に起きてるの?」
「八時」
「早いじゃん」
「で、二度寝する」
「なんだ。一瞬でも見直して損したな」
「見直したのかよ」
「したって。前半だけ聞けば八千穂だって大声で褒めてくれるさ」
「あいつはいつだって褒めるときは大声だろう」
「たしかに」
おまえはどうなんだよ、そう聞く前に葉佩が笑いながらテーブルに置かれた季節限定のメニュー表をまとめていく。その様子に、いい加減に言おうとしていたことを思い出した。
「別に、無理してカレーにしなくてもいいんだぜ」
「え?」
「カレー。俺に合わせなくてもいいんだ」
「好きで選んでるんだよ」
「……ほかのやつといるときはカレーじゃないだろう」
「なに、見てたの?」
「嫌でも目に入る」
なんだか今の台詞はいつでも葉佩を目で追っている風ではなかったか? 皆守がそう反省するのを知らないまま葉佩は肩を竦めた。
「別に、一緒にいる人のおすすめを食べることが多いってだけ。そのほうがおれもみんなも幸せじゃん」
「なら、一人のときは?」
葉佩がにやりと笑う。
「カレーかな」
「ほんとかよ」
「ほんとだって」
思わずテーブルの下で葉佩の足を蹴ると、葉佩が軽く蹴り返してくる。蹴り合いが最終的に靴先を合わせた押し合いになったところで舞草がカレーを運んできた。
「なんか、男子高校生って感じですね」
カレーをそれぞれの席に置きながら、舞草はくふふと笑う。見られていたのかと足を引いても、葉佩は平気な顔をしている。
「そのものだからね」
「そうでした! ではごゆっくりぃ」
舞草が去っていくのを不機嫌な顔で見送ると、葉佩がもう一度靴先を蹴る。
「機嫌直せって」
こいつを嫌いになれれば話は早いのに。嫌いになりたい。叶わない願いを胸に、皆守は葉佩の困った笑顔に絆される。
そう願うのは、彼に嫌われるのを最も恐れているからだ。皆守の考える最悪の局面。
それでは今は嫌われていないのか? そうだ。とはっきり言えるのがまったく可笑しな日常だった。
8
「皆守といると、なんだか自分が酷いことをしているような気がする」
フライパンに肉を放り込みながら葉佩が言った。
「はあ?」
皆守にはこう言うことしかできない。
寮の葉佩の部屋だった。最近は探索終わりに夜食を食べるのがブームになっている。料理をするのはもちろん葉佩で、焼いた肉だとか、スコーンだとか、丼ものだとか、遺跡で拾った食材がそれなりの見た目になって皆守に差し出される。
今日はステーキだった。フライパンからは肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。材料に関しては、皆守はもう見なかったふりをすることに決めていた。この肉の匂いも、本当に牛のものなのか深く追求することは避ける。
「皆守があんまり何もかもをしてくれるもんだからさ」
「俺が何をしたって?」
皆守は葉佩の学習机に肘をつきながら問いかける。探索帰りで疲れ切っているが、ここで横になろうものならもう目覚めない自信があった。葉佩が作業をしている中で寛いでいるのも気分が悪いし、何より葉佩が皆守の前で細々とした作業をしているのを見るのが好きだった。眺めているだけで心が弾み、同時に落ち着く。
「覚えがない?」
キッチンから葉佩がちらと皆守を見る。
葉佩はいつでも少しだけ目が撓んでいる。笑っているような、眩しそうにしているような、そういう目だ。だから一見親しみやすく見えるのに、いざ話をするとなるとどこか素っ気なくばっさりとした語り口をしている。今の問いかけも、わかっているだろうとでも言いたげだ。
その眼差しもざっくばらんな口調もくすぐったいが、それでも皆守には心当たりがない。「ないね」と返すと葉佩の目がますます撓む。
「じゃあ自覚なくおれに優しくしてくれてるの?」
今度ははっきり笑いを含んだ声でそう言われて、皆守は渋面を作る。これが優しさなどであるものか。皆守が葉佩に何をしたって、それはそうしたいという衝動と下心と排他性によるものだ。葉佩のことを思ってしたことなど、いくらあるだろう。
「俺が優しい?」
葉佩は肩を竦めた。同時に右手のフライ返しがひょいと揺れ、綺麗なスナップで肉がひっくり返る。
「優しいだろ、何もかも。いま皆守がここにいることだって」
「訳が分からん。それじゃあおまえが今やっていることは何なんだ」
葉佩の焼く肉が二枚あることくらい、皆守は見なくても分かる。やり返したつもりだったのに、葉佩は機嫌よさげに笑うだけだ。
「おれは好きでやってるんだよ」
そう言われると、皆守は本当に困ってしまう。恋した人の言葉なら何だって嬉しいが、好きだなんて、単語を聞くだけで手一杯だ。皆守はこの恋が成就するところなんて想像もしていない。想像しなくてもいいくらいに日常が満ち足りていたはずなのに、現実はいつだって皆守の想像を超えてくる。
「なら、俺も好きでやっているんだろうさ」
そう言い切るには少しばかりの勇気が必要だった。言ってみても世界が一変するなんてことはなくて、ただ葉佩の柔らかい瞳に見つめられるだけだ。
「ならお揃いだ」
葉佩の口元が薄っすらと笑みを刷く。柔らかい瞳と合わせてその表情があまりに完璧で、見つめられているのが嬉しくて、言葉の意味が分からなくて、そのすべてに戸惑って皆守の時間が静止する。それなのに差し出されるのは場違いなステーキの皿だ。
「ほら、できた。冷めないうちに食べよう」
皆守は問い詰めることなくため息ひとつで問答を終わらせた。ナイフなんて上等なものはこの泥臭い男子寮には存在せず、箸とフォークで四苦八苦しながらステーキを切って口にする。
「次はカットステーキにしろよ」
「そうする」
銃の保管箱を椅子にして隣に座る葉佩も食べにくいな、と言いながらステーキを齧っている。皆守は横目でその様子を確かめる。
お揃いって何だよ、そう尋ねる勇気は皆守にはなかった。
7
誰かと気持ちが釣り合うなんてこと、ありえないだろう。
皆守の視線の先では葉佩が八千穂とはしゃいでいる。
休み時間の教室だった。葉佩が皆守をここに連れてきて一緒に授業を受けさせたくせに、当の本人は皆守をほったらかしにして八千穂とおしゃべりに興じている。皆守は机の上に頬杖を突いた。八千穂の話が盛り上がっているのか、珍しく授業に出ていた夕薙も近づいて会話の輪に入ってくる。八千穂がきょろきょろとあたりを見渡して、それから白岐を手招きする。
皆守は白岐が机から立ち上がり彼らの輪に歩み寄るのを確認してから机に突っ伏した。
そうすると机の上に何かを隠しているようだ。皆守は目を開けて机の木目を眺めながら思う。
皆守は彼らに混ざりたくない。混ざりたいけれど、混ざってしまえば皆守の抱える暗い感情が明るみに出てしまう気がして恐ろしい。
けれど、全部葉佩が悪いのだ。皆守はそう責任を転嫁する。好きで皆守につき合っていると言った口で皆守のことを放っている。だからこの気持ちは葉佩のせいなのだと。
脳内で詭弁を弄して皆守はため息を吐く。
単に、皆守の好きと葉佩の好きが違うだけだ。
だって、皆守と葉佩の気持ちが釣り合っていたのならよそ見なんてする暇があるはずはない。当然のようにそう思いながら皆守は自分の感情に舌打ちをした。
6
他人は他人だ。皆守はそれを身をもって知っているはずだった。《転校生》であろうと同級生であろうと、たとえ恩師であろうと、皆守は墓守としての責務を果たしてきた。他人と言うのは皆守の靴の外側、視界の内側にいる存在であって、その距離さえあればいともたやすく共感を断ち切ることができるのだと。
それなら、この気持ちは何だろう。抱え込んでいると思うのは。繋がっていると思うのは。
夜のランドリーで、葉佩が大きく欠伸をしている。それを横目に皆守は乾燥機の残り時間を眺めた。
同じクラスで、夜の探索まで同行しているとなると生活サイクルがほとんど同じになる。葉佩と偶然顔を合わせることはよくあって、今日のそれは洗濯物の回収だった。皆守の乾燥機は残り三分を示している。葉佩のものはあと六分だ。
皆守も欠伸を噛み殺した。寮の消灯時間を五分過ぎている。暗い廊下を歩くのも、翌朝欠伸を噛み殺しながら登校するのも好きではないが、だからと言って葉佩に同行するのをやめる発想はない。
「ふふ」
ふと葉佩が笑う。
「欠伸、移っちゃったね」
皆守はぼんやりと答えた。
「偶然だろ……」
葉佩の声は眠たげで、少なくともおまえは健康に気を配れよと言いたいのに言えない。皆守と葉佩が同じ生活をしているとしても、二人の背負う責任は違う。仕事に対して、命に対して。
それでも二人は同じ時間を過ごしている。繋がっている。抱え込んでいる。自分の一部が彼のものであるのか、彼の一部を我がものにしているのか、分からないままその共感性を確かめる。
皆守は自分の洗濯物の乾燥が終わっても葉佩を待つだろう。葉佩はそれを当たり前に受け入れて、少し意地悪そうに唇を引き上げて笑うだろう。「皆守は優しいね」そんな言葉で皆守を揶揄って、この関係を誤魔化しながら。
そういうことが、皆守には想像できる。二人にはそういう繋がりがあった。いつかこれが引きちぎられる日が来るとしても。
5
何よりも恐ろしいものはいつだって想像の埒外にある。
皆守は講堂の冷たい床に座ってぐしゃりと髪をかき混ぜる。無事でいてくれ。無事でいるはずだ。もし死んでいたら。想像力はぐるぐると回りあらゆる可能性を提示する。
《秘宝の夜明け》を名乗る集団に學園は占拠されていた。葉佩の姿は見当たらない。襲撃があった当初はまだ校舎内にいたはずだが、講堂にいないとなると皆守にはもう彼が何をしているのか知る術はない。
彼の生存が曖昧になってようやく、皆守は今まで想像した恐怖など子供だましに過ぎなかったことを知る。
一番恐ろしいことは、愛する人が死ぬことだ。誰かに嫌われることでも、憎まれることでも、あるいは無関心でもなく、自分がひどい目に遭うことでもなく。
その人が持つすべての繋がりが消える、あらゆる希望が水泡と帰し、未来の可能性はただの幻へと変わる。それを見たくないと思う。
無事で。とにかく無事で。
それを祈ることに躊躇いはなかった。躊躇という発想すら浮かばなかった。
こんなときこそラベンダーの香りを嗅ぎたいと思うのに理由などはなく、ただ壊れたライターに恐怖した。
4
人が死んでも残るものがあるとするなら、それは何だろう。
皆守は冷えた空気に強く目を瞑った。つい数時間前までの騒音が嘘のように學園は静まり返っている。《秘宝の夜明け》は撤退した。そして、葉佩は遺跡の最後の区画を開いた。
気持ちを落ち着かせようとぶらぶらと校内をうろついているが、冷えていく身体とは裏腹に思考はぐるぐると過熱して頭が痛い。
自分はあの教師から何を受け取れただろう。その問いは彼女が死んでしまった今考えても仕方のないことなのか、それとも自分がさらに何かを忘れているのか、皆守には見当がつかない。
葉佩なら、こういうときに何か答えを出せるだろうか。そう考えて自嘲する。
何かしたいから始まったはずの恋は、いつの間にか何かを受け取りたいに変わっていた。
これ以上何を欲しがることができるだろう。
結局、最後まで葉佩は皆守を疑うことをしなかった。何一つ問いかけもせず皆守を傍に置いた。こんなに剥き出しであからさまな感情がある世界を初めて知った。その信頼が嬉しくて、眩しくて、皆守の心臓は竦み上がる。
願うのは、この信頼が永遠に続くことだけだ。そしてそれは叶わない。
だから皆守は、彼に掛ける言葉を用意する。
「忘れるなよ」
そればかりは変えられない現実だ。今日のこの日も、今までの季節の移り変わりも。
今夜、全ての手札は明らかになる。皆守は数時間後の不確定な未来を思った。
自分の感情は、彼の信頼に釣り合うだろうか。この醜くも一途な恋情は。自分は彼に勝つだろうか。それとも負けるだろうか。結果が分かったとき、自分たちはどうなるだろうか。そもそも自分は、彼と全力で戦えるだろうか。
疑問形ばかりだ。この期に及んでぐずぐずと結論を先延ばしにするのが皆守の悪い癖だと、自分でももう気づいていた。
3
殺すなら自分で殺したい。倒されるなら彼に倒されたい。降伏はすぐそこで、皆守は震える心臓を抱えて彼の前に立つ。
2
なるほど、じゃあやるか。そう言った葉佩は周囲に現れた加賀智を短機関銃で一掃し首を傾げた。目元はゴーグルで覆われているが、唯一露出している口元が笑みの形を作っている。
「平静だな」
皆守はアロマパイプを銜えたまま唐突に床を蹴る。葉佩の撃った銃弾がさっきまで皆守が立っていた位置を虚しく通過する。皆守は走り出し、その勢いのまま回し蹴りを図るが、葉佩はバックステップで回避する。そうしながら撃たれた弾は明らかに皆守の胴を狙っていて、身を捩って回避しながら「殺す気か!」と悪態をついた。
「避けたやつが文句を言うな!」
葉佩は呵々と笑い、また引き金を引いた。今度も胴体。皆守は避ける。基本に忠実だと思いながら接近を図り、今度は葉佩が避ける。撃ち切らせて弾倉を交換するタイミングが好機だろうか。装弾数は何発だった? 葉佩は何と言っていただろう? 考えながらも体を動かす。
世界のすべてが鮮明に見えた。次に葉佩がどうするのか、手に取るように分かった。葉佩にもこちらの動きが分かっていただろう。皆守の動きに葉佩が応え、葉佩の動きを皆守が返す。戦いというよりもダンスだった。あるいは呼吸だった。吸うのと吐くのと、二人で一対の動きだった。
言葉の必要ない、剥き出しの繋がりがそこにはあった。
皆守はひしと葉佩を見据える。ゴーグル越し、葉佩の視線を一心に受けて皆守は笑う。見つめながら笑う。見つめられながら笑う。
ああ、その口元が好きだ。薄い酷薄な笑み。きっとゴーグルの下の目は細められて皆守を見ている。真剣に皆守を倒そうと考えている。
皆守もそうだ。本気で葉佩を倒す気でいる。心臓はばくばくと高鳴り、アドレナリンは体を巡り、そして恋心が頭の中で喚いている。
好きだ。好きだ。好きだ。
何も、なにも恐れる必要はなかったのだ。すべてが明らかになってわかるのは、すべてはここに帰結するのだと言う確信だけだ。
全部皆守のものだ。墓守の義務も、個人の恋心も。この感情は皆守のものだ。例え誰かへ放射するようなものだとしても、皆守の内心にしかないものだ。
この感情は絶対だ。
1
決着がついたとき、皆守は勝敗ではなく勝負が終わったことに呆然としていた。
葉佩のばらまいた薬莢に皆守が足を滑らせ、バランスを崩してそれで終わりだった。床に崩れ落ちながら無理やりに視線を上げた先では葉佩の銃がしっかりと皆守を狙っていて、皆守は照準越しに葉佩のゴーグルと目を合わせた。それが撃たれなかったのは葉佩の優しさではなく当事者間で決着への諒解があったからだ。
尻もちをついたまま周囲を見るとあちこちに薬莢が散らばっていた。葉佩も、そして皆守も玄室中を走り回っていたらしい。壁にも新しい弾痕ができている。皆守は今の今まで気づかなかった。
「おい……」
皆守は息を弾ませながら声を絞り出す。
「わざとか?」
「いいや」
葉佩が銃の構えを解いて皆守に手を差し出す。皆守はその手をただ見上げた。
「こんな終わりか」
「こんな終わりでよかったよ、おれは」
葉佩は手を差し出したままだ。
「おまえも、そう思うだろ」
優しい男だ。皆守はそう思う。優しくて、強い。皆守ではとてもじゃないが釣り合わない。
俺は終わるなと思っていたよ。そうは言えずに葉佩の手をとる。グローブをはめた力強い手がぐいと皆守を引き上げて、その勢いに乗るようにして立ち上がる。
皆守の藻掻きは終わった。葉佩は勝った。そして勝ち続けるだろう。阿門にも、荒吐神にも。ただ、皆守にも少しだけできることがあるはずだった。墓守の義務は終わった。後は友人としての義務が僅かばかり残るだけだ。
恋は? 恋は永遠に続く。
0
「じゃあな」
エピローグ
「自信なくしちゃったな」
屋上で葉佩はそう言って、皆守は居心地悪く立ち竦む。
「おれじゃ駄目だった?」
悪戯っぽい声と顔で、瞳ばかりが真剣だ。葉佩が直接にこういう話をするのは初めてだ。今までは微睡みのなかにいるような、密やかなさざめきのような感情のやり取りばかりをしていた。
皆守はこちらを覗き込む葉佩から視線を外して、遠く新宿のビル街を眺める。遠い場所だ。どこを見てもそう思う。それはいつもの、學園から出られないという諦念ではなく、彼が去っていくという寂しさからだ。
「おまえのことは、今でも――あの瞬間でも、好きだった」
皆守の言葉に葉佩は目を細める。計られている。知りながら皆守は言葉を続ける。
「戦っている最中も、ずっと好きなままで。だからそれを抱えて、死んでいけると思った」
そうしたかった。とは流石に続けられず、皆守は口を閉じる。沈黙が落ち、風が吹く。二人そろって十二月の冷たい風に身を晒している。
葉佩が小さな声で囁いた。
ねえ、皆守。
「キスしてもいい?」
「は?」
葉佩の顔は静かだった。下から覗き込むようにしてこげ茶の瞳が皆守を見ている。
「キス?」
「うん。嫌ならいいけど」
嫌かどうかなど咄嗟には分からない。何せしたことがないのだ。考えたこともない。答えを探すようにぱちぱちと瞬く皆守に、葉佩がそっと体を寄せた。
伸びてきたのはグローブも何もつけていない裸の右手で、その手が皆守の左手を掬うように取った。
かさかさと荒れた手が皆守の手を握り込む。荒れた皮膚の下の温かな体温に皆守は緊張して動けない。
「嫌なら避けてね」
葉佩の顔が近づいてくる。目が皆守を見据えたままだ。まつ毛の本数すら数えられる距離で、こげ茶の虹彩に映る自分の影を知る。瞬きの音が聞こえないのが不可解だと思った。
本当にいいのだろうか、そんなことを考える暇もなかった。
ふに、と柔らかい感触が唇にぶつかって、それから離れる。一瞬だった、と思った途端にその感触がもう一度唇に合わさった。
そっと唇を合わせたまま、皆守は葉佩の目を見つめ続ける。
柔らかく撓んだ瞳が皆守の影を抱えてきらきらと光る。夕陽のせいだろうか。風が吹いている。葉佩の体温が分かる。とりとめのない思考が浮かんでは消える。
ぱちり、ぱちり。瞬いているうちに葉佩の瞳が遠ざかって、それでおしまいだった。
一歩足を引く葉佩を見つめながら、瞬きをもうひとつ。葉佩はすっかり普段の顔で、「目、閉じなかったな」と言う。
それがいつも通りの素っ気ない言い方で、皆守はもうどうしていいか分からない。繋いだ手がぽっと火を灯したように熱い気がする。手汗で湿ってはいないだろうか。妙なことが気にかかる。
「……閉じた方がよかったのか」
「さあ?」
「なんだよ」
「おれは皆守の反応が見られて満足だよ」
「……そうかよ」
「うん、そう」
葉佩は目を伏せて言う。その伏せた目蓋をさっきまで間近に見ていた。今は少しだけ遠い。
「恋は一人でもできる。でも、一人ではできないことはたくさんある」
「それがキスか」
「――それ以外も」
葉佩の目が皆守を見る。いつもの柔らかく細められた、眩しそうな眼差しで。
「一緒に夜食を食うことも、休みの日にロックフォードアドベンチャーをすることも」
「……ああ」
声は体の底から押し出されるように漏れた。そうだ。あの輝かしい日々。楽しく揺れた恋の日々。皆守は一人で恋心を抱えていたけれど、そこには確かに葉佩がいた。
「おまえに、それを分けてほしかった」
玄室で戦えたことを喜ばなくてもよかったのだ。葉佩には、ずっとその用意があったから。皆守と呼吸を合わせる用意、皆守の動作に応える用意が。皆守一人が思い詰めて、一人で生きている気になって、それで人をひとり傷つけた。葉佩の言葉は過去形だった。
「悪かった」
「いいよ」
こんなときでも葉佩の瞳は微笑むように細められている。
「いいよ、と言うより、もうどうしようもない。終わったことだから」
「ああ」
「だから、一人で苦しんで。おれはもう行くから」
葉佩はそう言って、繋いでいた皆守の手を開かせる。手のひらに握り込ませるように渡されたのは小さなメモ用紙で、葉佩は「おれの連絡先」と囁く。皆守はその手を固く握りしめた。残っていた葉佩の手の感触が、乾いた紙で上書きされる。
「――キスしておいて、連絡先を渡しておいてそんなこと言うのか」
「言うよ。おれは性格が悪いから」
葉佩はにやりと唇の端を吊り上げた。薄い唇だ。なぜだかそんなことを思って皆守の心臓がどきどきと速くなる。
「おまえの恋が永遠になればいい。永遠に叶わなければいいさ」
葉佩の声は歌うようだ。
「それで、一人で満足できなくなった頃に会いに来てよ」
「俺が飽きるとは思わないのか?」
「恋を抱えて死ぬことくらい、出来るんだろ? 死ぬまで長持ちさせてくれよ」
「……そうだな」
できるだろうし、実際できた。恋は個人で抱える思いだ。勝手に育ち、恋をしている最中は決してしぼむことがない。大切にしてやればいつまでも保つ。皆守はそう言える自信があった。
「何年でも待つよ。おまえが寂しくなるのを」
「それならいまだ」
葉佩はあははと笑った。
「それは駄目」
葉佩はぱっと身を翻し、いつもの跳ねる足取りで屋上を去っていく。去り際に一度だけ立ち止まると、皆守を振り向いて大きく手を振る。
「忘れるなよ!」
それで最後だ。それは間違いなくあの夜に交わした会話の返事だった。
「忘れないさ――」
身体の中で跳ねまわる恋を知っている。そうではなくてその外側、皮膚が触れ合うような、手を握り合うような――
これまでの時間を忘れない。同じ時間を、空間を、柔らかな気遣いを共有することを忘れない。あのキスを忘れない。許すことを、許されることを、同じ気持ちを分け合うことを忘れない。
この感覚を忘れてはいけない。次に葉佩に会う時まで。永遠はまだ遠い。皆守は心臓を掴もうとでもいうようにぎゅっとTシャツを握り込み未来を誓った。