見るおこない

 僕の憧れは具体的な形を持つ前に破れた。時代と、それから自身の特性によって。

 近視だったのだ。そして、パイロットには視力が求められた。そもそも革命が去った後の時代、パイロットという職業の革命的な属性は消え去っていた。

 だからどうという話でもない。例え僕の視力が良かったとしてもパイロットにはなれなかっただろうし、視力が良い自分というものを想像できないほど長年眼鏡と共に生きてきた。けれど――





「あんた、眼鏡がないと雰囲気が変わるな」

 ハリーの台詞に僕は目を瞬かせる。まだ目が覚めたばかりで視力も思考もおぼつかない。それでも習慣のように僕の手はベッドサイドのテーブルに伸びた。目が覚めて一番にすべきは眼鏡を探すことだ。

 交替で張り込みをしていたのだった。対象は麻薬の密売人。管理人に無理を言って推定取引場所の向かいにある古いアパートの空き部屋を借りた。誰かが夜逃げしたらしいそこは取り立て人が腹いせに荒らしたのか酷くぼろぼろの姿をしていたが、雨風は凌げるしばねのいかれたマットレスもある。

「交替の時間か?」

 体を起こし、やけに沈み込むマットレスに座りながら探り当てた眼鏡を掛ける。ぱちり、ぱちりと瞬きをするたびに世界ははっきりとした輪郭を取り戻していく。白かった天井は雨漏りの染みを浮き出し、緑の靄はちぎれたカーテンへ、微かに動く人影は草臥れた中年の男――ハリーだ――へと変わる。

「いや、まだだ。あんたの寝顔を見ていた」
「見張りは?」
「見張りもしていたさ!」

 僕は疑わしげに窓を見やる。窓際には脚のがたつく椅子が置かれ、ハリーが買い込んだサンドイッチのパンくずが散らばっている。しぶしぶ同意するように頷くと、ハリーは得意げに胸を張った。

「捜査のほうに進展はないぞ。あんたに関しての発見はあったが」
「できれば捜査に集中してほしいものだけれど。それで、何が変わるって?」

 窓際に立つハリーに近づくと、顔を――眼鏡を?指差される。ハリーの指から顎を引くようにして逃れながら、僕は自分の知らない何かを知られている、という感覚を抑えるために闘った。

 ハリーといるとしばしば湧き起こる感覚だった。自分の知らない何かを知られている。それは機械への愛着だったり、人知れず闘った差別意識だったり、あるいは無意識の食の好みだったり、彼への好印象だったりする。自分の知らない自分がいる、そのこと自体僕にとっては恐ろしいことで、子どもが背中に取り憑く幽霊を怖がるような、そんな理屈に合わない恐怖心を感じるものだが、目の前のハリーこそが幼い子どもの表情で嬉々として発見を伝えてくる。

「目が大きく見える」
「ああ――僕は近視なんだ」
「それと目の大きさと何が関係するんだ?」
「レンズの凹凸があるんだ。だから、近視用の眼鏡を掛けると目が小さく見える」
「知らなかった」

 僕は厳粛そうに頷くハリーの横に並んで窓の外の景色を眺める。飛行艇は昼夜を問わず空を飛び、ちかちかと障害灯の明かりが行きかう。遠くに見えるビル街では僕の知らない金融機関が数字を交換し、そして近くの薄汚れた街では麻薬の密売が行われている。そこで支払われる金――あるいは臓器、あるいは人間――がどこからやって来てどこへ行くのか、僕たちはまだ知らない。

 僕はふと、かつての憧れを思い出す。飛行艇からこの景色は見えるだろうか。パイロットになれる視力を持つ人々なら。

「不思議だな」

 隣でハリーがぽつりと呟く。

「レンズだけで、見えるものが変わるなんて」

 ハリーはどういう意味で言ったのだろう。容姿の話か、見え方の話か、あるいはもっと深遠な――この世界のあり方の話か。放棄されたアパートの一室は、感傷的な気分を僕に齎しているらしい。

「見え方は変わっても、もののあり方は変わらないさ」

 僕はそれを見ることができる。と、思いたい。僕は眼鏡を手に入れた。そして、RCMの刑事という職業も。だから僕は世界を見る。眼鏡を通して、職業を通して、僕自身を通して。

「そうだな。あんたの目の大きさを覚えておくよ」

 ハリーは言いながら路地裏を通る人影をそっと指差す。僕にはそれが、この街の住人にしてはどこか浮いていることに気づく。服装は肉体労働者風だが、髪型がどこか洒落ているし、靴が草臥れていない。僕はハリーに頷き返す。

「僕はここから見張っている。きみはあいつを追いかけてくれ」

 僕が言うとハリーは駆け出す。僕は推定密売人を目で追いかける。

 かつての幼い憧れに今日、ひとつの区切りがついた気がした。