永訣の朝
ふと、意識が浮かび上がる。さっきまで見ていた夢は霞となって消え、閉じた瞼の裏から現実が侵食してくる。耳を澄ますと、ぱちぱちと火のはぜる音が聞こえる。見張り番が焚いている火だろう。
目を開ける。想像通り暗闇に小さな明かりが灯っている。見張りはバルバトスだった。彼の金髪が炎に照らされてちらちらと光っている。その伸びた影の中で、ソロモンは寝返りを打った。
炎に背を向けると、目に入るのは満天の星だ。ヴァイガルドとはまた違った位置にある星々が瞬いている。空の端はうっすらと青く、夜明けが近いのかもしれない。マモンとの闘い、そして魂の炉を巡るあれこれが終わったいま、つかの間の休息をとっているが、朝からは議会参加に向けた行軍が始まる予定だった。議会参加。それが間近に迫っていることを考えると、ソロモンの胸は奇妙に高揚する。自分の小ささと大きさを同時に試そうとするような、不思議な心地だ。けれどその前に、少し、試すだけでも試しておきたいことがあった。忙しくなる前の今だけしかできないことが。
ソロモンはそっと起き上がる。左手の指輪を見下ろし、心の中でその人の姿を思い浮かべる。呟くような声で言った。「――召喚」けれどもちろん、彼の姿はない。指輪による召喚がどのように作用するか、シバの女王と実験して知っているのに、試してしまうのは彼と共有してきたものがあまりにも多すぎるせいだ。
「まだやっているのかい?」
バルバトスが囁く。仕方ないなとでも言うような目が、優しくも恥ずかしい。
「うん。でも、もうやめなきゃな」
誤魔化すように伸びをする。下を向いていた顔を上げると、そこに人影が見えた。
「……おや、噂をすれば」
フォルネウスだった。彼が岩場を乗り越えて歩いてくるのを、呆然と眺める。ひときわ大きな岩の影から現れたフォルネウスは、見ているこちらに気がつくと立ち止まる。それで慌てて立ち上がると彼に近寄った。
「フォルネウス! どうしたんだ。もしかして――」
「いや。出立の挨拶にと思ってね」
期待を込めた声は短く否定された。彼が振り返った先には、サタンとメギドラルのソロモン王の姿が見える。
「そうか……」
露骨に沈んだ声に、フォルネウスは苦笑した。
「ボクは軍団を去ったけれど、きみの親友をやめる気はないよ」
「うん……」
フォルネウスは困ったように眉を下げる。ああ、そういう顔をさせたいわけではないのに。それでも正直に、彼の瞳を見つめて伝える。
「それでも、さみしいよ」
やっと、やっと目を合わせることができた。同じ欠落を抱えて、追い立てられるようにここまで来たふたりにだけ、話せることがあるはずだった。牧者と羊ではなく、故郷を追われた二匹の迷える羊として。彼の過去は許されないけれど、彼が目標のために費やした命は計り知れないほど重いけれど、彼自身の命もまた、同じように重い。彼が去って、それをどれほど実感しただろう。彼が戻って、どれほど喜んだだろう。きっとふたりで、道を探せると思っていた。どんなに暗い道だって、どんなに幅が狭くたって、未来は、可能性は、それだけで美しい。それは命の、生の美しさだ。死んでは決してかなわない命の価値だ。それを一緒に考えてやれたらと、示してやれたらと、味わってくれたらと、あれからずっと思っていた。それがどんなに苦しくなろうとも、それを分かち合える、分かち合いたいと。
たとえ伝わらなくても、俺は。
ソロモンは一歩を踏み出した。そうして驚いて後ずさろうとしたフォルネウスを抱き寄せる。ぴったりと体を合わせ、そっと彼の髪を撫でる。彼の体は緊張して固い。
「この一瞬のこと、覚えていてくれよ」
「いまを?」
「いまを。そしてことあるごとに思い出してくれ。そうして寂しかったり、嬉しかったりしてくれよ」
「親友。どうして……?」
「どうしてだか、考えてくれよ。そうしてくれたら、俺は嬉しい」
命を、使わないでくれ。もう死んでもいいなんて言わないでくれ。喜びや悲しみに彩られた暮らしを楽しんでくれ。そうして生を惜しんでくれ。願いはいくつも浮かび上がるが、結局ソロモンに出来るのはこれだけだ。
「親友にそう言われたら、断れないな……」
俺は彼を呪うのだ。彼を生かす。それも、喜びと悲しみに満ちた生を過ごしてもらう。等身大の、ヴィータの人生を。彼がそれを望まなくても。彼が決して変われなくても。彼の生を呪い続ける。彼の、ただ一人の親友として。そしてヴァイガルドを守る軍団の長として。
ソロモンは強く彼の体を抱きしめる。いつの間にか、彼の体の力が抜けていた。白い手袋に包まれた手がそっとソロモンの背中を撫でる。
「時間だ」
ソロモンはぱっと体を離した。いつの間にか空が白み始めている。白々とした光があたりを包む。彼の背後から太陽が昇る。彼の髪が白く光る。一方で彼の顔には影が落ちる。瞳が陰る。
「ああ、これが『寂しい』んだね」
フォルネウスの、いつもの形になった右手が首を傾げる。ソロモンは笑って右手を同じ形にすると、彼の右手に近づけた。
「だから、思い出してくれ。俺を」
彼は目を丸くしてソロモンを見つめる。陰っていた瞳がぱっと輝いた。青い色。空の色の瞳だ。それがこれからの未来を示しているといい。ソロモンは思う。交わって、目線が合ったのは一瞬だった。もう遠ざかるばかりのふたりの人生に、けれどここから祈っている。
「うん。ありがとう、親友」
「じゃあ。さようならだ」
「うん。さようなら」
フォルネウスの右手がひらいて手を振った。それに手を振り返す。そうしてフォルネウスは、振り返らずに去っていった。
もう彼は、ソロモンの許に戻ることはないだろう。