天国に鍛冶屋はない

天国に鍛冶屋はない

 かつて、最も手に馴染むものは何かと聞かれたなら、ヘンリーはハンマーだと答えただろう。ハンマー、それから火ばさみ。手汗の染み込んだ木の柄、手先のように感じられたはさみの先端。熱気、火の粉。ふいごの音。懐かしき原風景。しかしいま、

 ヘンリーの手の中には剣がある。血に塗れたそれを一振りして鞘に仕舞う。いつからか、考えもせずにこの仕草をできるようになった。かつては藁一本斬ることができなかったのに。死体の海の中、ヘンリーは眉一つ動かすことがない。

 盗賊が多い。元から知っていたことを確かめるようにヘンリーは呟く。盗賊が多い。

 彼らはどこから来たのだろう。湧いて出たはずはない。彼らにもきっと家があり村があった。それがどうしてこうなったのか、ヘンリーは知っている。一歩間違えたなら、ヘンリーもそちら側だったに違いないのだ。しかしヘンリーは彼らを切り捨て、彼らの名前も数も覚えることはない。

 そう。覚えない。マークヴァートへの答えはこうだ。スカリッツのヘンリーは自分が殺した人数を覚えていない。あらゆる街道で、あらゆる野山で、あらゆる野原で、ヘンリーは人を殺し、人を殺し、人を殺した。背景はいつも違う。振るわれる剣だけが同じだ。あるいは――殺される人も? そんなはずはないのにヘンリーはその幻覚を否定しない。

 すべての人間はただの骨と肉であり、ちょっと脂肪が多いとか、装甲が厚いとか、抵抗が激しいだとか、そういった違いしか持たない。生きている肉体と死んでいる肉体の違いすら僅かだ。いつでも――いつでもヘンリーは剣を振るえる。必要とあらば。あれほど憎んだイシュトヴァンすらただの死体になった。

 お前がそうさせたのだ。そう言ってもいい。お前が数多のスカリッツのヘンリーを生み出し、盗賊のヘンリーを生み出した。

 それは甘美な妄想だ。お前がそうさせたのだという。お前が奪ったから奪うのだと、お前が俺を地獄に追いやったのだと、善悪は彼岸にあり、ここには鉄と血だけがあるのだと。熱気、火の粉、風を切る矢。耳に馴染んだ戦場の音。

 ああ!ヘンリー……

 母の声は遠い。父の声も遠い。

 いつか、この――父の――剣が、鍛冶屋の理想ではなく、ただの優れた武器となる日が来るだろうか。その問いかけを、ヘンリーは胸の奥深くに仕舞っている。あのハンマーが手に馴染まなくなる日を恐れていた。

何者でもある

 ほとんどの農民が顔を顰めるであろう遊牧民の野営地を、ヘンリーは決して嫌いではなかった。なぜだか知らないが、そこを一種の家のように感じていた。彼らに実際に兄弟として迎え入れられたからだけでなく。

 ヘンリーはマリカとボフシュの様子を尋ね、ティボルと戦闘の訓練をし、アランカに知恵と薬草を分けてもらい、そうして将軍を筆頭とした彼らの食卓を囲む。

 ここで寛げるのは。ヘンリーは与えられたベッドに横になって思う。ここがどこでもないからだ。

 彼らは何者でもない。農民でも貴族でも戦士でも聖職者でもなく、彼らは永遠に野営地に暮らす。一方ヘンリーにはたくさんの役割があり、どんな生活もない。ヘンリーは時折は鍛冶屋であり、戦士であり、錬金術師であり、修道士だったこともあり、トロスキーのほとんどの時間は放浪の旅人として過ごしている。どんな村にも街にも馴染まないヘンリーを、しかし彼らはまだ体制に囲われた側の人間だとみなしている。それがほっとするのだと言えば、とんだ悲観主義者だと笑われるだろうか。

 あれほど出て行きたがっていたスカリッツの名は永遠にヘンリーの名に冠されることになり、実際に広い世界を見てみれば自分の居場所を求めて不安になる。自分は冒険には向かない人間だったのかしらん。それこそ悲観的にヘンリーは思うが、とにかくここにはヘンリーの寝床があった。明日は密猟者を探しにアポロニアまで行かなければいけないのだ。ぐっすりと寝て体力を温存しておきたい。ヘンリーは眠りに就くために目を閉じながら、マリカに誓った時の言葉を思い出す。

「ハンス・カポン卿の従者として誓う」

 そういえば、間違いのないヘンリーの立場が一つだけあった。誓いは果たされたが宣言は永遠に残り、言葉の響きは静かな夜の中ヘンリーの脳内にしんと染み込む。彼が無事だと良いのだけれど。あれだけ探して見つからないなんて、一体どこにいるのやら。早朝にここを発って道中を捜索してみようか。考えながらヘンリーは眠る。

 ヘンリーはどこまでいってもこの野営地の客人にしかなれなかった。

炎は黄金を証明する。悲惨は真の勇者を

 夢を見た。金床に横たわっている夢だ。横たわっているのはヘンリーなのに、作業しているのもヘンリーで、ヘンリーは自分で自分を熱して叩く。再び加熱された素材は固くも脆くもなる。ヘンリーはそれを知っているから、素材を掛け合わせるのを忘れたりはしない。かつての、スカリッツの自分に加えるのは、戦士の自分、錬金術師の自分、暗殺者の自分、学者の自分、従者の自分、それから、それから――叩き、叩き、そうしてスカリッツのヘンリーの傷は塞がれ、形を変え、素材の奥底に沈んでいく。叩くのは苦しく、叩かれるのは痛い。火を入れた以上、素材は決して元の通りにはならない。例え冷えても、復讐を果たしても、平和が訪れても。それでもそうするしかないから、ヘンリーは自分で自分を鍛え直す。そうしなければ生きていけないから。スカリッツで一度死に、ばらばらに継ぎ接ぎされた自分をもう一度立ち上がらせるにはこうするしかないから。

 そうして出来上がった自分に、父は何と言うだろう。褒めてくれるといいのだけれど。思いながらヘンリーは父の――そして自分の剣を眺めた。この剣も、鍛え直してもいいかもしれない。ふと、そう思った。それでようやく、この剣を自分のものに出来るだろう。夢はいつの間にか現実に変わっていた。