さようならば
「ボクの勝ちだ。葉佩九龍」
血だまりに横たわる男を見下ろすと、男はかすかに笑った。
「うん。そうだね」
男の脇腹からは血が流れ続けていて、近寄った喪部の靴を浸した。男が身に着けている端末からしきりにバイタルの異常を伝える声がする。それを横目に喪部は男の右手から拳銃を取り上げた。もう握る力も残っていないらしく、あっさりと喪部の手に渡る。男は血の気の失せた白い顔で、抵抗するでもなくただ喪部を見上げている。
男が持っていたのはどこにでもあるただの拳銃だ。軍で制式採用される程度には命中率も高く堅牢。セーフティの外されたそれをゆっくりと眺めてから、地面にへばりつく男を見た。
「弾が詰まりでもしたかい。キミの運もここまでだったか」
決着の瞬間、男は引き鉄を引かなかった。そして喪部は引き鉄を引いた。それですべてが終わった。それ以降はただの余りだ。その余った時間で喪部は男に問いかける。
喪部と男は遺跡に残された超古代文明の秘宝を求める一種の同業者かつ商売敵であり、同じ秘宝を狙い何度も顔を合わせてきた。その度に男は喪部を退け、あるいは逃げ出しここまで来たのに、いま、命をもって敗北を味わっている。喪部はもちろん最後にはそうあるべきだと信じてきたが、あまりにあっさりとした決着に何かを惜しむような感情を味わっていた。
喪部の感傷に気づかないのか、男は突然笑い出した。笑うといっても顔は痛みで引き攣れていたし、声もあまりに小さく弱弱しい。それでも男は笑っていた。ふるふると震える脇腹からの出血が激しくなり、血だまりが広がる。
「いや? 撃てるはずだよ」
掠れた声で男は言う。
「おれにはできなかった。それだけ」
「……何が」
「人を殺すことさ」
「馬鹿にしているのか?」
喪部の問いに、何が可笑しいのか男はまた笑う。
「してないよ。馬鹿なのはおれ」
もし今回の邂逅に今までと違うところがあるというのなら、二人ともがそれを全く予期していなかったことだろう。舞台となった遺跡の入り口は二つに分かれていたため、男と、喪部の率いる秘宝の夜明けはお互いの存在を知らないまま異なるルートで遺跡に潜り込み、それぞれに遺跡最深部に辿り着いた。喪部が先で、男が後だ。だから男のほうが有利なはずだった。喪部はあと一歩で秘宝に手をかけるところだったのに対し、男は武器を片手に警戒しながら遺跡最深部の扉を開けた。間違いなく男は喪部を狙えたし、喪部は無防備だった。
物音に気づいた喪部がもう一つの扉――当時はさらに奥があるのだと思っていた扉――に目をやったときには、男はすでに姿を現して拳銃を構えていた。目が合ったその瞬間には二人の間に了解が出来上がっていた。男は撃てる。喪部は間に合わない。それでもとっさに懐から拳銃を取り出して撃つまでの間、男はずっと銃を構えた姿勢のまま動かなかった。そして男の腹に穴が開いた。予め決められていたように、一連の動きは静かに、流れるように進行した。
それを男は自らのせいだという。喪部を殺さなかったこと、喪部に殺されること、その理由はただ一つ、殺人への忌避感だと。それを理解した瞬間、喪部の思考がかっと燃えた。
「そうだな。その通りだ」
手にしていた拳銃を男の顔へ向ける。ここへ至っても男の顔は平静だった。茫洋とした眼差しが銃口を通り過ぎ、ひたと喪部を見上げる。当たり前だ。足掻くような時間はとっくに過ぎ去っている。二人ともがそれを知っていた。
今まで何度も銃口を、刀を、あるいは爪を向けあってきた、そこに嘘はないはずだった。喪部は決して手を抜かなかったし、それは男も同様だ。短機関銃、コンバットナイフといった現代の武器から、刀身の赤い日本刀や鈴といったオーパーツまで使ってきたそこに殺意がないというつもりだろうか。あるいはそれは変生した喪部に対するものであって、あの瞬間、無防備な生身を晒していた喪部は別だと言うのだろうか。
「キミの馬鹿さ加減をボクは見誤っていたようだ」
そうなのだろう。銃口に晒され死ぬ定めだった生身の喪部が、男を躊躇わせた。しかし、そんなことは許されない。喪部は全てを、全ての弱者を踏み潰す用意がある。それは喪部の秀でた力によるものであるべきだ。決して、誰かの脆さ弱さのせいではなく。
「何か言い残すことはあるか」
男は、今度ははっきりと皮肉気に口の端を釣り上げた。
「お前に?」
「他に誰がいる」
「そうだな……」
男の声は会話の間にも段々と弱まっていた。瞬きが間遠くなり、瞼を閉じる時間が長くなっていく。瞼を開けたとしても焦点が合わず、喪部と目が合うこともない。失血で死ぬ前にきちんと殺さなければという焦燥に駆られながらも、喪部は男の言葉を待った。
そして男はぼやけた瞳でかすかに笑った。
「……殺さずに済んでよかった」
一拍の後、男の拳銃は確かにその機能を果たし、男の眉間に穴を開けた。
馬鹿馬鹿しい話だった。苛烈な瞳で喪部の前に立ちふさがり、マッケンゼンの死を眉を顰めるだけで終わらせた男が人を殺せないなどと。見誤っていた。肩透かしだ。人を殺すことがそんな重大事であるものか。罪悪感も抵抗もなく、引き鉄ひとつで人は死ぬ。それができないなどと、どうして言える。
ただ、これで喪部の障害はほとんど消えた。喪部はもう止まらないだろう。秘宝の夜明けは掌握するし、男が所属していた組織にも打撃を与える。本当に、殺しておけばよかったのだ。男にまともな思考があったなら、喪部を脅威と思うなら。そうしないなんて、ああ本当に愚かだ。こんな愚か者にかかずらった自分まで馬鹿に思えてくる。
見下ろした男は固く瞳を閉じてもう喪部を見ない。足元の血だまりはもう一つの源泉を得て急速に広がっていく。そろそろ動かなければ靴が湿ってしまうだろう。
喪部は拳銃を放り投げ踵を返した。背後で機械音声があっさりと装備者の死亡を告げた。