愛の地層

 物心がついてしばらく経ったころ、鬼太郎はぽつりと実父に零したことがある。「僕たち水木さんに迷惑じゃないでしょうか」

 鬼太郎は自分が何者かを実父に教えられて知っていたし、あるいは知らなかったとしても日常の生活で人間との差異を感じることは多かった。人間には見えないものが見えて、夜に怯えることがない。早いうちから言葉も達者で、この問いを発したのだって小学校にも上がらない頃だった。仲良くなりたいとは思っているわけではないが、近所の同い年の子どもたちからは遠巻きにされている。幽霊族の子どもを育てるにあたって養父である水木が独特の苦労をしているのを知っていた。

「べつに、僕もうひとりでカエルだって獲れるし、夜出歩くと心配されるのなんて面倒です。学校なんて行きたくないし、ここを離れて遠くに行ったってかまわないでしょう」

 それを聞いた実父はわざわざ鬼太郎の髪の毛から降りて、墓石の上にぴょんと立って――鬼太郎はそのとき家を抜け出して墓場を散歩していた――鬼太郎を見上げた。赤い瞳がじっと鬼太郎を見上げる。

「鬼太郎」
「はい」

 幽霊族の目は夜でも実父の赤い瞳をきちんと捉えた。いつも大げさに感情を表現する瞳が、何か動かしがたい真理を前にしたようにじっと静かだ。

「水木は好きでおぬしを育てておるのだよ。わしが保証する」
「父さんが?」
「そうじゃ」
「どうして父さんに水木さんのことがわかるんですか?」

 あれは子どもの反発だった。鬼太郎はあとからそう思うのだが、怒ったような鬼太郎の言葉にも赤い瞳は動じなかった。

「わかるとも。水木はかつて酒を酌み交わし煙草を分け合った相棒で、同じ父親なのじゃから」

 実父はそう宣言すると柔らかく目を撓めた。

「じゃから鬼太郎。もうしばらく水木のもとにいてやってくれ。お前が嫌じゃあないのなら」



 鬼太郎が渋々頷いた翌日、養父に声をかけられた。

「鬼太郎、爪を切ろう」

 半ドンだといって、養父は昼過ぎに帰ってきていた。その養父は背広を脱いだだけのシャツとスラックスの姿で居間の窓際に胡坐をかき、こちらに来いとでもいうようにとんとんと畳を軽く叩く。部屋の隅で妖怪たちを眺めていた鬼太郎はおとなしく養父のもとへ歩いた。

 養父のすぐそばで立ち止まった鬼太郎を、養父はひょいと抱えて膝の上に乗せた。鬼太郎は人間でいうなら五歳前後の身なりをしているから、すっぽりと養父の膝に収まる。養父のぽかぽかとした熱が鬼太郎の背中を温めた。

「左足からな」

 鬼太郎が遠慮をしても、養父は妙なところで目ざといし近い。養父は背後から覆いかぶさるようにして鬼太郎の足をそっと掴む。爪切りを持った養父の右手が細かく動いて鬼太郎の足の爪を切っていく。鬼太郎は黙ってそれを注視した。幽霊族の鬼太郎の成長の早さは人間とは異なる。実際、鬼太郎は生後すぐに墓から這い出した。妖怪のことを知らない人間にその速度が把握ができるとは思えないのに、鬼太郎が養父に言われて足元を見下ろすと、決まって伸びた爪が目に入る。鬼太郎は養父に身を預けて、伸びた爪の白い部分がぱちんぱちんという音とともに切り離されていくのを眺めた。養父の膝の上は爪を切る動きに合わせてまるで揺りかごのように揺れる。

 迷惑じゃないのだろうか。鬼太郎はやっぱりその思いを捨てきれない。本当はわかっているのだ。迷惑かどうかが気になっているのではなくて、何から何まで養父に頼っている現状が心細い。住処も、食事も、服も用意してもらって、こうして爪まで切ってもらっている。何度か養父に言われる前に自分で爪を切ろうと決心したこともあるのだが、爪が伸びるのを待つうちに忘れてしまって養父に呼ばれることを繰り返していた。

 好きでやっているんだと実父は語る。たぶん、そうなのだろうと思う。放り出そうと思えばいくらでもそうする機会はあった。鬼太郎がカエルの目玉をほじくっているのを見かけたとき、夜中に実父と話しているのを見つけたとき、妖怪が見えるといって近所の子どもと諍いを起こしたとき、学校に通わせるなら何かと物入りだからと煙草を我慢するとき。

 実父が見透かしたとおり、鬼太郎はこの生活が嫌いではない。養父のこともそうだ。決して嫌ではない。だからそれが不安だ。養父がそうしたいという思いだけがこの生活を成り立たせている。そして鬼太郎にはその思いの源泉がわからない。血の繋がりのない、種族の違う子どもを育てるに足る思いが。

 鬼太郎が物思いに沈む間にも養父は爪を切り続ける。左足と、右足と、両の手と。養父の大きな手が鬼太郎の丸い手足を取り上げて、その様子を午後の太陽が照らす。人間ならばまだ親に爪を切ってもらう時期なのだろうが、鬼太郎の精神は気恥ずかしさと戸惑いで揺れる。

「ほら、おしまい」

 爪の散らばるチリ紙を丸めてから養父が言う。

「ありがとうございます」

 普段ならそう言われてさっさと立ち上がるのだが、昨日の会話が鬼太郎を養父の膝の上に留めた。幸い実父は外出している。

「水木さん」
「ん?」
「水木さんはどうしてこんなによくしてくれるんでしょう」

 よくしてくれる、なんて。鬼太郎はあまりに正直に口をついた実感に顔を赤くしたが、養父は困ったように笑って鬼太郎の頭を撫でた。

「俺がしたいからだよ」
「どうしてですか?」
「どうして、なあ……」

 養父の手は繰り返し鬼太郎の髪を梳き頭を撫でた。恥ずかしいけれど背中を向けている分まだ気楽で、鬼太郎は大人しくそれを享受する。

「理由なんてないさ。本当に、ずっと、こうしたかったんだ。あんまり堂々と言うことでもないが、俺はずっと、誰かにやさしくしたかった」
「……わからないです」
「鬼太郎にはまだ早いさ」
「早くはないです」

 また子どもの癇癪だ。自分でわかっているのに鬼太郎は声に不満が滲むのを抑えられない。養父の手がぽんぽんと鬼太郎の頭を撫でた。

「まあ、そうだな。俺は戦争に行って人を殺したんだ」
「はい」

 子どもに聞かせるには血生臭い話に鬼太郎はこくりと頷いた。ある程度の年代以上の男なら大抵はそうだと、少し考えればわかる。戦争の痕跡を消し去るように経済は成長を続けているが、過去は決して消えない。

「そうするもんだってずっと教えられてきたが、本当はそんなことしたくなかったんだとお前を拾ってようやく気付いた」

 窓から差し込む太陽光が鬼太郎の体を温める。幽霊族だとしても日の光は心地よかった。

「……どうかな。何か別のきっかけがあったような気もするが。とにかく俺はお前が健やかで、笑って過ごせていると嬉しいんだ」
「理由になってないですよ」
「理由はないって言っただろ。説明は終わりだ。お前もそのうちわかる」
「説明でもなかったです。そのうちっていつですか」
「そうだなあ……」

 養父が片手にしまい込んでいた丸めたチリ紙を屑籠へ放る。そうして鬼太郎を立ち上がらせるとよっこいと自分も立ち上がった。

「俺はどうだったかなあ……虚しい思いでもしたのか、優しい人間にでも出会ったか、鬼太郎があんまりに小さかったからか……わからんな……」

 養父は最後に鬼太郎の頭を一撫ですると「便所」と言い残して居間を出ていく。逃げたのかもしれない。養父はたまにそういう狡いことをするから。ただ、もしも理由のない感情が理由のないままそこにあっていいのなら、そこにあることを確かに肯定してくれるのなら。自分自身にもそのうちそれがわかるというのなら。もう少しだけここにいてもいい。いつか来るその時を、待ってもいい。与えてもらうばかりのいまに甘えたまま、彼に――あるいは誰かに何かを差し出す未来を遠く夢見てもいい。鬼太郎は養父の背中を見つめて、そう決めた。