荒野風景
皆守は虚しい思いで講堂の天井を見上げ、教頭の話を聞き流した。葉佩九龍は結局戻ってこなかった。卒業式は一人が欠けたまま何の波乱もなく進み、この閉式の辞でおしまいだ。斜め後ろに座る八千穂が俯いているのが気配で分かった。皆守は悲しむというより、惨めな気持ちが強かった。わざわざクリーニングした、糊のきいたシャツを着ている自分が馬鹿らしい。いらいらと視線を彷徨わせ、前の座席のパイプ椅子を足先で突きながら時間をやり過ごすうちに、長い挨拶が終わる。司会役の教師のアナウンスでA組が立ち上がり退場を始めた。在校生から拍手が上がるのを醒めた思いで聞いた。
もう張り切る理由もなく、退場の行列に交じりながらだらだらと講堂をでたところで急に列の歩みが遅くなった。廊下に人だかりができている。八千穂の「何?」という声を聞きながら、皆守も目を眇める。特に関連も見当たらないような個性的な人間たちが、誰かを囲んでいるようだった。――つまり、生徒会と、執行役員が。
それで皆守も八千穂もその中心に見当がついた。
「ねえ! もしかして――」
八千穂の大声が周囲の動きを一瞬止めた。人だかりの中心から応えるように手が上がる。忘れるはずもない、葉佩の手だった。
そこからは大騒ぎだった。八千穂の「遅いよお。遅刻だ!」という糾弾に、葉佩は困ったように笑う。
「いや、本当はもう少し早く着いていたんだけど、制服がないことに気が付いて」
まだ肌寒い季節だったが、葉佩は半袖のTシャツを着ていた。下は見慣れたワークパンツとブーツだから、おそらく遺跡帰り、怪しまれる部分だけを着替えたのだろう。剥き出しの腕は記憶よりもがっしりとしていて、ところどころにガーゼが貼ってあった。
「制服がなくても、葉佩さんの分の卒業証書は渡せますよ」
雛川の声が輪の外から聞こえた。
「積もる話があるのも分かりますが、とりあえず皆さん教室へ。卒業証書はそこで渡します」
雛川の顔も喜びで綻んでいた。これで雛川のクラスは全員が卒業できたことになる。
「え、貰えるの? おれだけ? 恥ずかしくない?」
「式で卒業証書を受け取るのは卒業生代表だけですわ。私たちも教室で受け取りますの」
椎名の言葉に葉佩はへえ知らなかったと素直に感心した。そのあと小さく続いた言葉は、周囲が小突いて黙らせた。「っていうか、おれの学籍とか単位ってどうなってるの? 協会から聞いてないんだけど」
教室に戻ると、雛川は涙ぐみながら一人一人と言葉を交わし、卒業証書を手渡す。遅々として進まない歩みだったが、なぜか雛川が言葉をかけるたびに教室からは拍手が起こった。後半になるとホームルームが終わったらしいほかのクラスからの見学もやって来て、皆守の番には鹿爪らしい顔をした阿門と薄く笑っているらしい神鳳と明らかに笑っている双樹に見守られる羽目になった。最後は転校生である葉佩九龍で、人徳なのか最後の盛り上がりなのか、一番大きな拍手が聞こえた。
アルバムだ寄せ書きだ写真撮影だとはしゃいで――どうしてか葉佩も嫌がらなかった――場所を変えてマミーズでもまた盛り上がった。マミーズには流石に遺跡のことを知っている人間だけが集まったが、全員が葉佩がいなくなった後の天香について、そして自分の将来についてを語りたがった。皆守も八千穂に首根っこを掴まれてほとんどすべての騒ぎの中にいたが、ただアロマをふかしてその様子を眺めていた。
「皆守は、将来どうすんの」
全てが終わって、宿をとってある、荷物も運んであるからと場を辞そうとした葉佩を周囲が止めた。葉佩以降に《転校生》が来るはずもなく、寮の彼の部屋は未だ空いている。では荷物を取って来るからという葉佩は、手伝いに皆守を指名した。誰も異論は唱えなかった。
ほとんど初めて訪れる学校の外は、新宿という華やかさも、学校や遺跡の静けさも遠い、中途半端な住宅街だった。雑居ビルと、古いマンションと、ぽつぽつと点在する小さな飲食店の前を並んで歩く。マミーズの熱気から遠ざかると、春の冷たい風が心地よかった。
「――とりあえず、浪人」
皆守の中では納得している結論だったが、あの話し声が途絶えない集まりの中でも、誰一人皆守の進路を葉佩に伝えはしなかった。本人以外の誰が話しても、中途半端なことにしかならなかっただろうと、皆守も分かっている。
「そっか」
吐息のような返事だった。そこに小さな悲しみを見るのは、皆守の錯覚だろうか。
「できれば今日、皆守の行く先を知りたかったけど」
「来年は良い報告ができると思うぜ」
「うん」
やはり小さな声だった。葉佩は周囲を確認して、歩道から一歩引く。時間貸しの小さな駐車場の看板が、葉佩の頬を不健康な色で彩った。
「あのさ。おれたち卒業したんだよ」
立ち止まった皆守を見て葉佩は笑う。笑おうとして笑えない、奇妙に歪んだ口元から、震えた声を聞く。
「卒業なんだ。おれたちもう、同級生じゃなくなるんだよ。そもそもおれには、ここに何の義理もない。本当は卒業式だって来なくてよかったんだ」
頬を真っ赤にして、顔をくしゃくしゃにして、葉佩の顔は幼い子どものものだった。八千穂が泣くぞと、免罪符のように明るい少女のことを思う。
「卒業なんだ。もうおれたちの縁は切れる。同窓会の連絡なんて、おれに来ると思わないでくれ。なあ、お前、皆守。どうしておれたちの縁が今後も繋がるなんて思えるんだ?」
問われている。反射的に口を開くが、何の言葉も見当たらなかった。絶句する皆守の前で、葉佩は無理に口角を持ち上げる。すうと息を吸う音は、無慈悲な宣告の前触れだった。
「やっぱりお前のこと許せない。殴っても許せなかったし距離を置いても許せなかったし時間をおいても許せなかった。あの最後、みんなと話して、お前を殴ったあの一瞬だけ覚えて、もう全部解決したんだ無事だったんだそれでよかったんだって思いたかった。でも、無理だった。おれねえ、お前が何に悩んでいても何を選んでも、別によかったよ。裏切られたなんて思わない。悲しいとすら思わない。お前が選んだなら、そうかって言ってやるつもりだった。お前が苦しんでたのを知っていたから、理由は知らなくても、心配だったよ。喧嘩したっていつか一緒に悩んだり話したりできるって思ってたよ。解決にはなんないかもしれないけど、それでもお前を楽にしてやれるって思ってたよ。――でも、いつかはもう来ない」
傷をつけた。その衝撃にぐらりと皆守の脳が揺れた。だって。とっさに脳裏に浮かぶのは保身の言葉だ。あのときは、ただ、怒られたのだとばかり。いつもの、真っ直ぐな眼差しで、自分を粗末にするなと、ただ、そう、真っ当なあり方を示されたのだと。
「それはだめだろ。おれもうお前のこと信じられないよ。おれはもういつかなんて言えないんだ。ずっと、ずっと一瞬後の死に怯えてるよ。お前は生きてるだろ、それで安堵して、でもお前は死を選ぶかもしれないんだ。すぐにおれは不安になる。お前と離れたくないよ。でも、お前に、穴の開いたバケツに注げるような愛情はもう残ってない。お前と一緒にはいられないよ。自分を顧みないやつに守られたくはない。皆守、」
皆守の心は奇妙にねじれる。どうしてか今すぐ、愛していると叫びたかった。
「おれにどうしてほしい? おれはもうお前を忘れていいか。ここで美しい思い出にしてさよならをしたい。そうさせてくれ。もう苦しみたくないんだ」
感情そのままの声が皆守にぶつかる。憂いと悲しみと虚しさと怒りと愛情と友情と。
ようやく動き始めた皆守の思考は、奇妙に冷静で混乱していた。見放された。謝るべきだ。慰めるべきだ。まずは宥めた方がいい。愛してると言いたい。弁解をしなければ。すべての主張を飲み込んで、皆守は葉佩を見つめ返す。葉佩の疲れ切った表情が苦しかった。
「悪かった」
葉佩から目を逸らさずに、掠れた声でまず謝罪する。今さらながら、自分の愚かさが身に染みた。もう皆守は信じてはもらえない。信用を自分でふいにした。過去の自分は遠く別人のようで、あのころの感情も身に迫るものとして感じることはない。皆守は卒業した。この三か月をかけて、卒業するだけの出席日数と成績と、おぼろげな進路を手に入れた。その立場から振り返ると、まったく過去の自分は大馬鹿者だった。弁解の余地はないが、それでも話をしなければならない。
「話を、させてくれ」
睨むように皆守を見据えたまま、葉佩は小さな顎の動きで先を促した。許されたことにひとまず安堵して、皆守は乾いた唇を舐めた。
「信じて欲しいとは、言わない。ただ、俺は、」
葉佩の瞳に悲しみと諦念の色を見る。皆守は考えなければいけない。言葉を尽くさなければいけない。
「とりあえず、何かを知りたくなった」
何も話せていないのだと、本当は八千穂や、執行委員や、ほかの生徒会役員たちのように、伝えたいことが、変化があったのだと、言わせてくれ。
「あのあと、もう俺には何の言い訳も残っていなかった」
混乱した頭で切り出した言葉で、ようやく当時の自分の輪郭を掴む。
「――いままで、何も知ろうとしなくて、気づこうとしなくて、考えようとすらしなくて、将来なんかいらないと悲観して自罰的に振る舞うこと自体が怠慢だったと、これから生きなきゃいけないとなって初めてわかった。何かを考えないといけないと思った」
葉佩の表情は固いが、少しだけ、皆守の知る表情に近づいていく。遺跡で何度も見た、新たな化人を前に戦い方を探る顔だ。警戒と観察と、好奇心を混ぜた顔に、いまの俺を知ってくれと祈る。
「まだ、自分が何がしたいのか、何が向いているのか分からない。だから、大学に行く。大学も浪人も、お前にとってはモラトリアムに見えるかもしれない。ただ、4月から予備校に通うし、出来る限りのことはするつもりだ」
今だって、しっかりとした展望があるわけではないのだと、話しながら自分に呆れる。でも、出来ることをするしかないのだと、もう分かっていた。
「俺が死ぬところを見せてやるよ」
びくりと葉佩の肩が跳ねた。皆守は急いで言葉を継ぐ。
「俺が、大学に行って、勉強して、やりたいことを見つけて、もしかしたら見つからないかもしれないが。多少誰かの役に立つような仕事をして。美味いカレーを作って。五十年後だか百年後だかしわくちゃのじじいになって、お前を残していくのが不安だって言いながら死んでやる。俺がもう、生きることをやめないってことを、お前に見せ続けてやる」
皆守に言えるのはここまでだと思う。
「まだ、俺を見捨てないでくれ。……また俺に会いに来いよ」
「……おれが先に死んだら?」
ほうけた葉佩の言葉に笑って見せた。
「死ぬつもりなのか?」
「つもりはない、けど。可能性は高いでしょ」
「そうしたら俺の勝ちだ。お前に何か言う権利はないぜ」
「ええ? 勝ち負けなの?」
いやに明るい声がすっと夜に通って消えた。葉佩の言葉は続かない。続きを待つために、皆守は黙ってアロマに火をつける。駐車場の精算機の前に立ち竦む高校生ふたりを、通行人がちらりと見ながら通り過ぎる。こんなところでする話ではないと今さらながら自省するが、もう退くことはできない。
葉佩は無表情だった。強くて、優しくて、きらきらと輝く目をした宝探し屋はそこにはいない。疲れ切って、倦んだ若い男がいるだけ。かわいそうになと皆守は思う。思うだけの余裕があった。皆守は彼が人を見捨てることが出来ないことを知っていた。もう既に一人、似たような人間を殺していたので。蒼ざめた女の顔を思い出す。蒼ざめていたが、毅然とした表情を崩さなかった女は、最後に微笑んで見せた。あの女は皆守を救った。そして死んだ。この男も皆守の手を取り、代わりに一生自らの傷を抉り続けることになるだろう。
皆守は、あの女の言う優しさを自分に見いだせたことはない。皆守の繊細さは最後まで自分を守ることにしか向かなかった。守ってやる、友人だと言いながら転校生の前に立ちはだかり、バディとして、と言った口で彼の手を振りほどいた。他人に何かをしてやれたことのない、卑怯で怠惰な男だ。もう、守ってやるとは言えなかった。傷つけることばかりしてきて、傷つけない自信なんて欠片もなくて、それなのに皆守は最後、葉佩の情を盾に取る。
「ずるいね、皆守は」
「そうだよ、知ってただろ」
葉佩は笑ったようだった。
「いいよ。お前に賭ける」
愛してるよ、皆守。あの頃よく聞いた言葉が戻ってくる。ほとんど泣き笑いの葉佩と向かい合って、皆守は笑った。
『生きてる?』
葉佩からメールが届いていた。半年ぶりだ。気が付いたのが大学だったので、皆守は昨年度の学生論文集の自分のページを写真に撮って送ってやる。しばらくすると着信があった。知らない番号だが、恐らく葉佩だ。葉佩のメールアドレスは宝探し屋としてのものを教えてもらって以来変化がないが、電話番号は頻繁に変わった。訪れる国ごとにプリペイドの携帯を使っているようだった。
「もしもし」
「久しぶり。あれ皆守が書いたの?」
「そうだよ。これで修士だ」
「しゅうし」
「Master。4月からはdoctoral course」
「ああ、なるほど。じゃあ住所って変わってない? もうすぐ成田行の飛行機乗るんだけど」
「変わってない」
「しばらく泊まっていい? とりあえず2,3日」
「わかった。近くまで来たら連絡しろ」
「了解。ありがと」
それで電話が切れた。
「ご家族ですか?」
近くにいた後輩が問いかけてくる。もうすぐゼミの集まりなので作業を切り上げたようだ。
「いや、友人だ」
「いいですね。私の周り、みんな忙しいらしくて何の音沙汰もないんです」
「就職したばかりだからだろ」
「このまま縁が切れるのかーって思ってたんですけど、そんなわけないですよね」
「切れる奴は切れるぜ」
「意地悪だ」
大袈裟に嘆く後輩を鼻で笑って、皆守も机を片付けはじめる。随分と人付き合いが良くなったものだと思う。ずるずると研究室に残り続けて、後輩の指導もするようになったのだから当然か。そして、葉佩との付き合いも続いている。年に数回連絡が来る。近況報告の場合と、遊びに行くという連絡と、割合は半々だ。皆守の知る限り、大きな怪我もなく仕事を続けているようだった。会うときは飯を食べるだけのこともあれば、皆守の部屋に泊めることもある。最初は葉佩もホテルを取っていたのだが、国外からの予約の手間や急な予定変更を考えると皆守の部屋に泊まる方が面倒がないと思ったらしかった。それで皆守の部屋には客用布団と新品の下着が常備してある。
結果だけを見るなら、まるで普通の同級生のように皆守と葉佩の道は分かたれた。葉佩は仕事をし、皆守は大学生をしている。交流はあるが、それぞれ本職あるいは研究の話はあまりしない。お互い理解できないからだ。線文字AとBのどちらが解読済みなのか皆守は覚えていないし、シルクロードが具体的にどこなのかも分からない。葉佩だってクロマトグラフィーの手法は知らないだろうからお互い様だ。それなのに、話題がないと思ったことはなかった。近況を報告しあった後の会話は、あの學園の寮の一室で繰り広げられたのと同じようにくだらなく、愉快だ。
実を言うなら、二人の関係は皆守が一方的に葉佩を友人と呼んでいるだけだ。葉佩はあの玄室での出来事以来、一貫して皆守を知人と呼称している。皆守があの日あの選択を取らなければ、恐らくすべてになれただろう。友人であれ、親友であれ。望めば人生のパートナーにもなれたかもしれない。しかしそうはならなかったので、葉佩は皆守に対して何の責任も負わない立場を自称する。繰り返し危険な場所に赴く人間に相応しい危機管理能力で、葉佩は自らの人生から皆守を切り離した。だから皆守も、葉佩とは何の関係のない場所で試薬を混ぜたり顕微鏡を覗いたりして日常を過ごしている。二人の人生は遠く隔たり、時々頑張って近づける。一般的にはそれを友人と呼ぶのだという感覚もあったが、毎夜遺跡に潜り、守り守られながら化人を倒した仲からすると、随分そっけない関係だ。
「それでも結局一番は皆守センパイじゃないすか」
いつか、そう拗ねたのは夷澤だった。にこにこと笑う葉佩が生意気な後輩を気に入っているのは傍目にも明らかだったが、本人が求める形ではないだろう。
「九ちゃんが俺に会いに来るのは、俺がこいつに借りを作ったからだ」
「そう、取り立ててる」
「それで仲良く飯食ってりゃ世話ないですよ」
二人で肩をすくめて見せると夷澤はわざとらしく鼻を鳴らした。夷澤が思っているほど仲がいいわけではない。皆守の借りも、葉佩の取り立ても真実だ。皆守の部屋に泊まった夜、葉佩は必ず起きて皆守の呼吸を確認している。葉佩が起き上がる衣擦れ、微かな床の軋みを皆守はきちんと思い出せる。皆守が寝たふりをしていることを双方承知の上で、葉佩の手が皆守の首元の脈を探る時間がある。たまに葉佩の手に力が入るときがあって、皆守は逆に弛緩しようと深い息を吐く。葉佩の一瞬の気の迷いは、あの日皆守が選んだ決断の再演だ。別にそれでもいいと皆守は思っているが、気の迷いは迷いのまま、何とか関係は続いている。
しかし、話しかけられたのは初めてだった。
「砂漠の話をしたことがあったっけ」
「……中国のやつか?」
「違うよ。おれの初任務。エジプトの話」
連絡があった翌日の深夜に葉佩は姿を見せた。ベッドに入って半ば微睡んでいた皆守を覗き込むように黒い影がある。葉佩相手に鍵はどうしたとは言えないだろう。髪を梳くようにそっと指で触れられた。汗と埃の匂いがした。「布団、出してあるから寝るなら風呂入れよ」夢うつつの言葉に「わかってる」の返事が聞こえたが、影が立ち去る様子はない。
「『砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているから』おれはその言葉が好きだった。おれは秘宝に憧れていたから」
砂漠という言葉に皆守はいい思いを抱いていないが、葉佩にとっては違っていたらしい。初めて聞いた話だと思う。意識が段々と覚醒してくる。
「初任務でごたついて砂漠を横断する羽目になったとき、おれは馬鹿だったと思い知ったよ。砂漠は残酷だった。美しさなんて感じる暇もなかった。ただ砂を踏みしめること、進むべき方角、距離、肌が焦げるように熱いこと、そんなことしか考えられなかった。おれは夢やロマンのためではなくて命のために井戸を探した」
「そして?」
「見つからなかった。砂漠の真ん中で行き倒れて、協会に見つけてもらって命拾いした」
「災難だったな」
初任務だというから天香に来る前だろう。もしかしたらそこで葉佩が死んでいたかもしれない可能性に肝が冷える。
「違うよ。何でかな、砂漠が好き――というか憧れるようになったんだよね。おれは未熟だって思った。砂漠の秘密を暴けなかった」
葉佩の指が皆守の顔を辿る。眉、瞼、目じり。
「今回希望してモロッコとか、アルジェリアのあたりに行ったんだけど、暮らして初めてわかった。井戸は特別なものじゃないんだ。人間のいるところには井戸がある。生きるために必要だから。でも、だからひときわ輝いて見える」
ベッド脇に膝をついたらしく、葉佩の顔が近くに見えた。皆守は今でも目がいい。左頬の白いガーゼが暗い部屋の中で浮いている。殴られたのかぶつかったのか、ガーゼからはみ出したこめかみのあたりが青黒く変色していた。
「美しい夕焼けを見たよ。岩と、灌木と、丘が、長い影を作っていた。風が夜を連れて来ていた。髪が靡いて、服の裾が膨らんだ。砂が流れるのが見えた。砂漠に微笑まれている気がした。おれも砂漠に微笑んだ。このあとどれだけ砂漠に酷い目に遭わされたって、たとえ砂漠で干からびて死んだって、砂漠を愛することをやめないだろうと思った」
起き上がろうとする皆守を制して、葉佩の手が頬を包む。
「愛してるよ、やっぱり。これから何をされたって」
「もう、あんなことはしないって言っただろ……」
「うん。ただ、言わないとと思って。愛してるよ」
葉佩の目が、皆守の瞳を覗き込んでいる。まだ砂漠は見えるのだろうか。自分では分からないが、目を閉じてそれを葉佩から隠す。
「俺はずっとここにいる」
腕を引くと、あっという間に葉佩は皆守の上に転がった。抱きしめると葉佩の髪から汗と砂と冷えた夜の匂いがする。一度も訪れたことのない砂漠の景色が見えた気がした。夜の砂漠をキャラバンが征くのだ。