いきているからだ
「生かされている」と思うことに、かつての私は耐えられなかっただろう。今この事実を受け入れているのも、欲望が消えたことによる無頓着にすぎない。
私の世界はおよそ静かに凪いでいる。悪魔の食べ残しである私はまともな欲を持たず、関心を持たず、本当の塵芥のように世界に存在し、他人がやってきたときだけ私は人間の形を取り戻す。
「どうですか? やりたいこと探し」
カブルーは検分するように私を眺め、満足いく何かを見つけたらしく柔らかく微笑んだ。最近は規則正しい生活を送っているので私の外見にもそれが反映されているのだろうが、私が詳細を知ることはない。
酒場で飯を食べている。鶏肉を使った猟師風の料理とパン、豆のスープ、それから酒。飲めますかと聞かれたので飲めると答えた。聞いてきた男も同じ酒を飲んでいる。食事を共にするとき、カブルーは私から何かしらの希望を引き出したがる。最近よく食べる料理はありますか、知らない料理は、最近食べていないものは。迷宮にいたときにはなかった質問は地上の選択肢の広さゆえだ。今回カブルーは私が最近まで港町に滞在していたことを聞き出して、それならと山の料理になった。問いかけは毎回巧みで、私は目の前に並ぶ料理を私自身が望んだような気がしてくる。
「行き詰っている」
それでも私が食事においてもっと食べたいとか、食べたくないだとか思うことはない。私は野菜と一緒に煮込まれた鶏肉を切り分けて口に運び、その合間にカブルーの質問に答える。
私は新たな欲求を探すために様々な趣味に手を出していたが、私の成果物――麺や器や手編みのマフラーやその他――に対する評価は恐ろしいほどに通っていた。「まずくはないが――無関心がありありとわかる」
試行錯誤への意欲がないので指導をしたところで「やらせている」ものにしかならないというのが教えを乞うた人間たち共通の見解だった。歪な器でぼそぼそとした蕎麦を食べたところで私が達成感を覚えることも悔しく思うこともない。
「ああ、そうなるのか……」
カブルーは千切ったパンを口に入れながら唸った。
「わからなくはないですけどね。俺も、いつまで経っても魔物に詳しくなれないんです。歩き茸の種類なんてさっぱり」
「そういうときはどうする」
「うーん……俺は魔物のことはもう諦めていますけど、あなたにそう言うわけにもいかないですよね」
「諦めているのか?」
「他にやりたいことが山ほどありますから」
言葉の通り、カブルーは忙しくしているようだった。外交官として駐在しているパッタドルからも度々彼の話を聞く。人付き合いが不得手な国王から頼られている上に、経験を生かしてエルフとの繋ぎ役になることが多いようだった。今回食事に誘われたときは、久しぶりに、の枕詞が付いた。
「お前が食事を抜くのもそのせいか」
「……誰から聞いたんです?」
「パッタドル。宮廷の顧問魔術師から話を聞いたらしい。大元はお前のところの薬師だと聞いたが」
「あー……」
困ったように眉を下げるカブルーは「心配させちゃったな」と小声で呟いて、スープから黄色い豆を掬った。
「まあ、そうですね。気持ちが逸って、どうしても生活がおざなりになってしまう」
そう言ってスプーンを口に運ぶ様子は苦手な料理を嫌々食べる拗ねた子どものように見える。食べる喜びはそこには見つからない。
「あれだけ食べるのに苦労した思い出があるのに、どうして忘れちゃうんでしょうね」
小さな声がぽつりと酒場のテーブルに零れた。世界の理不尽に立ち竦むような声だった。賑やかな酒場の中で、ここだけがしんと静かだ。
「欲を忘れると楽だからな」
カブルーの青い目がぱっと私を探る。私の中に何か、探して見つかるものがあるだろうか。カブルーが何を読み取ろうとしているのか分からない。
「楽ですか」
「だから忘れるんだろう」
欲がないと世界は平坦になる。食べたい料理も食べたくない料理もない。すべてが等しく無価値になる。それを喪失と捉える感性も失えば、自分自身も平坦な世界の一部になって終わる。そのぎりぎりの淵に私は生きている。
「ミスルンさんはまだちょっと、悪魔に食べ切ってほしかったって思ってますか?」
囁くようなカブルーの声に、ようやく私は彼が何を穿っていたのか気が付いた。
「いや」
私に唯一残っていた欲求は知覚とともにきれいに片付けられてしまった。私はいまここにいる私を許している。かつて欲望に振り回された私、食べ残しの私、悪魔にそっぽを向かれた私は、それでもここにある。
「生きることは難しい。それだけだ」
私は自分の体を持て余し、心を置き去りにしたまま暮らしている。喜びは薄く、悲しみはない。私は義務的に生活をこなし私を明日へと運んでいくが、その明日に何かがあるのだという期待もない。
「そうですね……」
カブルーの手の内のスプーンが手慰みのようにくるくると回っている。私もスプーンを手に取って豆のスープを掬う。
「だが、食べるべきだろう」
言い聞かせるような声になった。彼が子どもでないことは重々承知している上に、私のほうが身辺が覚束ない身のはずなのだが。やりたいことがあるというのなら、それを果たすためにも食べるべきだ。そうでなくとも、私たちの体には食事が必要だ。
生きたいとは思わない。だが、死のうとも思わない。欲望とも言えない、消極的で後ろ向きな心の働きで私は何とか毎日をやり過ごす。人を頼って食事の時間を教えてもらい、手を引かれながらベッドへと潜り込む。惰性に近い暮らしだとしても、それは私の義務だ。
「あなたにそんな風に言われるとは思わなかった」
カブルーは苦笑して、豆のスープを口へと運ぶ。
「そうだろうか」
「あなたに俺の健康を願われるなんて」
願ったのだろうか。ただ、儘ならない生活を確かめただけだ。瞬く私に向かって青い瞳が悪戯っぽく微笑む。
「頑張りましょうね、お互い。あなただって、まだ生きているんですから」
その視線に晒される一瞬に、私は確かに存在した。私は恐らく、そうやって生きていくのだ。私がどれほど小さくなったとしても、私の外側の眼差しは消えない。