惜みなく愛は奪う

 ベッドに横になり目を閉じてから三十分が経ち、私は体を起こした。ベッド脇に置いたランプと手帳を手に部屋を出る。

 エルフの女王の命で建てられたこの建物は、メリニにおいて西方エルフの大使館兼住まいとして機能しており、私の居室もその一角にあった。パッタドルが私に一等いい部屋を与えたので、私の居室から台所までは随分歩く。しかし別段不便とも思わなかった。私の欠落した欲求が戻ってくることはない。

 ランプの明かりを手に階段を降り、北側の台所へと歩く。使用人たちももう眠っている時間で、きれいに片付いた台所に私は一人だ。明日の仕込みに使うだろう野菜だけが調理台の上に所在なく転がっている。

 私は調理台の上にランプを置くと、手帳のページを繰った。手帳のページは繰り返し触られたせいでぼろぼろで、そろそろページを束ねる糸が解れそうな具合だが、それほど読み込んできたせいで私は簡単に目当てのページを探すことができた。

 そこにはこう書かれている。

「ベッドに入って三十分以上時間が経ったとき」

 それから箇条書きでするべきことが続いている。

「一、温かいお湯を飲む」
「二、足が冷えていたらマッサージをする」
「三、汗をかいていたら布団をはぐ」

 そこからもこまごまとしたするべきことが続いているが、大抵はこの三つで事足りた。この手帳にはそういった、私の生活上の困難への対策が詰め込まれている。

 私はそのページの指示通り、薬缶に水を注ぐと温める魔法を使う。お湯が沸く時間を待ちながら、私は手帳のほかのページを眺める。「突然体に力が入らなくなったとき」、「食事を摂る時間がわからないとき」、「怪我をしたとき」、「顔色が悪いと言われたとき」、「口内炎ができたとき」どれも私が一度は経験した生活上の不便だ。このページを繰るたびに、私はああこういう日があったと思い出す。

 この手帳は元はと言えばカブルーのものだった。彼が私の世話係を離れるとき――これはリシオンの言い方で、正確に言うのなら悪魔が倒され、カナリア隊が一時帰国を決めたとき――私のために書き記して渡してきた。その後、面白がったカナリア隊の面々や、使用人や兄たちによって手帳は増補が続けられ、何度もページは繰られてすっかり草臥れてしまった。

 薬缶からしゅんしゅんと湯気が立ち上るようになり、私はお湯をコップへと注ぐ。手帳を元のページへと戻ると、おそらくはパッタドルの手で「やけどに気を付けてください」と書かれていて、私はコップをしばらく放置することに決める。

 この「温かいお湯を飲む」という行為も、元々は「温かい牛乳を飲む」だった。牛乳の部分に線が引かれ、上から書き直されている。私の口内衛生に気を使った誰かが牛乳はやめたほうがいいと思い修正したに違いなかった。

 こういった試行錯誤の繰り返しで、私はこの手帳があれば人並みの生活を送れるようになった。

 私はカブルーを、パッタドルを、兄を、リシオンを、シスヒスを、オッタを、フレキのことを考える。カブルーの端正なエルフ文字、手帳を手にあれも加えよう、この対策は変だ、と言い合うカナリア隊、手帳を手にしていると興味深げに見てもいいかと問うてきた兄。そういった手帳にまつわるあれこれをよく覚えている。

 この記憶を思うとき、私は彼らのものになった――食べられているのだという錯覚がある。彼らが私のためにこの手帳を書き記すとき、私は彼らの心の中に生きている。私が出くわしそうな困難を、私が辿りそうな思考を、私にできそうな対策を彼らは考え記してくれた。彼らの中には私が生きている。私は彼らの一部になったのだという甘い幻想。

 もうひとつ、反転して、私も彼らを食べているのだとも思う。私は彼らの関心を奪い、情を奪い、思考と時間を占有する。彼らの一部が私のものになったのだと。

 静かな夜、誰もいない台所で、私は不思議な幻想にとりつかれる。

 私は――悪魔の気持ちが分かるようになったのかもしれないと。あれほど憎んだ悪魔に、捕食者としての私は共感するようになった。

 彼は身の内に、腹の中にすべてを取り込みたかったのだ。あるいはすべての生命を自分で満たしたかった。今の私が彼らに対して思うように。

 しかし、悪魔は死に、私の欲求はいまだ薄い。私は悪魔ほど強い飢えに苦しむことはなく、ただ悪魔の痕跡探しと麺打ちに邁進する。私は彼らを食べてしまおうとは思わない。ただ、いつか彼らが美味しいと言えるだけの蕎麦を作ってみたいとだけ微かに思う。

 そろそろお湯もちょうどいい温度になっただろうと私はコップに口をつける。腹の中にぽっと温もりが灯り、私は微笑んだ。