私の騎士

 太陽は空高くにあり、影は短い。森は遠目にもむせ返るような生気を放ち、空も負けず劣らず濃い青をしている。ボヘミアの夏だ。天と地の狭間では燕が飛び、道路を一匹の馬が行く。

 ラッタイへ向かう馬だった。神父のゴドウィンを乗せた馬だ。馬は森を抜け、草地を走り、終いには小さな点となって地平線の向こうへと消える。そのすべてを見送って、ハンスは小さくため息を吐いた。

「戻ろう」

 踵を返して向かうのは悪魔の隠れ家だ。後ろに付き従うヘンリーの気配を感じながら、ハンスは沈黙を埋めるように口を開く。

「これで俺は重度の熱病に苦しんでいることになった」
「ハヌシュが信じるかな?」
「信じなくても大目に見てもらえるさ。叔父に多少の罪悪感があればの話だが」

 言ってから自分で首を傾げる。あの人が私に悪いと思うことなどあるのだろうか。世話になった叔父とはいえ、かねてからの約束を反故にされたばかりである。だからこそ、とハンスは虚しい希望を抱く。

「少なくともゴドウィンが行って戻ってくるまでは自由だ。この機を逃す手はないぞ。ボヘミアの夏は短い」
「何をするんだ?」
「とりあえずはワインだな。それから……ここにろくな女はいないが、狩りならできる。この間は邪魔が入っただろう」
「そうだったな」
「明日にでも行こう。少しだけ早起きをして」
「カポン卿にしては珍しいお言葉」
「うるさいぞ」

 おどけるヘンリーに向かって顰め面をして軽く彼のふくらはぎを蹴る。当たり前のようにヘンリーはそれを受け入れて笑い、ハンスはどうしようもなく愛しさが拭えない。ハンスの表情に気が付いたのか、笑っていたヘンリーがふと真顔になるとはしゃいだ空気はふっと霧散し、恐れていた沈黙が落ちる。スフドルでヘンリーが援軍を呼びに行ったあの夜以来、二人の間にはぎこちない空気が流れていた。

「結婚したくない」

 口走った言葉は真実で、そして口にした瞬間に可能性になった。ヘンリーの顔に動揺が走り、ほんのわずかに口が開く。薄く開いた口は何も言わないまま閉じられて、二人の目線は地に落ちる。

 遠く悪魔の隠れ家からざわめきが聞こえる。ジシュカの怒鳴り声、悪魔の笑い声、どれも耳を澄まさないと聞こえないほど小さく、このまま二人が消え去ったとて誰も気づきはしないだろう。

 このまま二人、どこか遠く、誰も知らないところへ。そう願い遠くを見つめるハンスとは裏腹に、ヘンリーはハンスの瞳をじっと見据えた。ヘンリーの青みがかった大きな瞳が好きだと思う。彼の純真さをそのまま表しているような気がして。

 ヘンリーはぽつりと言う。

「あんたが時々人間みたいになる瞬間が好きだ」
「何?」
「あんたが貴族の素振りをやめて、悩んだり、苦しんだりしていると」
「悪趣味だ。それと私は貴族だぞ」
「知っているさ。それでも、あんたがそうしていると、力になってやりたいと思う」

 それをどう捉えればいいのか悩む前に、ヘンリーは薄く笑った。

「愛している。何があっても」

 彼は私が行動に起こさないことを知っているのだ。ハンスは思う。私は持ってないものを失ってばかりだ。ハンスは思う。自由、それから独身、領土、私が継ぐはずだったすべて。そしてそれに慣れ切っている。失うことを悲痛に感じれど、抗う力を持てないでいる。

 ヘンリーの寂しげな笑みを見つめていると、彼の右手が伸びてハンスの左手を掴む。左手は持ち上げられて、祈るように彼の額に押し当てられた。

「スフドルでの約束を守ったように。今ここで約束する。何があったって一緒にいる」

 スフドルで握られた左手。彼の愛と忠誠の証。彼の短く柔らかい髪と、瑞々しい肌の感触を感じる。ハンスは目の前の光景にくらくらと頭が揺れる。彼の愛、彼の真心。彼ばかりがこんな風に差し出すのでは駄目なのだ。

 ハンスは口を開き、喉の奥から掠れる声を絞り出した。

「私の騎士になってくれ」

 ヘンリーの青い瞳が見開かれるのを見つめながら、ハンスは彼の手をほどき、そっと彼の肩に乗せる。少し力を加えると、意図を察したようにヘンリーが片膝をついた。見上げる青い瞳を見つめ返す。

「貴族と言っても今の私には地位しかない。領土も城も、何一つない。そしてこれから自由もなくなる。それでも、お前だけは私の、俺の所有物だと言わせてくれ。お前の体が私の領土、お前の腕が私の城、お前が私の領民だと、何があっても。そうしたら――
「約束する。俺は生涯あんたの従者だ」

 ヘンリーの声は力強く、ハンスは胸が絞られるように痛んだ。神の前に何かを誓える相手がいるとしたらこの男ただ一人しかいないのに。それでも私は貴族の義務の前にひざを折る。

「私も、愛している。お前は生涯私のものだ」

 ハンスは腰を折って彼の左頬に手を当てる。そうして彼の唇にキスをした。神よ、見ろ。これが私の誓いだ。心の中、声が嗄れんばかりにそう叫びながら。