渚にて

 幻の海に浸っていた。遠浅の、水面がきらきらと輝くだけの海。透き通った波が影浦の肌を打ち、そうして砕ける様子が脳裏に浮かぶ。幻想の波にくすぐられながら影浦の心は冷えていく。

 押し寄せる波は目の前の人間の感情だ。柔らかいのは親しみで、揺れているのは戸惑いだ。長年の経験から、影浦はそう判断する。揺らぎながらも絶えることのない人の心をすぐそばに感じながら、どうしてこんなに心細く孤独な気持ちになるのだろう。親しみは欲しくない。戸惑いには腹が立つ。一方的に伝わる感情に、一人で断絶を悟り反発している。

 ただの思い込み、一人相撲だ。影浦が持つサイドエフェクトが齎す被害妄想。閉鎖環境試験の最中、閉じたコンテナのどこにいたって人の気配から逃げることは出来ず、孤独にはほど遠い。今いるこの小さな部屋だって蛍光灯の白い光に照らされて幻の入り込む余地はない。そして何より目の前には犬飼がいて、静かにこちらの様子を伺っている。

「どうしたの」

 突然部屋を訪ねたくせに黙り込んでいる影浦にも、犬飼の声は穏やかだった。就寝前の貴重な自由時間だったが、犬飼は影浦の姿を目にした途端、未練を見せることなく読んでいた文庫本を閉じて座っていたベッドに放った。いまはもう、黙って話を聞く姿勢を見せている。ベッドに腰かけたままわずかに首を傾げてこちらを見上げるその姿は、親切で、親しみやすいいつもの犬飼だ。しかし、その後ろに冷静な眼差しがあることを影浦はもう知っている。知っているし、思い知らされている。彼の視線はちりちりと影浦の肌を焦がす。

 それでも影浦は疲れていたし、苛立っていて、なによりうんざりしていた。他人の感情が四六時中神経を刺激して、しかもこの状況から逃げることも叶わない。だからほとんどやけくそのように口を開く。

「いい加減、それやめろよ」
「……どれのこと?」

 推し量る声と感情にまた苛立つ。

「優しいふりも、仲良いふりもやめろ。思ってもない癖に」

 突き刺さってくれと放った言葉にも、犬飼の表情は揺らがなかった。肌に感じる感情も同じように凪いでいる。悲しみも後ろめたさもないそれに、やっぱりな、と脳裏のどこかが囁いた。予期していたはずの無力感が現実となって精神を苛む。

 沈黙が部屋に満ちた。これ以上言えることも出来ることもなく、では言ったこと自体に満足して踵を返せるかというとそうではない。犬飼が考え込むように目線を落とすのをただ眺めた。

「カゲは潔癖だね」
「あ?」
「そして卑怯だ」

 犬飼はベッドに座ったまま、挑むようにぐいと顎を上げて真っ直ぐに影浦を眼差した。薄い色の目が、蛍光灯の光を浴びて輝く。犬飼の瞳の色を初めて知った。頭のどこかで閃くその事実が、彼我の距離を教えてくる。影浦は、犬飼のことを何も知らない。それでも、その間を埋めるかのように感情は伝わる。さらさらと打ち寄せる波の中にある呆れと哀れみを認識して、影浦は自然と眉を寄せた。

「悪いけど、それは流石に無理でしょ」

 ここでの犬飼はあけすけによく喋る。今さらそんなことに気がついた。発言に苛立ちはしても、読めない思考を探ろうと躍起になることがない。気を遣われているのだろう。腹立たしいが、そうしなければそもそも会話にもならないのだと分かっているから怒りのやり場がない。

――別に、カゲだからってわけじゃなくて」

 今が夜だという自覚が、室内をどこか寒々しく見せているようだった。冷えた静寂のなか、犬飼が息を吸う微かな音を聞く。

「おれは誰にでもそうだよ。困ってる人には声をかけるし、宿題忘れたら隣の席の人に見せてもらう。ただの慣習、そうじゃなきゃマナーじゃん。それを深読みされたくはないし、そんなものに誠意を求められても困る。人と関わることに好意的な感情は必要ない」

 犬飼の声は淡々としていた。平熱の白い頬が、蛍光灯の明かりを弾いて奇妙に滑らかに見える。

「いい加減、諦めたら? カゲだって、今さら信じているわけではないでしょ?」

 ひたひたと波が、予感が押し寄せる。足元の感触が覚束なくなる。

「自分があらゆる干渉を跳ね除けていられるとか、自分の輪郭が確固として存在するなんてこと」

 柔らかくたわむ目が影浦を映す。

「好きな人だけに囲まれていたい。そうじゃないものは一切要らない? おれが知り合いとか同僚として接するのも嫌で、理由は自分に興味がないのを知っているから?」

 そうして言葉がとどめを刺した。ほら、やっぱり知られていた。焼けつくような羞恥と、他人事のような揶揄が脳を支配する。

「それはずるだよ」

 ざぱん。波が襲う。忙しなく何かの感情を嗅ぎ取るサイドエフェクトとは裏腹に、聴覚は働くのをやめきんとした静寂が脳をつんざく。沢山の感情が影浦を取り巻いて、自分がぐらぐらと揺れている。知っている。そんなことはとっくに気づいている。

 忘れたふりをしている思い出がここぞとばかりに浮かび上がる。海の記憶だ。海に入れなかった記憶。砂浜に立ち尽くして泣いている影浦と、同じように泣いている兄。父は嘆息すると影浦を抱え上げて駐車場へと引き返す。影浦を抱く父の肩越しに、遠ざかる海と砂浜を見た。

 夏、店を休みにしての家族旅行だったのだろうと、後になって見つけたアルバムで前後関係を埋めた。幼い頃の影浦は引っ込み思案で、屋内で過ごしてばかりだったから、外に連れ出そうという意図もあったのかもしれない。それでも結局影浦は賑やかな人ごみに怯えて、到着したばかりの砂浜の入り口で、嫌々と足を踏ん張った。水着を着せられて、浮き輪だって膨らませていたのに。

 影浦が人を避けるのは別段珍しいことではない。この記憶以前からあっただろうし、この記憶以降にもあった。それでもこの記憶は原罪として影浦の心に焼き付いた。影浦の様子に引き返すかと話し合う両親に対して、兄は、嫌だ、海に入りたいと真っ赤になって泣き叫んだ。そして影浦は、兄から刺さった疎ましさに、ただ茫然と立ちつくした。あの一瞬で、影浦は自身の罪と傷を思い知った。

 両親も兄も、人と交流するのを厭わない性質だ。商店街の人間と飲みに行ったり、友人たちとショッピングモールに出かけたりしているのを知っている。だから家族で行動するときには、どうしたって影浦への気遣いが先に立った。あれ以降、家族旅行は温泉宿に一泊するだけに変わった。海も、山も、遊園地にも行くことはない。兄が小中学生の頃は彼ひとりが親戚家族の旅行に混ぜてもらっていたのを知っているから、それが両親の考えた適応なのだろう。

 自分が他者を変質させているという事実が恐ろしく、そしてそれに傷つく自分に呆れている。だからといって、影浦が自分を曲げることはできなかった。それをするには影浦のサイドエフェクトの主張が強すぎた。ばかにされていると「感じた」ら影浦は即座に相手に殴りかかったし、無遠慮な好奇心に耐えることもしなかった。そうして影浦はぐいとあごをつきだして世間を睥睨する。

 そうして残るのは、我が強く、ある種鈍感な人間たちだ。

 彼らに囲まれて、ようやく影浦は息をつく。彼らは影浦のために曲がることがない。影浦は、誰も損なわない全き自分でいられる。

 ――もちろん欺瞞だ。

 出会う人は選べない。そして、人と接して何の感情も持たないなんてことはない。影浦はその感情を受信しては、苛立ち、倦み、わずかに喜ぶことをやめられない。犬飼の無関心に安堵しながらその社交辞令を憎む矛盾なんてずっと前から自覚している。突き刺さる糾弾は正当だ。

「……それなら、お前の気持ちはどこに行って、俺の気持ちはどうなるんだ」

 言葉にしてそれを認めると自分の惨めさを突き付けられる。儘ならない衝動が体を乗っ取り口を衝く。

「笑いながら疲れてるのはおかしいだろ。お前が声かけたくせに別に返事は要らないって、じゃあ俺はどうしたらいい」

 孤独を感じるのは、自分の無力が辛いから。ただの儀礼として押し付けられる言葉に、何の期待もされてないから。流れ込む感情の海に、何も言えることがないから。

「他人から干渉されたくないって思ってるのはお前のほうだ。お前が慣習だマナーだを振りかざすなら、俺だって勝手に言いたいことを言う」

 こんなもので伝わるものは何もないと知っていて、それでもしかと犬飼を睨みつける。ぱちりと瞬く丸い目と目が合う。目が合うのは、それが影浦の外部にあるからだ。影浦の理解の外、腕の外の存在。

「そうだね。そうかもしれない」

 静かな声で、静かな表情だった。仮面だと影浦にはわかる。

「カゲはカゲの好きにできる」

 こんなものが譲歩で合意であるものか。ただ明確な境界線が出来ただけだ。お互いとっくに知っていた事実を突き回して余計な距離が出来ただけ。

「でも、おれの内心はおれのものだよ」

 平熱の声が理解できない。影浦のサイドエフェクトは犬飼の怒りと羞恥を知っていて、それは痛くて熱くて苦しくて、一緒に激情に苛まれている心地すらあるのに、受け取れたのはその言葉だけだ。怒って怒鳴ればいい、とは流石に言えなかった。犬飼はもう怒っている。だから影浦は犬飼の感情が叫ぶ通りに黙って部屋を出ることしかできなかった。