渚にて、空を見る
幻の海に浸っていた。遠浅の、水面がきらきらと輝くだけの海。透き通った波が影浦の肌を打ち、そうして砕ける様子が脳裏に浮かぶ。幻想の波にくすぐられながら影浦の心は冷えていく。
押し寄せる波は目の前の人間の感情だ。柔らかいのは親しみで、揺れているのは戸惑いだ。長年の経験から影浦はそう判断する。揺らぎながらも絶えることのない人の心をすぐそばに感じながら、どうしてこんなに心細く孤独な気持ちになるのだろう。親しみは欲しくない。戸惑いには腹が立つ。一方的に伝わる感情に、一人で断絶を悟り反発している。
ただの思い込み、独り相撲だ。影浦が持つサイドエフェクトが齎す被害妄想。閉鎖環境試験の最中、閉じたコンテナのどこにいたって人の気配から逃げることは出来ず、孤独にはほど遠い。今いるこの小さな部屋だって蛍光灯の白い光に照らされて幻の入り込む余地はない。そして何より目の前には犬飼がいて、静かにこちらの様子を伺っている。
「どうしたの」
突然部屋を訪ねたくせに黙り込んでいる影浦にも、犬飼の声は穏やかだった。就寝前の貴重な自由時間だったが、犬飼は影浦の姿を目にした途端未練を見せることなく読んでいた文庫本を閉じて座っていたベッドに放った。いまはもう、黙って話を聞く姿勢を見せている。ベッドに腰かけたままわずかに首を傾げてこちらを見上げるその姿は、親切で、親しみやすいいつもの犬飼だ。しかし、その後ろに冷静な眼差しがあることを影浦はもう知っている。知っているし、思い知らされている。彼の視線はちりちりと影浦の肌を焦がす。
それでも影浦は疲れていたし、苛立っていて、なによりうんざりしていた。他人の感情が四六時中神経を刺激して、しかもこの状況から逃げることも叶わない。だからほとんどやけくそのように口を開く。
「いい加減、それやめろよ」
「……どれのこと?」
推し量る声と感情にまた苛立つ。
「優しいふりも、仲良いふりもやめろ。思ってもない癖に」
突き刺さってくれと放った言葉にも、犬飼の表情は揺らがなかった。肌に感じる感情も同じように凪いでいる。悲しみも後ろめたさもないそれに、やっぱりな、と脳裏のどこかが囁いた。予期していたはずの無力感が現実となって精神を苛む。
沈黙が部屋に満ちた。これ以上言えることも出来ることもなく、では言ったこと自体に満足して踵を返せるかというとそうではない。犬飼が考え込むように目線を落とすのをただ眺めた。
「カゲは潔癖だね」
「あ?」
「そして卑怯だ」
犬飼はベッドに座ったまま、挑むようにぐいと顎を上げて真っ直ぐに影浦を眼差した。薄い色の目が、蛍光灯の光を浴びて輝く。犬飼の瞳の色を初めて知った。頭のどこかで閃くその事実が彼我の距離を教えてくる。影浦は犬飼のことを何も知らない。それでも、その間を埋めるかのように感情は伝わる。さらさらと打ち寄せる波の中にある呆れと哀れみを認識して、影浦は自然と眉を寄せた。
「悪いけど、それは流石に無理でしょ」
ここでの犬飼はあけすけによく喋る。今さらそんなことに気がついた。発言に苛立ちはしても、読めない思考を探ろうと躍起になることがない。気を遣われているのだろう。腹立たしいが、そうしなければそもそも会話にもならないのだと分かっているから怒りのやり場がない。
「――別に、カゲだからってわけじゃなくて」
今が夜だという自覚が、室内をどこか寒々しく見せているようだった。冷えた静寂のなか犬飼が息を吸う微かな音を聞く。
「おれは誰にでもそうだよ。困ってる人には声をかけるし、宿題忘れたら隣の席の人に見せてもらう。ただの慣習、そうじゃなきゃマナーじゃん。それを深読みされたくはないし、そんなものに誠意を求められても困る。人と関わることに好意的な感情は必要ない」
犬飼の声は淡々としていた。平熱の白い頬が、蛍光灯の明かりを弾いて奇妙に滑らかに見える。
「いい加減、諦めたら? カゲだって、今さら信じているわけではないでしょ?」
ひたひたと波が、予感が押し寄せる。足元の感触が覚束なくなる。
「自分があらゆる干渉を跳ね除けていられるとか、自分の輪郭が確固として存在するなんてこと」
柔らかくたわむ目が影浦を映す。
「好きな人だけに囲まれていたい。そうじゃないものは一切要らない? おれが知り合いとか同僚として接するのも嫌で、理由は自分に興味がないのを知っているから?」
そうして言葉がとどめを刺した。ほら、やっぱり知られていた。焼けつくような羞恥と、他人事のような揶揄が脳を支配する。
「それはずるだよ」
ざぱん。波が襲う。忙しなく何かの感情を嗅ぎ取るサイドエフェクトとは裏腹に、聴覚は働くのをやめきんとした静寂が脳をつんざく。沢山の感情が影浦を取り巻いて、自分がぐらぐらと揺れている。知っている。そんなことはとっくに気づいている。
忘れたふりをしている思い出がここぞとばかりに浮かび上がる。海の記憶だ。海に入れなかった記憶。砂浜に立ち尽くして泣いている影浦と、同じように泣いている兄。父は嘆息すると影浦を抱え上げて駐車場へと引き返す。影浦を抱く父の肩越しに、遠ざかる海と砂浜を見た。
夏、店を休みにしての家族旅行だったのだろうと、後になって見つけたアルバムで前後関係を埋めた。幼い頃の影浦は引っ込み思案で屋内で過ごしてばかりだったから、外に連れ出そうという意図もあったのかもしれない。それでも結局影浦は賑やかな人ごみに怯えて、到着したばかりの砂浜の入り口で嫌々と足を踏ん張った。水着を着せられて、浮き輪だって膨らませていたのに。
影浦が人を避けるのは別段珍しいことではない。この記憶以前からあっただろうし、この記憶以降にもあった。それでもこの記憶は原罪として影浦の心に焼き付いた。影浦の様子に引き返すかと話し合う両親に対して、兄は、嫌だ、海に入りたいと真っ赤になって泣き叫んだ。そして影浦は、兄から刺さった疎ましさに、ただ茫然と立ちつくした。あの一瞬で、影浦は自身の罪と傷を思い知った。
両親も兄も、人と交流するのを厭わない性質だ。商店街の人間と飲みに行ったり、友人たちとショッピングモールに出かけたりしているのを知っている。だから家族で行動するときには、どうしたって影浦への気遣いが先に立った。あれ以降、家族旅行は温泉宿に一泊するだけに変わった。海も、山も、遊園地にも行くことはない。兄が小中学生の頃は彼ひとりが親戚家族の旅行に混ぜてもらっていたのを知っているから、それが両親の考えた適応なのだろう。
自分が他者を変質させているという事実が恐ろしく、そしてそれに傷つく自分に呆れている。だからといって、影浦が自分を曲げることはできなかった。それをするには影浦のサイドエフェクトの主張が強すぎた。ばかにされていると「感じた」ら影浦は即座に相手に殴りかかったし、無遠慮な好奇心に耐えることもしなかった。そうして影浦はぐいとあごをつきだして世間を睥睨する。
そうして残るのは、我が強く、ある種鈍感な人間たちだ。
彼らに囲まれて、ようやく影浦は息をつく。彼らは影浦のために曲がることがない。影浦は、誰も損なわない全き自分でいられる。
――もちろん欺瞞だ。
出会う人は選べない。そして、人と接して何の感情も持たないなんてことはない。影浦はその感情を受信しては苛立ち、倦み、わずかに喜ぶことをやめられない。犬飼の無関心に安堵しながらその社交辞令を憎む矛盾なんてずっと前から自覚している。突き刺さる糾弾は正当だ。
「……それなら、お前の気持ちはどこに行って、俺の気持ちはどうなるんだ」
言葉にしてそれを認めると自分の惨めさを突き付けられる。儘ならない衝動が体を乗っ取り口を衝く。
「笑いながら疲れてるのはおかしいだろ。お前が声かけたくせに別に返事は要らないって、じゃあ俺はどうしたらいい」
孤独を感じるのは、自分の無力が辛いから。ただの儀礼として押し付けられる言葉に、何の期待もされてないから。流れ込む感情の海に、何も言えることがないから。
「他人から干渉されたくないって思ってるのはお前のほうだ。お前が慣習だマナーだを振りかざすなら、俺だって勝手に言いたいことを言う」
こんなもので伝わるものは何もないと知っていて、それでもしかと犬飼を睨みつける。ぱちりと瞬く丸い目と目が合う。目が合うのは、それが影浦の外部にあるからだ。影浦の理解の外、腕の外の存在。
「そうだね。そうかもしれない」
静かな声で、静かな表情だった。仮面だと影浦にはわかる。
「カゲはカゲの好きにできる」
こんなものが譲歩で合意であるものか。ただ明確な境界線が出来ただけだ。お互いとっくに知っていた事実を突き回して余計な距離が出来ただけ。
「でも、おれの内心はおれのものだよ」
平熱の声が理解できない。影浦のサイドエフェクトは犬飼の怒りと羞恥を知っていて、それは痛くて熱くて苦しくて、一緒に激情に苛まれている心地すらあるのに、受け取れたのはその言葉だけだ。怒って怒鳴ればいい、とは流石に言えなかった。犬飼はもう怒っている。だから影浦は犬飼の感情が叫ぶ通りに黙って部屋を出ることしかできなかった。
怒ればいいのに。影浦の思考は一番最初に戻ってくる。怒ればいいのに。影浦は何を、誰を待つともしないくせにラウンジのソファにどっかりと腰かけて周囲を威圧する。怒ればいい、そんなふうにこそこそと不安げに顔を見合わせて陰口をたたくくらいなら、一言邪魔だと言えばいいのだ。知らないC級隊員を睨みつけながら、影浦はマスクの下でぐいと顎を突き出した。
閉鎖環境試験も終わり、そこかしこで反省会という名の情報交換が行われていた。三月も下旬、春休みのボーダーは学生兼隊員たちで賑わっている。高い吹き抜けには喋り声、笑い声、ちいさなひそひそ声が飛び交い、反響し、溢れかえる。影浦もヒカリから隊の人間の愚痴とも面白い話ともつかないような日常について散々聞かされたし、話すことを強要もされた。それでも、自分がどこかで誰かの話のタネになっているという想像は影浦を苛立たせる。
そして、苛立っていることに苛立っている。
自らの仕様もない繊細さを自覚はしているが、自覚したからと言って開き直ることも耐えることもできないでいる。気にしない風を装ったって、その繊細さは確実に影浦の心を引っ掻いてすり減らして傷をつくる。こんなものに翻弄されたくはない。誰にも屈したくはない。鈍感を装って、何も気にせずに笑っていたい。それなのに、いつだって影浦は苛立ってばかりだ。
どこかで甲高い笑い声が響いて、影浦は眉を寄せる。そこに背後から声がかかった。
「聞いたよ、犬飼と喧嘩したって?」
まさに想像して苛立っていたとおりの噂話だ。
「……してねえよ」
影浦はソファに凭れて明らかに面白がっている声の持ち主を振り仰いだ。
「誰だ? そんなこと言っているやつ」
「太一」
荒船と村上がそこにいた。どうもあの晩のやり取りを別役が盗み聞いており、そこから村上に話が行ったらしかった。特殊な環境ゆえか、どうにもボーダーはこういう益体もない話が出回るのが早い。影浦の暴力沙汰から村上荒船不仲説まで、悪い話ほどよく回る。
「あいつが喧嘩なんてするように見えるか?」
「つまり、喧嘩にもならなかったって?」
こういう時ばかり荒船は察しがいい。渋面を作る影浦に、村上のほうが心配そうに眉を下げた。心配に好奇心が混ざる荒船に比べて、村上のほうは心苦しい気持ちが伝わってくる。そもそも人間関係の不和への耐性が低いのだろう。
「太一がえらく心配していたぞ」
「……どっちを?」
「喧嘩に見えたんだから、両方だろ。おい、本当に何があった?」
荒船の心配の重みがぐっと増す。確かに今日の自分はおかしい。ラウンジの喧騒がいやに耳につく。それに紛れ込ませるように、影浦は低く告げた。
「俺が犬飼にやめろって言って、犬飼はやめないと言った。以上」
「何を?」
「いつものあの態度」
「いつものことじゃないのか?」
村上の言葉は疑問形だが辛辣だった。確かにそれはいつものことだ。影浦が暗に要求していたこと、犬飼が暗に拒んでいたもの。
「いや、犬飼がそんなにはっきりと言うか?」
「言わないか?」
「言わないな」
荒船の言葉はやけにきっぱりとしていた。おそらくは同校の縁があるのだろう。「本当に喧嘩したらしい」影浦はふんと鼻を鳴らす。
「でも、今更じゃないか? カゲのSEがあるのは分かるが、犬飼だって別に特別なことをしているわけじゃないのは知っているだろ」
「そうなのか?」
瞬く村上に荒船が教師のように頷く。
「誰だってそれなりに態度を使い分けるだろ。鋼だって、俺の前で話すこととカゲの前で話すことは違う」
「そうだな」
村上がこくりと頷くのに、騙されているぞと影浦は声を上げる。
「鋼の話じゃないだろ。おい、鋼。おまえは嫌いな人間の前で笑ったりしないだろ」
「しないな」
もう一度村上がこくりと頷くのにほらなと荒船を見上げると、荒船のほうが眉を寄せて影浦を見下ろしていた。
「犬飼はカゲのこと嫌いって?」
「……言ってはいねえよ」
「SEは?」
「……別に」
「それならその例えは間違ってるだろ」
「でも他人行儀だ」
ついと口を出たのは子どものような反論だ。おや、と荒船が眉を上げる。
「なら、仲良くなればいい」
「は?」
「他人行儀が嫌なら、本当に仲良くなればいいだろ」
「違う、言い間違えた」
「そうか? でも、そういうことだろ。取り繕われるのが嫌なら、取り繕わない関係を築けばいい。直接やめろっていうよりその方がうまくいく」
「おまえは犬飼の味方なのかよ」
不貞腐れる影浦に荒船は首を竦めた。
「どっちの味方でもねえよ。それより、模擬戦誘いに来たんだった」
「それを早く言え」
模擬戦の半分は真実だろうが、もう半分は苛立つ影浦を見兼ねてのことだろう。知っていながら影浦は笑って立ち上がった。どうして荒船や村上相手ならできることが犬飼相手だと難しいのだろう。
影浦は模擬戦が好きだった。肌に当たる感情が、純粋な攻撃意思だけになる。それは切り裂かれるように痛いが、普段の雑音じみた複雑な波よりもずっと良い。これはボーダーでしか味わうことのできない感覚だろう。
対戦相手の村上が耐久姿勢に入ったのを感じて、影浦はちょっかいを出すようにスコーピオンを曲げてレイガストの脇をくぐって見せる。一対一でよく使う河川敷マップはそれこそ漫画に出てくる決闘の場のようだ。喧嘩をしているわけではないが、確かに夕日を背に分かり合うには相応しい。
村上の攻撃意思を胴体に感じて、影浦は咄嗟に後ずさる。スラスターで加速させたレイガストが飛んでくるのを避けながらスコーピオンを投げつけると、織り込み済みだったらしい、加速したレイガストの勢いを利用して振り向いた村上にガードされる。
事態が膠着して、影浦はにやりと笑う。
「たのしーなあ」
不便極まりない体質に名前が付き、説明が付き、そうしてボーダーに勧誘されたとき、家族はそろって安堵した。影浦自身も安堵した。ここでなら、影浦はサイドエフェクトという単語を堂々と掲げることができる。ここ以外では決して真面目に受け取られることのない体質。
ここは箱庭だろうか。自分を説明できる場所で、自分を理解してくれる人がいて、ここは閉じた楽園だろうか。犬飼が言う「ずる」だろうか。
しかし、どうせほかに行き場もないのだ。影浦は呵々と笑いスコーピオンを強く握った。
犬飼はさっぱり変わらないでいる。あの会話以降の閉鎖環境試験中も親しみやすい振る舞いと冷静な思考のままでいて、それは今日、模擬戦終わりの影浦たちとかち合ってもそのままだった。訓練ブースを出たところで出くわした隊服姿の犬飼は、こちらに気がつくとぱっと笑顔を作り手を振った。
「荒船じゃん。みんなも。模擬戦?」
嫌われていることを知っているのだから、少しは遠慮したらいいのに。そう顔を背ける影浦の横で、荒船と村上は何事もなく会話している。これは同級生にとっての日常だった。
「ああ、そっちは任務か?」
「うん。ちょうど今終わったとこ」
「じゃあ一緒帰るか?」
「うーん」 ちらと犬飼の視線が影浦に走る。「遠慮しとこうかな」
発火するように脳裏に怒りが走って、影浦はぱっと口を開いた。
「なんか用事でもあるのか?」
「え、いや、ないけど」
荒船と村上はじっと状況を注視している。それを知っていて影浦は突き刺さる感情を跳ね除けるように胸を反らし顎を持ち上げた。ぱちりぱちりと瞬く犬飼の視線を受け止めて、影浦は犬飼を見つめ返す。
「……じゃあ、お邪魔しようかな。荷物取ってくるから、待ってて」
くるりと犬飼は踵を返しぱたぱたと足早に去っていく。その遠ざかる足音を聞きながら、荒船と村上がそっと詰めていた息を吐く。
「どうしたんだ、突然」
「別に」
黙り込んだ影浦に二人が顔を見合わせる。明らかに今日の影浦はおかしい。自分でもわかっているが、おかしくなっている最中というのはどうしようもないものなのだった。
戻って来た犬飼は隊服から私服姿に戻っていた。高校を卒業した春休み、当たり前に影浦たちも換装を解くと私服姿で、それなのに何となく六頴館組と第一組に分かれて歩く。荒船と犬飼の二人が大学の準備について話すのを村上と一緒に聞きながら歩く。
ボーダーの地下通路を出る間際になって、村上が影浦にだけ聞こえる声で「大丈夫か」と問いかけた。
その声は真摯で、村上のこういうところに敵わないと影浦は毎度のごとく思う。
「あいつに俺の行動をどうこう言われはしねえよ。犬飼もわかってるんだ。あとはあいつがどうするかだろ」
低い声で呟くのに、村上は首を傾げながらも、「カゲがいいならいいんだ」とだけ語る。村上は能力主義のボーダーのなかでもチームワークや協調性に優れた人間だ。心配をかけた、と反省すると同時に、向かってくる感情を選り好みしている自分を知る。目の前を歩く犬飼は荒船と話してばかりでこちらに感情が向くことはほとんどないが、それでも時折ちくりと探るような動きを感じてそれには律儀に苛立つのに、村上の心配にはちっともその気が起きない。感情の質が違うだけで意図は同じだろうと分かっていてもだ。
通路から地上へ出たところで、鈴鳴方面へと向かう村上と別れる。三人になったところで、荒船が「俺も外すか?」と問いかけるのに、「なんでだよ、いろよ」と影浦は威嚇した。警戒区域を抜けても、その周辺は空地や空き家が多い。あるいはボーダー提携のアパート。きちんと人が住む住宅街はその先で、大抵はここから大通りまで出て荒船と別れることが多かった。
春先の空気はぬるいのに、時折吹く風は冷たい。首を竦めながら影浦は歩き出した。その背後で荒船と犬飼がさっきと同じように話しながら歩くのを聞く。
時々ふたりがこちらに話を振るのに、ぽつりぽつりと返事をする。「影浦は、大学の準備進んでるか」「俺がやっているように見えるか?」犬飼がへえ、という感情を刺してくる。「来馬先輩の話聞いたか?」「知らねえ、何だ?」そう答えると犬飼の着目がすっと荒船に逸れていく。三人でいると喋り役と聞き役に分かれるのはどんな三人組でも有り得たかもしれないが、今回は特に酷かった。
大通りまで歩いたところで、三人ともが歩みを止めた。片道二車線の大通りはひっきりなしに車が通る。ロードサイドのチェーン店の明かりとヘッドライトに次々に照らされながら、ほんの数秒の腹の探り合いのような時間が過ぎた。
犬飼がぽんと明るい声を出す。
「おれこっちなんだけど」
「俺は反対方面だな、影浦は直進だろ」
「おう」
「全員バラバラなんだ」
犬飼がおかしそうに笑ってひらひらと手を振った。「じゃあ、また明日ね」
「おう」
「またな」
ふたりと別れて一人暗い夜道を歩きながら、影浦は思う。なるほど影浦が嫌っていた犬飼は、誰に対してもあの態度らしい。
夜の道は静かだ。家の中でTVを見ていようと、風呂に入っていようと、団欒していようと喧嘩していようと、外に伝わることはない。ただ、漏れる光だけが通行人に伝わってくる。影浦はアスファルトと、ぴかぴかの真新しい白線と、そこに落ちる自らの影を眺めた。
影浦にわかるのは自分に向けられる感情だけだ。だから犬飼が本当に荒船との会話に興味を持っていたのか、面白く思っていたのか、影浦には知ることができない。ただ、どうしようもない虚しさがあった。ほかの人間はあの対応で満足できる。そして自分だけがどうしようもないところで躓いたまま動けないでいる。
「おにーさん、ここ空いてますか」
へらりとした声に眉を寄せながら顔を上げると、犬飼が立っていた。翌日、ボーダーのラウンジでのことだ。犬飼は影浦の視線を受けて笑うと、影浦の隣のソファに腰かけてくる。
「おい、空いてるって言ってねえぞ」
「どうせ誰かと待ち合わせてるだけでしょ。おれも若村くんと待ち合わせだし」
犬飼だとわかってしまえば表層のほほ笑みと冷静さの差異に気を取られてしまう。笑ってはいるしおどけてはいるが、別段愉快とも思っていない平静な感情。
「別のところ行けよ」
「えー、昨日は仲良くしてくれたじゃん」
「違う」
「じゃあなんだったの?」
首を傾げる犬飼に舌打ちを一つ。
「気を使われる筋合いはないってだけだ」
「じゃあ遠慮なく隣座っちゃおう」
こうなると何も言い返せない。二人が並んで座っているので、顔見知りの隊員たちが二度見三度見してくるのを睨みつけて黙らせる。隣の犬飼が静かにスマホを弄っているのに、影浦はぽつりと呟いた。
「いつもそうしていればいい」
「え?」
途端刺さる感情に失敗したと唇を噛む。最近は取り返しのつかないことばかりしている。
「いつもそうやって、他人みたいに振る舞えばいい」
例えば電車やバスで隣に座った知らない人、すれ違うだけの通行人、稀に店に現れるだけの客。そんなものなら許せるのに。
犬飼はただ困ったように笑う。
「おれはカゲのこと、同僚だと思ってるよ」
黙り込む影浦に犬飼はまた笑う。
「まあ、おれとしては何かを変える気はない。ごめんね」
そう言い置いて犬飼は立ち上がる。遠くに駆け寄る若村の姿が見えた。
それから一週間後の夕方、影浦はボーダーの地下通路の出口で空を眺めていた。灰色の雲が立ち込め、しとしとと雨が降っている。遠く雲の切れ間には夕日が見えるが、風が雲を連れ去るにはまだ時間がかかるように見えた。
春の雨だ。風邪をひくこともないだろうから濡れて帰っても構わないだろうか。それでも家までは距離がある。そう悩んでいたところで、こちらに向かって歩いてくる人影を見つけた。
黒い大きな傘を差している。ここに来るということは間違いなくボーダーの人間だ。夜勤に向かう隊員だろうか。知り合いだったら傘を貸してもらえないかと思ったところで傘がずれて持ち主の顔が見えた。
「カゲじゃん。今帰り?」
犬飼だ。私服姿にデイバックの身軽な格好で、よく見るとチノパンの裾を捲っている。それでもところどころ裾が湿っているのが見えた。家を出たときから雨が降っていたらしい。
「傘ないの? 貸そうか?」
影浦は眉を顰めて犬飼の顔を見つめた。いつも通りの、平静な感情。影浦が何と答えようと変わらないのだと思わせるような。
「……借りてもいいか」
ようやくその声を絞り出すまでには間があった。途端、何か別の感情が刺さる。好意ではない。しかし悪いものでもない。影浦は自らの記憶を探りその刺激を分類する。――安堵、が近いのだろうか。
固まる影浦に構うことなく犬飼は傘をいったん閉じて渡そうとしてくる。それを黙って受け取って、思い出したように礼を言う。
「どうも」
「どういたしまして。今度会った時返してくれればいいから」
そう言って入れ違いに地下通路に入っていく犬飼の背中を見送る。もういつもの凪いだ感情しか感じない。高揚もなければ落胆もない。
犬飼がわからない、と思う。嫌いではなく、ただわからない。
家に着く直前で空が晴れてきた。借りた傘を腕に引っ掛けながら自宅の玄関の扉を開けると、その音を聞きつけたのか店の方から兄が顔を出してきた。影浦の家は自営業のお好み焼き屋なので、玄関は二つあった。店に出ていただろう兄は「かげうら」のTシャツに酒屋からもらったエプロンをつけている。
「雨降ってただろ、濡れなかったか? 連絡すれば迎えに行ったぞ」
兄は運転免許を持っているし、両親の店で働いているのも都合のいいバイト扱いだ。確かに連絡すれば抜け出してきてくれただろう。心配が刺さるのを有り難くも鬱陶しくも思いながら影浦は首を振る。
「もう晴れてる。傘は友達に借りた」
「なんだ。よかったな」
友達、と言う言葉が奇妙に舌に残るのを感じながら影浦は兄に向って頷いた。
兄とは何度も喧嘩をしたが、今では男兄弟らしいそれなりの間柄だ。永遠に誰かを憎み続けることは難しい。しかも、それが実の兄弟で、一つ同じ屋根の下に住み、似たような境遇を分かち合っているなら尚更。そうして向けられる感情は日常になる。これが家族の常態なのだと現実から納得しているが、こういうときは自分の輪郭というものを強く意識する。
「明日は晴れるらしいから傘干して返せよ」
店に引っ込む兄におざなりに返事をして、影浦は傘を玄関脇の傘立てに放り込んだ。黒い男物の傘はあっという間に傘立てに馴染んだ。
兄の言う通りに、犬飼の傘は翌日天日に干してからボーダーに持ち込んだ。春休みは暇な隊員がボーダーにたむろするせいか、探せば犬飼もすぐに見つかった。
「傘、ありがとよ」
辻と歩いていたところを呼び止めて傘を渡せば、「どういたしまして」と自然に受け取られる。辻は目を丸くしながらも「先行ってて」の犬飼の声に大人しく従っていて、二宮隊のこういうところも嫌いだと思う。ここでの犬飼は従順な、しつけの行き届いた犬のようだ。それでいて辻をけしかける立場でもある。綺麗な階層構造。
「聞きてえんだけど」
「なに?」
「これも、おまえの言うマナーなのか?」
ぱちりと瞬く犬飼の、薄い色の瞳を見つめる。ボーダーの廊下は無機質で、蛍光灯の白い光は閉鎖環境試験のあの夜を思わせた。
「傘のこと?」
「ああ」
「マナーと言うか、その方が合理的じゃない? もう使わない傘があって、傘が必要な人がいるわけだし」
「俺が断ったらどうしてたんだ?」
「どうもしないよ。カゲが濡れて帰るだけじゃない? 風邪ひかないといいなーくらいは思ったかもしれないけど」
犬飼からは戸惑いが伝わってくる。
「どうしたの?」
「思うのか?」
「え?」
「風邪ひかないといいって」
「そのくらい思うよ」
おれのこと、冷血か何かと勘違いしてる?
その声は面白がっているようで、刺さる感情も実際にそうだ。探るような、問いかけるような、そういう目で犬飼は影浦を見る。
「いや……」
しかし、あまり他人に心を寄せることがないのだとは思っていた。それを冷血と言うのならそうかもしれない。
「かもしれねえ」
「ひど」
犬飼は笑って、刺さる感情も傷つきはなく愉快さだけがある。居心地悪くその感触を確かめる影浦に、犬飼はまたほほ笑む。それが犬飼が影浦のことを何とも思っていないからなのか、生来の性格によるものか、影浦には判断がつかない。
「じゃあここで影浦くんにおれからの優しさ。一階のラウンジで荒船先生の履修登録講座やってるよ」
「はあ?」
「国近ちゃんたちが泣きついてた。どうせカゲも履修登録何も考えてないんでしょ? 行ってきなよ」
「余計なお世話だ」
そうは言ったが、大学から送られてきた書類など何も見ていない。どうせボーダーに就職するのだからと思っているのに、周囲と家族と、ボーダー本体の圧力で気が付いたら推薦入学が決まっていた。そろそろ何かを決めないといけないらしいと影浦はラウンジに足を向けた。
人と近づかなければいけないエレベーターは苦手なので、影浦は大抵その横にある非常階段を使う。かんかんと足音を立てて鉄製の武骨なつくりの階段を降りながら、影浦はぼんやりと考える。ずっと、犬飼は取り繕って親しい振りをしているのだと思っていた。外見さえよければそれでよくて、内心に踏み込ませることをしなくて、他人を真に思いやることもないのだと。
それはただ単に彼我の距離によるものなのだろうか。荒船の言った通り、影浦が犬飼と親しくなったなら犬飼は別の顔を見せるのだろうか。真実の心配や、真実の挨拶を? もしもそうだというのなら――
それを見たいと思う。犬飼のほんとう、心の底からの感情を。
影浦は犬飼を嫌うそぶりをやめることにした。顔を合わせれば「おう」と言い、犬飼がへらりと笑うのに無言で微かに顎を引く。犬飼はそれを影浦の挨拶として扱ったので、二人はただの同僚になった。
周囲の隊員たちは最初は少し驚いた様子を見せたものの、元々能力主義の人間の集まりだ、任務に支障が出ていないこともあり、ただ変わったのだと放っておかれた。
大学の授業が始まったことも大きかった。入学式ではボーダー隊員の全員が集まって似合わないスーツを笑い集合写真を撮ったし、大学一年生というのは必修の授業が多く、必然的に犬飼と同じ授業に出ることも多かった。そして、ボーダー隊員である以上どうしても出席し損ねる授業でノートのやり取りをすることも多く、犬飼を避けている場合ではなくなった。
同じ教室で見る犬飼は、かつて影浦が嫌っていたのとまったく同じ姿をしている。
隣の席の人間とにこやかに挨拶をし、ペンやら消しゴムやらをやり取りし、席を立つときにはまたねと手を振る。すべて影浦にはできないことだ。
一方の影浦はといえば、高校の知り合いとボーダー隊員以外の知人を作るつもりがまるでなかった。
知り合いの誰かがいる席、そうでないなら隣に誰もいない席。席順が指定されているときには無言で席につき、無言で席を立つ。
驚いたのは大学ではそれが許されているということだった。そもそも学年の人数が多い上に、学部も学科も異なることが多い。何の授業を取るかから自由で、そうなるとクラスメイト全員の名前を憶えていないと白い目で見られるなんてこともなく、影浦は大学で少しだけ自由に息をつくことができた。
そういう場所で、だから犬飼は影浦の知り合いだった。
授業が始まって二週間が経ったその日も、午前の授業が終わり廊下に出る犬飼に影浦はごく普通に声をかけた。
「おい、今日任務は?」
「今日はないよ」
生憎めぼしい知り合いは任務に出ているか、取っている授業が違う。近くにいた北添も含めて三人で食堂に向かう。
食券を購入する列に並んで、三人で取り留めのない話をした。
「味はボーダーだけど、安さは大学だよね」
「ボーダーの食堂、俺たちが給料貰ってるからっていい値段するよな」
「C級のとき結構きつくなかった?」
「弁当持参したよね」
三人でそれぞれ食券を買い、空いているテーブルに座る。犬飼が左利きなことは閉鎖環境試験の最中に知っていて、だからテーブルの奥に詰めようとしていた犬飼を呼び寄せて自らの左側に座らせた。「おまえそっち座れよ」「ああ、犬飼了解」そのやり取りの最中北添がやけににこにこしていることに気づいて、影浦は刺さるほほ笑ましさに居心地悪く身じろいだ。
「何だよ」
「いや、本当に仲良くなったんだなって」
流石に何のことを指しているのかはわかる。犬飼と一瞬見つめあって、影浦は唇を尖らせた。
「仲良くはねえよ」
「ないって、残念」
「おい、話をややこしくするな」
犬飼がきゃらきゃらと笑うのに北添から刺さるほほ笑ましいという感情が強くなる。
「でも、本当によかった。ゾエさん心配したんだから」
たぶんそれは犬飼だけではなく、影浦の新生活にも掛かっていたのだと思う。家族からも似たような感情を向けられていたから。
新しい環境はいつでも怖い。見ず知らずの他人も、こちらのことを知らないでぶつけられる不躾な感情も、知らない土地も建物も。
それでも、それと闘う準備くらい影浦はとうにできている。十八年もこのサイドエフェクトと付き合ってきたのだ。
影浦はふんと鼻をならし箸を手に取る。犬飼はとっくにこちらからA定食へと関心を移していた。
『ある』ものに気づくのは簡単だが、『ない』ものに気づくのは難しい。これは諏訪さんも――おそらくは何かのミステリの受け売りで――言っていたことで、影浦も犬飼の観察の視線が消えたことに気づいたときには驚いた。
いつもは、例えば初対面の人間との会話のような、そういう居心地の悪さ、ぎこちなさ、妙な腹の探り合いを一方的にされているような感覚が薄っすらと漂っていた。どう反応するか一挙手一投足を見つめて、それから自分の反応を考えるような、言ってしまえば戦闘中に近い感覚。
それがいつの間にか消えていた。
「何?」
犬飼から欠席した授業のノートを写させてもらっている最中だった。ボーダーの、二宮隊の部屋。ほかの人間はおらず、スマホに目を落としていた犬飼は、影浦の筆記音が止まったことに気が付いて顔を上げた。それから探るような感情が刺さる。
そう、やけに集中できる、最初はそう思ったのだ。それが流れてくる感情が薄いからだと気が付いて、影浦は思わず犬飼をじっと見つめてしまっていた。
「いや――」
「えー、何? 気になるよ」
「観察されてないな、と思っただけだ」
犬飼がぱちりと瞬く。「観察?」
「今刺さったようなやつ」
「ああ――」
犬飼はこてんと首を傾げる。
「だって、もう慣れちゃったもん」
そう言って犬飼は再びスマホに目を向ける。以前だったら、そんなことはしなかった。会話の終わりを確信するまで犬飼は影浦に視線を向け続けていただろう。その粗雑な扱いも、どうやら慣れによるものだった。
影浦はそっとペンを強く握り込む。
変わるのか、この関係は。変わりうるのか。嫌いな奴が、そのうちそうでなくなる未来など、影浦は想像したことがなかった。嫌われたら嫌い返して、嫌いな奴は絶対嫌いで、それでおしまいではなかったのか。
慣れて、その存在を許容して、自らのテリトリーにいても無害だと思うに至るなんてことが、起こりうるのか。
許容されている。その事実は深く影浦の心に染み込んだ。
自分の皮膚が分厚く、硬くなったような気がする。気のせいだ。ただ単に影浦が犬飼の存在に慣れただけ。ただ、何か、自分がひとつ違う世界を知ったような、それで成長したような気持ちになった。いつも使っている通学路に抜け道を見つけたような、新しい戦術を思いついたような、そんな気分。
その分厚くなった皮膚で、影浦は犬飼を小突く。
「スコーピオンを出せよ。ぼこぼこにしてやる」
「ぼこすって言われていいよって言う人いないでしょ」
「鈍ってる言い訳じゃないのか」
「そんなに構ってほしい?」
鼻で笑って訓練ブースに引きずり込んだり、あるいは逆に犬飼と辻の連携の的になったり。ボーダーである以上コミュニケーションは戦闘に偏るが、それが愉快だった。
世界に、こういう人間がいていい。影浦が許されている以上、影浦も犬飼を許した。
それですべてが解決して何もかもが円満に終わったのだと思っていたので、ふと胸に突き刺さった温もりのことがすぐには理解できなかった。
上擦ったような、ひりひりするような、それでいて生温く、奇妙にやわらかい。
犬飼と一緒に大学からボーダーへと向かっていたところだった。ゴールデンウイークも過ぎて、桜はとうに葉桜に変わり顧みられることもなくなった。空気はぬるまって通り抜ける風が心地よい。そろそろ五月病だなんて軽口を叩いて、狭い歩道を二人で縦になったり横に広がったりとぐだぐだと歩く、ただそんな日常のはずだった。
その感情を受信して、影浦は思わず固まった。犬飼が何事かとこちらを見るのに、感じた感情をそのまま口に出す。
「おまえ、俺のこと好きか」
時間が止まったようだった。犬飼の薄い色の瞳がこちらを見ている。さっと頬が色づく様子にこの問いかけは真実を衝いているようなのに、犬飼は困ったように眉を下げた。
「あのさ、カゲ」
言い聞かせるような声だ。咄嗟に影浦は犬飼の感情を探る。
「おれが好きだよって言って、信じられる?」
「なに……?」
「返事はそれ次第。カゲの話を聞くよ」
「……聞くなよ」
聞いていたはずが、どうしてこちらが問われているのか。
「聞いたのは俺のほうだろ」
「うーん。まあ、これは信じていいことなんだけどね。好きだよ」
静かな声だった。愛の告白と言うには何の高揚もない。刺さる感情も、いつの間にか平時のそれに変わっている。信じられる? 先ほどの犬飼の問いの理由を知る。一瞬肌に感じた温もりは遠く、今は温もりが去ったあとの寂しさだけが残る。
それで? カゲはどうするの? 犬飼の目が、感情が問いかける。何か、口を開かなければというのろのろとした動きの前に、犬飼がけん制するようにきゅっと口角を吊り上げた。影浦は返事もできない。
「ねえ、カゲの感情はカゲのものだよ」
前にも言ったけど。犬飼の声は淡々としている。
「そして、おれの内心はおれのものだよ。おれはカゲが好きだけど、カゲに何かを求める気はないから」
それだけを言い置いて犬飼が足早に去っていく。影浦はただそれを見送ることしかできなかった。
最初に逆戻りしたようだった。犬飼はいつもの平静な感情で影浦に笑いかけ、影浦はそれに苛立つ。
「どうしたんだ、今更」
そう問いかけたのは穂刈と当真で、影浦は苛々と舌を打つ。
「どうもしねえ」
「仲良くなったんじゃなかったのか、犬飼と」
「なってねえ」
「大学でもメシ食ってたのに?」
「気の迷いだ」
二人は明らかに面白がっているのでよかったのだが、その心配が周囲に広がり、犬飼から大学のノートを借りるようあれやこれやと仕掛けられるに至って、影浦は重い腰を上げた。
「相談があるんだが」
そうやってアポイントを取る先を、影浦は随分悩んだ。それで選んだ人間と向かい合って、影浦は薄っすらと後悔する。
「そういえば、どうして僕たちなのかな?」
純粋な疑問、という顔を前面に出した王子と、面倒くさそうな水上。犬飼の思考を理解できそうで二人からほどよく距離がある人間を選んだつもりだったが、水上はともかく王子に声をかけたのは面倒を呼び込んでしまったかもしれない。
大学の構内、自販機が並ぶ広場のベンチに腰かけて、影浦は二人に缶コーヒーを手渡した。大学生になった途端に自販機のラインナップが面白みのないものに変わってしまった。カフェオレや安っぽい炭酸飲料はどこへ行ってしまったのだろう。
「あ?」
「澄晴くんと喧嘩してるのは聞いてるけど。僕たちでいいの?」
「おまえらは、小難しいこと考えてるかもしれねえが取り繕ったりはしねえだろ」
「ああ、なるほど」
王子はぱっと目を輝かせる。
「ぼくたちがよくて、澄晴くんが駄目なのが不思議だったんだよね」
「なんで俺巻き込むん?」
隣では水上が心底げんなりした顔をして頬杖をつく。
「心当たりは?」
「あるけど」
「だよね。それで?」
王子はさっさと水上をあしらった。水上が微かに顔を引きつらせるのに気づいても、影浦は本題を前に言葉を選ぶことで精いっぱいだった。
「うん」
「あいつは……俺の内心は俺のもんだと」
「うん」
「そんで、それにはあいつの内心は関係ないんだと」
「それから?」
「それだけだ」
「それだけってことはないやろ? それでキレとるんやったらなんで今更仲良くしとったん?」
缶コーヒーに口をつけながら水上が問いかける。
「仲良くしてたのに今更そんなこと言うのが変なんだろ」
影浦の言葉を聞いて王子はうーんと首を傾げ水上は天を仰いだ。
「なんだよ」
「カゲくんはたぶん、主体と客体を切り分けることができないんだよね」
そこが二人の行き違いだと思うんだけど。
「はあ?」
「自分が客体として存在しているときに、必ず主体としての自分も意識してしまうから」
「意味が分からん」
「うーん、ほら。例えば僕がカゲくんを好きになったとして、」
突然珍妙なことを言い出した王子に、影浦は眉根を寄せる。こいつは犬飼の感情を察しているのだろうか。
「として?」
「僕の好き、は本来カゲくんが客体として存在するでしょ」
つまり、この場合カゲが好きの「対象」になるってことや。影浦の顔色を読んだのか水上が補足してくる。
「まあ、そうだな」
「でも、カゲくんにはSEがあるから、僕の好きを『感じて』しまう。そこでカゲくんは主体にならざるを得ない。客体である自分を感覚として知ることで」
「あ……?」
思考が追い付かずに影浦は口を開ける。好き嫌いはどう見てもただの例示で、王子の本題はこちらの小難しい理屈のほうだ。
「自分と相手が切り離せない。それでいて癒着している。カゲくんが好かれたとき、カゲくんにわかるのは好かれたという感覚だ。好き、という気持ちは実感できない」
「わからん」
「カゲくんにとって感情は不自由なものだ。好きだった人に実は嫌われていた、なんてことはカゲくんに限っては起こらないから」
影浦はふと自分を振り返る。最初に兄から感じた疎ましさ。度重なる暴力沙汰。確かに感情は自分を規定してきた。
「でも澄晴くんは逆だ。自分と相手は別だと思っている。自分の好きと、相手の好きは別だって」
「最後のほうはわかった。でも、」
「なあに?」
出来の悪い生徒を相手にするように、王子は鷹揚に頷いた。
「お前らは違うのか。嫌っているとか好かれているとか、噂話があるだろ。好かれているって言われたら嬉しいんじゃないのか」
「僕らも似たようなものだよ。でも、カゲくんほど癒着はしていない」
今度の王子はにっかりと笑った。どうにも正鵠を射たらしい。
「共感って、本当は他人事なんだよ。『わかる気がする』ってだけ。自分と相手は切り離されている。でも、カゲくんは自分のことに関しては癒着しちゃって、どっちがどっちの感情かもわからなくなる」
「結局何が言いたいんだ」
「澄晴くんが取り込めない?」
王子はこてんと首を傾げる。
「澄晴くんが仲良くしてくれるから、カゲくんは澄晴くんと仲良くするの? それとも、自分が澄晴くんと仲良くしたいから、澄晴くんにカゲくんと仲良くしたいって思ってほしい?」
何を問われているのか、影浦には分からない。
「その二つは連動してないよ。少なくとも澄晴くんのなかではね」
黙り込む影浦に、水上が追撃する。
「簡単な話やろ。犬飼が全部言うとるやん」
水上は面倒くさそうな顔をして――しかし水上はいつも面倒くさそうな顔をしている――ほんの少しの心配と苛立ちと親切心を混ぜた感情で言い切る。
「犬飼がカゲにどんな感情を持ってようと、カゲには犬飼のことを好きになる自由も嫌いになる自由もあるんや」
きっぱりとした断言に、影浦はどうしても納得がいかない。
「それは、にせものだろう」
「にせもの?」
「嫌いなやつを好きになることなんてない」
よーしわかった。俺が悪かったわ。水上はそう言ってこきりと首を鳴らした。
「好き嫌いはおいといて。犬飼の内心がどうあれ、一緒に飯食って挨拶するなら仲良いって言ってええねん」
「だからそれは、」
まるきり閉鎖環境試験の犬飼と同じ問答だ。
「感情が伴ったものだけが本物か? どうやってそれを区別するん? 俺も犬飼もそんな世界に生きとらんで」
他人の感情なん、わからんやろ。
「話をせえ、そんで、態度を見ればそれでええやろ」
水上は真っすぐに影浦を見据える。「だからカゲはいまここにおるんやろ」
「犬飼のこと、なんで嫌いなままでおらへんかったん?」
突き放す言葉に影浦ははくと口を開き、そうして何も言えないまま閉じる。
そうでないから、影浦はここにいた。
「……なんでそうできなかったんだろうなあ」
その声は惨めに震え、二人から刺さる憐れみに影浦はぎゅっと目を瞑った。
「今度の土日、どっちか暇か?」
久しぶりに感じる、犬飼からの観察の眼差しだった。犬飼は静かな顔をしてスマホを取り出して何やら確認する。
「土曜は暇、日曜は夜間シフト。どうしたの?」
いつもの柔和な顔がどうしてか気まずい。影浦はぐっと両足に力を込める。
これが自由ということだった。犬飼はいつも影浦を自由にしてきた。嫌うのも自由、近づくのも自由、すべてが影浦に許されていた。それが恐ろしいことだと影浦はもう知っている。影浦はいつだって、感情に絡めとられるようにして生きてきた。
「じゃあ土曜、どこか出かけねえか?」
「いいけど……どこに?」
「……海」
犬飼とどこへ行きたい? 話をするには? そう考えたときに唯一思い浮かんだのがそこだった。海。ショッピングモールでも、どこかの公園でも遊園地でもなく。
「いいよ、行こう」
もしも、あの幻の海に犬飼を見つけたなら。影浦は思う。自分はあの寄せては返す波に何を言えるだろう。
市外へ出るのでボーダーに届けを出した。何とは言わないが去年から規則が厳しくなっている。待ち合わせは市内のバスターミナルで、メッセージアプリでやり取りをしながら旅程を詰め時間を決めた。
五分前に着くように家を出たのだが、待ち合わせ場所に着いたときには既に犬飼がいた。
「待ったか」
そう聞くと「おれも今来たところ」と返ってくる。それが本当かどうかは分からなかったが、遅刻ではないので影浦も黙った。
二人でバス停に並んでバスを待つ。影浦も犬飼も、まだ自動車教習所に通っている最中だった。並んでいる乗客は老人と中年、それから小学生のグループだった。これが車でも用意できていたなら少しは格好がついただろうかと思うが、バスが到着して二人掛けの席に並んで座ればまあいいかという気になった。車を運転しながらまともな話ができるとは思えなかった。
海沿いに大きなショッピングモールがあり、そのすぐそばに砂浜のある海岸がある。夏になると遊泳もできるし、金を払えばバーベキューもできるようになるらしい。三門市民の買い物はほとんど市内で完結するので影浦は行ったことはないのだが、そういう話を兄から聞いていた。
「おまえ、行ったことあるか?」
「ううん。初めて」
窓際に座った犬飼は興味深げに窓の外を眺めている。
「海、好きなの?」
「わからん」
「なにそれ」
笑う犬飼に肩を竦めて見せる。
「あんま、行ったことがねえから」
「行ってみようって?」
「ああ……」
影浦の思い出話が愉快な話でないことは知っていて、曖昧に濁す。犬飼の好奇心が薄っすらと刺さったが、直接何かを問われることはなかった。
「おれ、ここじゃないけど海には何回か行ったな。小さい頃だけど……」
ぽつぽつと潮干狩りの話だとか、浮き輪で海に流されかけた話だとかを聞く。
途中で何度か人の乗り降りがあったが、おおよその乗客の目的地はそのショッピングモールのようだった。しばらくして小学生のグループが「見えた!」「どこ?」「あれ!」とはしゃぐのを、犬飼はほほ笑ましそうに見守っている。影浦も、うるさくは思ったが、仲間内で盛り上がっている分感情が刺さらないのでそこまで気にはならずに済んだ。
バスを降りた途端に磯の臭いが漂ってくる。温く湿った風が吹き付けて、二人の髪をばさばさと乱す。
「うわっ、すごい風」
セットしただろう髪が風に靡くのを笑って、「行こうぜ」と海へと足を向ける。ショッピングモールの入り口を通り過ぎて、駐車場のその先へ。
「意外に人がいるんだね」
犬飼の言う通り、海岸にはまばらに人影が見えた。犬を連れている二人組、幼児と保護者らしき人、ランニングをしている人。影浦が内心恐れていたような人混みはなく、二人で砂を踏んで波打ち際を目指す。
「サンダルにすればよかったかな」
「もっと砂で汚れねえか」
「でも気にせず洗えるじゃん」
犬飼はスニーカーで慎重に砂を踏んでいる。砂浜だが、ところどころには草が生え、海藻が流れ着いている。ぼこぼことして平らなところは見当たらない。
影浦はふと思いついてスニーカーを脱ぎ、靴下を脱いだ。右手に脱いだ靴を持ち、犬飼を追い越して透明な波に足を浸す。
「カゲ?」
暦の上では初夏なのだが、海は冷たかった。波が足首までしぶき、砕けるのを影浦は皮膚で感じる。さらさらと流れていく小さな砂の感触も。
こんなもんか、そう思った。
いつもつけているマスクを下ろして、影浦は犬飼を見つめる。
「カゲ?」
薄い色の瞳が見つめ返す。海というには淡く、空というには強い色。
「俺の感情はたしかに俺のもんだ」
「……うん」
「それなら、おまえと同じ感情を持ちたいっていうのも、俺の勝手だ」
「誰にでもそんなことしてたら疲れちゃわない?」
「誰にでもじゃない」
少しは期待をしてくれ。影浦は掠れる声を振り絞る。
「俺は、もっとお前に近づきたいと、思う」
ざぱん。波が影浦を襲う。一瞬心臓が縮みあがるような冷たさがあって、それから潮が引いていくのを寂しく思う。
「……そう」
犬飼の頬が赤く見えるのは、太陽の光の加減だろうか。きらりと光る瞳が影浦を捉えた。
「じゃあ、おれも、頑張る」
「……何をだよ」
「いろいろ」
笑って犬飼が手を差し出して、その手を取って海から抜け出す。抜け出してしまえばべたつく塩水とへばりついた砂が不快で、現金なものだと影浦も笑った。
海岸沿いを歩いてなんとか水道を見つけ足を洗った。足を乾かしている間、犬飼はへらへらといつもの笑みを浮かべながら喋っていた。
「びっくりしちゃった。告白が海ってカゲ、ロマンチックだね」
「告白ではねーだろ」
「まあ、似たようなもんでしょ。おれのこと、特別扱いしてくれるんでしょ。期待してていいって」
「そんな話だったか?」
「カゲってば照れ屋さん」
そこで影浦はピンと来て犬飼に向かって意地悪く笑って見せた。
「照れてるのはおまえだろ」
今度こそ犬飼の顔にさっと赤みが差す。
「かわいーな、おい」
「やめてよー」
両手で頬を隠す犬飼に笑いながら影浦は靴下を履き、スニーカーのつま先でとんとんと地面を叩く。
「うっし、じゃあ行くか」
帰りのバスはバス停に着いてから十五分後に来た。その間は老人と若いカップルに囲まれて、二人で静かにバスを待った。
行きと同じようにバスの後方、二人掛けの席に座る。
「今日、ありがとよ」
座りながらそう告げると、犬飼がうっすらとほほ笑んだ。
「こちらこそ」
そうして影浦はバスの揺れに身を委ねた。
目が覚めたとき、犬飼はスマホに目を落としていた。
「起きた?」
「ああ……悪い」
「いいよ、別に」
犬飼がさっさとスマホを仕舞おうとするのに、影浦はもったいなくて声を上げる。
「何見てたんだ?」
「見る?」
犬飼がスマホの画面を差し出してくる。
「空港のライブカメラ。これは羽田」
画面のなかでは空港の滑走路と、その手前で行き来する飛行機が見えた。影浦でもなんとか知っている国内の航空会社のロゴが見える。
「空港が好きなのか?」
「空港っていうより、飛行機かな」
それに思い当たることがあって影浦は「ああ」と声を上げる。
「なに?」
「鞄につけてるだろ、なんか、赤いやつ」
影浦は犬飼が大学に持ち込む鞄につけていたキーホルダーを思い出す。長方形の赤い布で、何か空にまつわる英語が書かれていた。
「フライトタグ?」
「知らねえけど」
「REMOVE BEFORE FLIGHTって書いてある」
「文字も知らねえ。けど、たぶんそれだ」
「え、これくらい読めるよね」
犬飼が笑う。
「そう。飛行機のやつなんだ、あれ。メンテナンスする場所につけて、出発前にちゃんと確認しましょうねっていう目印にするの。航空会社がグッズ出してて」
「へえ」
それから付け加える。
「初めて知った」
「だろうね」
あっさりと言う犬飼に、影浦はずるずるとバスの座席から滑り落ちて上目で犬飼を眺める。
「おまえ、俺のどこがいいんだ? 俺は全然おまえに吊り合うやつじゃねえぞ」
「えー? 今更じゃない?」
犬飼がふっと真面目な顔を作る。
「おれのなかのカゲがさ、すっごくお節介だったんだよね」
「おまえの?」
「そう。いない? カゲの魂にもさ、おれの部分がたぶんあるでしょ?」
「何だよ、それ」
「ない? 犬飼ならこうするだろうな、犬飼ならこう思うだろうな、みたいなやつ」
「どんな漫画が好きそう、とかか?」
「そう」
「おまえのなかにもいるのか?」
「うん。そのカゲを、最初はおれとは全然違うなあって眺めてたんだけど。そのうち段々気になったったの。優しくて繊細だなあって」
「それはおまえのほうだろ」
優しいのも、繊細な気配りも、全て犬飼のものだ。
「どうしたの? 前は怒って来たのに」
「俺だって成長するんだよ」
「ふうん。それで、もっと別の世界のこと、わかってほしいなって思った」
影浦の中の犬飼は、いつだってよく分からない。漫画の好みも聞いたことがない。食堂でも大抵のものを美味しそうに食べるし、任務に関することなら淡々としている。それでも確かに影浦の中の犬飼というものは存在していて、それを知りたいと、いまの影浦は思っている。
ぼんやりと身の内の犬飼というものを想像してみる。そいつは静かにスマホに目を落とし、画面の中の飛行機を熱心に見つめる。それでも、ふと顔を上げて、影浦の様子を確認する。眠っていると分かると少しだけ物足りなさげに唇を尖らせて、それでも眠らせたまま、また画面に視線を落とす。そこにはふたりの人間が、ふたりの人間のまま存在している。
「おまえのこと、」
それだけじゃ物足りない。影浦はそう思う。
「……もっと知れると思うか?」
「たぶんね」
迂遠なやり取りだ。会話のキャッチボールよりなお遠い、暗闇の中で手探りで何かを探すような、そんな関係。ただ、どんな感情が飛んで来ようともうその感情を恐れることはないだろうと、影浦は根拠もなく信じた。
そろそろと伸ばした手が触れあって、そっと握り込む。終着まであと少し、それからその先。影浦はずっと、許されていた。