そんな日は来ない

 今日はその日だった。夕暮れのビデオ・レヴァショール24のまえに白い女が佇んでいる。ハリーの足はゼンマイ仕掛けの人形のように動き、彼女に歩み寄っていく。白い女はだんだんとはっきりとした輪郭を持ち始め、豊かな金髪と、美しい顔と、疲れた眼差しが明らかになる。彼女の諦めと軽蔑の入り混じった目に眼差されてなお、ハリーは歩みを止めなかった。ああ、そうだと思う。俺はこういう人間だ。見放されるのも仕方がない。俺が少しでもマシな人間だったのなら、この面会だってきっと違った風になっていた。

 心の中で誰かが囁く。「いいえ、いいえ! あなたさまは決して悪くない。あなたさまが悪いというのなら、あの女が『悪く』したのです――!」しかしハリーはただその悪さを受け止めるだけだ。人生に疲れ、世界に倦んだ孤独な中年が己だ。蛮勇に近い開き直りでハリーは女と対峙する。

「今日はお話はしないの?」

 無言のハリーに彼女は静かに首を傾げた。彼女の声は鈴を鳴らすように美しく素っ気ない。人類の若き母は疲れた顔でなお美しく君臨し、状況を支配している。

「だって、何が言える?」

 ハリーはもうどんな非難だって受け入れる気でいるのに、彼女はただ微笑むだけだ。

「いい子ね、ハリー。でも、そんなに甘く行くと思う?」

 彼女の金の髪が風に靡く。太陽のように、稲光のように。

「これはあなたの夢。あなたの傷。あなたの罪。私はあなたから去るためにいるわけじゃない。あなたを苦しめるためにいるの」

 女はぞっとするほど美しい。陶器の肌も、肉色の唇も、艶やかな睫毛も。ハリーはこの先の展開を予感しながら彼女の睫毛が頬に影を落とすのを食い入るように見つめ続ける。

「ねえ、お仕事は順調?」

 細い声の、寂しげな問いかけにハリーは操られたように頷く。彼女は薄く微笑んだ。

「よかった。ねえ、あなたの同僚が私みたいな目に遭ったら可哀想だもの」
「あんたみたいな?」
「そう。もう暴力は振るったの? 不躾な問いかけはまだ? 的外れなプレゼントは?」

 心当たりはないかしら? 彼女は笑う。

「ねえ、どうして私たち上手くいかなかったの? 誰が悪かったのかしら? あなた、思いやりなんて一つもなくて、帳尻を合わせるために優しくして。好き放題してばかり。おんなじことを繰り返すの?」

 彼女は微笑んでいる。慈母のように微笑みながら、彼女はハリーを見放している。包み込むような優しさは、何一つ期待してないが故だ。

「小像なんていらない。どうしてそれがわからなかったの? そんなふうで、どうしてまわりの人とうまくやれるなんて思えるの? あなたの衛星警官はなんて言うかしら?」
――やめてくれ」
「いいえ、やめない。ねえ、これは傷なの。平静を保つなんてまだ無理よ。しばらくはこうやって過ぎ去ったことをうじうじと悩むの。それは今と未来に暗い影を落とす」

 女は豊かな髪を手櫛で梳いて踵を返す。

「でも、私は違う。私はあなたから去ったのだから。――もう行かなくちゃ。あなたの影から逃れるために」

 太陽が去っていく。急速に夜が差し迫り、体が冷えていく。暗転、暗闇。ハリーはただ目を閉じる。



*****



「警部補?」

 慌てて目を開けたところで、太陽を背にしたキムが目に入った。逆光でキムの顔がよく見えない。これは夢の続きだっただろうか。太陽を手放した後に月を求める愚かさを嗤うような?

「ハリー?」

 ハリーは一度瞬いて、「ああ」と間抜けな声を上げた。尻の下に冷たいコンクリートの存在を感じて、ハリーはここが現実だと知る。聞き込み捜査の最中、集合住宅の入り口でキムが管理人に話をつけるのを待っていた。四月の少し冷たい空気のなかで日差しは温く、少しだけ目を閉じたはずだった。

「眠っていた」
「そのようだね、珍しい。昨日は寝不足だったのかい?」

 問いかけに首を振ろうとして、それから考え直す。「夢を見た。週三の、いつものやつだ」

 これは正しいコミュニケーションだろうか。ハリーは豊かな金髪を脳裏に描く。それとは正反対の容姿をして、キムはただ頷いた。

「管理人の許可は取れたよ。さあ、ここの住人に聞き込みに行こう」

 ノートを手にしたキムが踵を返し、集合住宅の中へと歩いていく。その背中を眺めて、ハリーは思わず口を開いた。

「なあ、キム――

 彼は振り返る。「どうした、警部補?」

「いや、なんでもない」

 ハリーは首を振り、彼の横に並んで歩く。彼にすべてを訊いてしまいたい。すべての問いをぶつけて、それで安堵してしまいたい。なあ、俺は迷惑か、必要か、好ましいか、嫌悪を抱くか、有能か、無能か、相棒になって喜んでいるか、うんざりしているか。ぐるぐると身の内に渦巻く問いにそっと蓋をする。今のハリーにできることは何もない。

 ――叶うなら。この身を丸ごと彼のために差し出したい。彼の盾になりたい。かつてキムが銃撃戦の最中覚悟したことを、そっくりそのまま返してあげたい。そうして自分を滅ぼしたときにようやく自分が救われる、そんな気がする。そんな甘美な幻は遠く、ハリーは平和な集合住宅へと足を踏み入れる。

 そして実際、そんな日は決して来ない。その贈り物が喜ばれることはなく、ハリーはまだ、あの夢から逃れきれないでいる。