隣の足跡
三か月間にあったかもしれない風景について。短い話の詰め合わせ
無防備
午後の教室は退屈に微睡んでいる。世界史の授業のはずだが、教師の話は冷戦の話題から脱線して、さっきからずっと自分が訪れたというチェコの博物館について語っている。穏やかな秋の日差しが窓から差し込み、ぬるい空気が生徒たちを眠りへと誘う。時折聞こえる走り書きの音もまばらでか細く、誰もが授業の終わりを待ち望んでいる。どこまでも平和な時間だった。
そんなものは嘘だと皆守は思う。なぜならここには墓荒らしがいる。転入早々墓へ侵入し、あまつさえ執行委員を倒した人間がいて、平和があるはずがない。強迫的な思いとは裏腹に、皆守の視線の先では墓荒らしである転校生が静かに授業を受けている。ぴかぴかと白く折り皺が残る真新しいシャツを身に着けているのに、頬杖をつきながら手持無沙汰にシャープペンシルをくるくると回す様子はもうずっとこうやって過ごしてきたとでもいうように教室の風景に溶け込んでいる。
そんなはずはないだろう。そんなに寛いではいけない。隙を見せてはいけない。つまらなさそうに欠伸なんてしないでくれ。ずっと警戒していてくれ。「宝探し屋」だというのなら。皆守の心の叫びが通じるはずもなく、葉佩がそれを聞く道理もない。
嘘だというのなら、そもそも皆守自身が一番の嘘なのだ。「授業出ようよ」という誘いも、「数学って今なにやってる?」「俺が知るか」という会話も、本来転校生と皆守との間で成り立つものではない。それなのに親しみを持って振る舞われている自分こそが耐えがたい。憎むべきは転校生ではなく自分だ。皆守の感情は身勝手な憤りであり、戸惑いであり、そしてなにより怯えだった。
どうすればよいのかわからない。彼のことを知りたくない。一緒に過ごせば、情が移ってしまう。こんなことになるとは思わなかったのだ。探索に同行して共犯になったのだって、成り行きと衝動に過ぎない。どこかで間違えたまま奇妙な現状に立ち竦んでいる。
選択肢は多くないはずだった。墓守としてさっさと処罰すればよい。生徒会は静観を決め込んでいるが、大人しく墓が暴かれるのを待つ道理はないし、転校生には立派な「実績」がある。あるいは友人になりたいのなら何もかもを隠す覚悟を決めればよい。それなのに何一つ決めることなく無為に時間を浪費している。
できない。根拠もないまま、ただ既定の事実のようにそう思う。そんな気力や、勇気や、意思のようなものは、もう随分昔に皆守から抜け落ちてしまった気がする。平穏で、代わり映えのしない安寧、通り過ぎていく時間だけが皆守に許容できるすべてだ。かつて砂漠のようだと評されたことにも、皆守は納得していた。どこまでも乾いた何もない風景。皆守には何もないし、何も欲しくない。与えられても受け取れない。
それに気がついたなら、転校生も皆守を構うことはなくなるだろうか。
ただ思い込みたいだけの希望が脳裏を過ったところで、終業のチャイムが鳴った。やる気のない挨拶の号令がかかり、周囲から席を立つためのがたがたという音が聞こえる。視界の端で、転校生が伸びをしながら立ち上がるのが見えた。
背景
「九龍クンはどうだった?」
背後から八千穂の明るい声が聞こえて来て皆守は振り返った。夕方のホームルームで中間試験の成績表を渡されたので、放課後の今も大半の生徒が教室に居残って嘆きや喜びの声を上げていた。そういう日なので、皆守も校舎への居残りに目くじらを立てようとは思わなかった。どうせ学年全体が浮足立っている。
「ん? まあまあだったよ。見る?」
宝探し屋の成績、というものに興味が湧いて皆守も近寄った。葉佩は授業の出席率は良いようだったが、成績となるとよくわからない。授業中の葉佩は大抵頬杖をついてくるくるとシャープペンシルを回している。皆守の席からはその様子が自然と目に入るが、ただの退屈している学生のようにも、勉学に意味を見出さない異邦人のようにも見えた。
八千穂の肩越しに細長い短冊を覗き込む。教科ごとの点数と、学年内の順位が書かれている。
「国語28、数学100、物理15、歴史96、地学60……」
ざっと目で追うが数学と歴史と英語以外は壊滅的だ。どう見ても「まあまあ」には程遠く、八千穂がうーんと言葉を選んだ。
「ちぐはぐだね。あっ、でも、海外にいたんだし国語は難しいよね。数学とかは世界共通だろうし!」
「よく見ろ。歴史はとれてるぞ」
「あっ……」
八千穂がもごもごと口ごもるのに葉佩が笑う。
「わざとだよ。おれの記憶容量は有限だから」
ろくに試験対策もしなかった、ということらしかった。
「数学はカギ開けに使うし、歴史はやっぱり必要だろ。ほかに手が回らなかった」
結局葉佩は学生ではなく墓荒らしらしい。皆守ははんと鼻で笑った。
「ホームズじゃあるまいし」
「地動説は知ってるぜ?」
葉佩が頬杖をついてにやりと笑い返す。
「現代人でそれを知らなかったらそれこそどうかしてる」
「かもね」
葉佩は八千穂から成績の短冊を返してもらうと無造作に鞄にしまう。
「ところでお二人。試験の憂いも晴れたところで夜遊びとかどう?」
「行こう! ずっと勉強してて体が鈍っちゃいそうだったの!」
はしゃぐ八千穂に呆れのため息をつくと葉佩が「いつもの時間ね」とすっかり決定事項のように宣告した。皆守はもう一度ため息をつきながら髪の毛を掻き回して、葉佩たちをさっさと教室から追いやることにする。部活に行く八千穂とは途中で別れて、葉佩とも寮の階段で別れる。
自室に戻って薄っぺらい鞄を備え付けの椅子へ放る。ふうと息をついたところで、そういえば葉佩はホームズを読むのかと気が付いた。
そわりと何かが皆守の心臓を撫でる。宝探し屋でも転校生でもない、ただの葉佩の存在が幻のように立ち上がる。
葉佩はいつホームズを読んだのだろう。皆守が読んだのは随分昔だ。それを今でも覚えていたのか。幼い葉佩が図書室の隅で擦り切れたハードカバーを開くところをぼんやりと想像する。それはまるきり皆守の過去の再現だった。
――皆守も、未だ覚えている。
何かが皆守の乾いた心に染みた気がして首を振る。そんなことを思いたくはなかった。皆守は乾いた世界に生きているし、何であれ葉佩は墓荒らしだ。いずれ殺す人間を知ったところでどうにもならない。皆守はため息をついてベッドに倒れ込む。夕食を食べる気は失せていた。眠ってしまおうと目を閉じる。どうせ時間になれば葉佩が起こしに来るに違いないのだ。
信頼
近づく足音に自動的に身体が緊張するのを、皆守は意識して肩の力を抜いた。給水塔に凭れたまま、目を閉じてゆっくりと呼吸をする。大股で早足のそれは間違いなく葉佩のもので、同級生を警戒する理由はない。――少なくとも皆守には。
足音が立ち止まったところで、皆守は瞑っていた目を片方開く。
「おはよ」
呑気に手を振る葉佩に皆守はふうと息を吐く。ここは教室ではなく屋上で、しかもあと五分で三時間目の授業が始まる時間だ。
「もう昼だ」
「こっちの台詞。重役出勤め」
「まだ出勤途中だ」
「なお悪いじゃん。不健康優良児」
こんな会話をしても、葉佩が無理やり皆守を授業に連れていくことはない。そこの部分には、短い時間で培った信頼がある。葉佩は皆守の隣のコンクリートに学ランを枕にして寝転んだ。見本のようなサボタージュを見下ろして、皆守のほうが心配になる。
「三時間目は何だ?」
「数学」
「九ちゃんは出なくていいのか?」
「数学はもうマスターしたんだ」
マスターが何なのかは知らないが、宝探し屋独自の目標があるらしい。概ね優等生に近い振る舞いをしている葉佩が屋上に顔を出すのは長くても一日一時間、どういう理由でその授業を選んでいるのか皆守は知らなかった。昨日は音楽、一昨日は生活。規則性が見えない。
「まあ、好きにしろよ」
肩を竦める皆守を葉佩がじっと見上げてくる。
「皆守はいいの?」
「何が」
「出席日数」
「そんなの気にしたことないな」
「三年生まで進級してるのに?」
葉佩はくすくすと笑う。どうも皆守の言葉をただの虚勢と捉えたらしかった。しかし、皆守は本当に出席日数を気にしたことがない。そもそも皆守のサボタージュが酷くなったのはあの教師が亡くなってからで、それまではあの教師が温室に顔を出したら渋面を作って授業に出ることも多かった。
少なくとも、三年生の先はない。出席日数が足りようと足りまいと、どちらにせよ皆守がこの學園を出ることはないと思っているのに葉佩にそれを伝えることはできない。もどかしく口を噤んだ皆守に、葉佩がもう一度微笑んだ。
「でも、皆守はなんだかんだ真面目だからなあ」
「……なんだよ、それ」
「おれと友達やってる時点でさ。探索にもついてきてくれるし」
「それはおまえが、」
何なのか。葉佩のせいにした時点で少なくとも葉佩の言う真面目さも認めてしまうことになるだろう。
「――もういい。いいから寝てろ。昼寝仲間」
「うん。眠い。でも、今日も頑張んないといけないからね」
頑張る対象が探索を指していることくらい皆守にもわかる。
「たまには休めよ」
「冗談。おれは毎日宝探し屋ですよ」
葉佩がまた笑って、太陽に背を向けて目を閉じる。皆守はそれを膝を抱えて見守った。
おまえが、俺を連れ出しに来るから。
葉佩は決して認めないだろう。皆守だってそうだ。けれど今から五十分後、三時間目の終礼の鐘が鳴ったなら、葉佩は目を開けてこう言うだろう。
「おれは戻るけど、皆守はどうする?」
馬鹿みたいな気遣いだ。受け取られることすら想像してないような、さりげなく、不器用な素振り。皆守がどう答えようとわかったと頷くだろう問いかけを、皆守は裏切ることができない。
そうして積み上げた信頼で葉佩はいまここにいる。皆守はきっと、仕方なしに首を竦めて立ち上がる。それはまるで、あの教師にそうしたのと同じように。馬鹿みたいな話だった。