潜水

 薄汚れた便器に向かい合って吐瀉物を眺めている時間が落ち着くようになったらもうおしまいだ。しかし俺は喉元の焼けるようなひりつきに苦しみながらも確かにこの時間を待ち望んでいた。

 警察の縄張り争いによって不幸にも治安維持機構の存在しなくなった街だとしても、人の営みは確かにある。マルティネーズ唯一のホステルはそこそこ賑わっており、男子トイレの壁を通り越しても賑やかなBGMと食器のぶつかるかちゃかちゃとした音、それから酔っ払いの喚き声と呻き声とぶつぶつと不平を言う声が聞こえる。嘘だ。聞こえない。俺はそれを感知しているだけだ。

『そう。そして、それを辞めたいと思っている』

 俺はうんざりとして焼けた喉で返事をする。

「そうだ」

 声はがらがらと聞き苦しいが、どうせ誰に聞かせる言葉でもない。

 俺の立てこもっているトイレは、長年公共物として扱われ続けた結果の薄汚さでもって清掃人の意地を拒んでいた。個室を仕切る壁は元は白かったのだろうが今では黄ばみ、地面に近いところでは塗装が剥がれ剥き出しの木の板がささくれ立っている。タイルはそれなりにつるりとしているが、所々がひび割れているし何より目地には埃と小便がこびりついている。

 どうしてそれがわかるのかというなら、俺がトイレの床に座り込んで便器を抱え込んでいるからだった。汚いが、気にするほどのことではなかった。今更だ。

 肝心の便器をというと先ほど食べたはずのナッツがべったりとしたペーストに変わってぷかぷかと水面に浮いている。飲んだはずのワインとビールの面影はない。

『ちゃんとある。よく見ろ。色がそうだ、もちろん臭いも』

「そうか」

 返事をする前に俺は胃の底からこみ上げる吐き気にえずき、喉を大きく開いて水面へと向ける。お、だとかえ、だとか声にならない音をあげながら腹を動かすが、黄色い胃液が出るばかりで肝心の中身は出てこない。

『もう中身はない。えずいているのは胃が荒れているのと臭いのせいだな。もう三回吐いているし、一時間はここに立てこもっている』

「そうか」

『ちなみに四十分前にここのドアを叩いていた男は女子トイレを借りて笑いものになった。復讐しようとお前を待ち構えていたが、結局憐みのほうが勝ったようだな』

「そうか」

 ぐるぐると回っていたはずの脳みそが世界を感知し始めているようだった。ちかちかと瞬く蛍光灯の青白い光が瞳孔を通じて脳みそをかき回している。

『お前はまた酒が足りなくなってきたみたいだと思っている』

「そうだ」

『うまく気絶できればよかったのにな。今日はもう無理だ』

「そうか」

 俺はトイレの水を流す。吐瀉物が、アルコールが流れていく。俺は流れていかず、現実に残る。

 いつかこの水に飛び込んで沈んでしまう日が来ると良い。そこでなら、俺は静かに暮らせるだろう。そう思いながら俺は遠ざかる睡魔を追いかけて立ち上がった。

BGM:潜水/People In The Box