二人の王国

 何の変哲もないただの鍵だ。歯はなく、鍵の表面に凹みがあるディンプルキー。ピッキングや複製の難しさなどから近年家屋の鍵として使われるようになったもので、葉佩が握るそれは正規に借り受けたものだ。誰からというなら、皆守から。

 借りた、というのは本当は違う。違うのだが、葉佩はそれ以外に説明する言葉を持たない。

 葉佩は皆守の部屋のドアに静かにその鍵を差し伸べる。宝探し屋として超古代文明遺跡の鍵を開けてきた自分でも、この鍵には苦戦するだろうな。そう思いながら差し込む鍵は抵抗なくシリンダーに滑り込み、手首のひねりと共に錠が開く。

「……お邪魔します」

 葉佩はいつもこういうときなんて言ったらいいのか悩んでしまう。平日の昼間、皆守は仕事に出ており、誰もいないと分かっているのだから黙っていてもいいのだが、それをするには葉佩はこの部屋に遠慮がある。三十近くになっても現役の宝探し屋として世界を飛び回る葉佩だから、今回の訪問も二か月ぶりだ。二か月は人の習慣を崩させるには十分な長さだ。

 葉佩は細くドアを開けると身体を部屋に滑り込ませる。錠を下ろし、部屋に向き直る。そうして息を吸い込むと、乾いた植物の香りがすっと鼻を通って行った。ラベンダーだ。

 皆守はもうほとんどアロマを吸うことはないのだが、衣類か壁紙か、どこかに染みついているらしい。訪れるたびに葉佩はラベンダーの香りを嗅ぐが、皆守は分からないと言う。これに関しては本格的に鼻がやられてしまったのだろうと葉佩は勝手に思っている。香るのはラベンダーと、それから少しスパイシーな何か。後者はきっと、皆守の作るカレーのせいだ。これは間違いなく衣類にも壁紙にも染みついているだろう。

 息を吸い、肺を膨らませた姿勢のまま、葉佩は部屋を見通す。皆守の住む部屋は一人暮らしにしては贅沢な2LDKで、玄関からまっすぐリビングが見える。レースのカーテンが昼間の光を通して白く輝いているのが見えた。その向こうで洗濯物がはためいていて、葉佩はそれに惹かれたように足を動かす。

 リビングはあまり面白みがあるものではなく、一人が暮らすにしては広いダイニングテーブルに椅子が二脚、それから本棚とソファベッドが置いてあるだけだ。もう少し見た目を整えたならモデルルームのようにも見えただろうが、生憎今はダイニングテーブルの上にはノートパソコンが放置され、ソファベッドの背もたれにはカーディガンが掛けられとあまり整理された様子はない。

 葉佩はそれを素通りして、リビングの窓からベランダに出る。恐らくは一日分の洗濯物と、ブランケットが干してあった。葉佩は草臥れた紫のスウェットに手を伸ばし、乾いていることを確かめるとハンガーごと物干し竿から取り上げる。いまは十五時過ぎ、洗濯物を仕舞うにはいい頃合いだろう。

 洗濯物を抱えてリビングに戻ると、葉佩はソファベッドに座って洗濯物を畳む。日の光を存分に浴びた衣類はぽかぽかと温く、洗濯物を広げた膝の上にもその温もりが伝わった。最後にブランケットを畳んで膝の上に乗せると、段々と瞼が重くなっていく。

 メッセージアプリで洗濯物を取り込んだことを伝えておこうか。そう思うのだがどうにも腰が重い。億劫な気持ちを、どうせ皆守も葉佩が訪れることを見越して外に洗濯物を干していたのだろうしという推測が後押しする。ずるずるとソファの背もたれにもたれかかり、白い天井にカーテンから差し込む光が踊るのを眺める。緩やかで明るい、時間のポケットに迷い込んだような静かなひととき。



 もしもこの瞬間時間が凍結してこの部屋が遺跡になったのなら。きっと誰もその遺跡を解釈できないだろうな。ふと頭に浮かんだ思いに笑って、葉佩は自らの時間を止めるように目を閉じた。



 皆守は民間企業の研究職として働いている。博士の学位が活きる仕事だと、就職が決まった時本人が嬉しそうに話していた。そしてその学位に応じてかそれなりの給料をもらっているらしく、ある日突然単身者向けのワンルームを引き払いこの広い2LDKへ引っ越しを決めた。

「近所のカレー屋、気に入ってたんじゃないの?」

 葉佩がそう問いかけたのは、皆守がそのカレー屋の主人から師匠と呼ばれ慕われているのを知っていたからだ。

「これ以上俺が教えることはない。あとはあいつ独自のカレーを見出すだけだ」

 本当に師匠の風格を漂わせて言うのに笑いながら、葉佩は重ねて問いかける。

「でも、どうして?」
「お前の部屋が必要だろう」

 葉佩はぱちりと瞬きする。皆守に気づいた様子はない。

「ずっと床に寝かせるわけにもいかない」

 葉佩はその頃、客用布団を床に敷いて皆守の部屋に泊まっていた。今、その布団は布団ケースに入れられ引っ越し業者の到着を待っている。

「おれのせい?」
「『せい』じゃない。俺がそうしたいんだ」

 皆守は最後の点検にと狭い部屋を段ボールをの間を縫って歩き回り、ばたばたとキッチンのシンク下を確認している。

「今の会社は家賃補助がかなり出るんだ。元々ガスコンロが三口欲しいと思っていたし、そうなるとファミリー向けの物件が多い。なら、余った部屋を九ちゃんの部屋にしたっていいだろう?」
「言い訳」

 皆守の言い分はあまりにも滑らかで、それが事前に用意された台詞だと分かる。

「俺が勝手にやってることだ。九ちゃんにどうこう言う権利はないぜ」

 ふふんと笑う皆守の顔は明るく、葉佩は彼が積み重ねてきた年月を思う。繊細で、優しく、目の前で困っている人を見捨てられなかった男は、いつの間にか柔らかな精神はそのままに大樹のように枝を伸ばし、勝手に葉佩を掬うまでになった。

 それを否定することは葉佩にはできない。葉佩だからこそ。

 皆守が天香學園を卒業してもう十年近い――玄室での一方的な別れからも同じくらい。怒り、嫌い、反発し、謝るにも謝れず、それでも絡み合った二人の人生は比翼連理に例えるにはあまりにも自分勝手で、しかし深く醜い傷跡を通してしっかりと繋がり分かち難い。

「……ずるいやつ」
「まあな。ほら、新居の鍵だ。失くすなよ。ディンプルキーは交換代が高いんだ」



 だからここは2LDKの小さな王国。王様は一人で、国民も一人。ほとんど不在の国民は「おれは流離いの宝探し屋でいいよ」と言うけれど、この王国には二人分の食器と、部屋と、ベッドがある。王様は笑いながら言うだろう。「ほら、宝探し屋。自分の部屋を探索したっていいんだぜ。枕カバーとシーツを夏用に変えておいたんだ」



 もしもこの瞬間時間が凍結してこの部屋が遺跡になったのなら。誰もその遺跡を解釈できない。この部屋に積もるやりとりを、この部屋に生きる二人の歴史を、この部屋で二人が垣間見る未来を、誰も知ることはないだろう。そう思うと葉佩はどうにも皆守に甘くなってしまう。こんな勝手を許して、居ついてしまう程度には。



 鍵の回る音で葉佩は目が覚める。いつの間にか日が傾き、温かったブランケットも冷めている。ああ、皆守が帰るまでには冷蔵庫の中身を確認して何か夕食を作っておくつもりだったのに。思いながら伸びをする。玄関から「おかえり九ちゃん」の声がして、仕方なしに声を張り上げた。

「皆守、ただいま。洗濯物畳んでおいたよ」