ペイル、のちの世界

 そういえば、内燃四輪車に乗ったのは初めてだとハリーは気づいた。キニーマに載った無線を使ったことも、ハンドルに手をかけたこともあるし、正確に言うなら記憶喪失になる前のハリーはクープリス40を運転して海に突っ込んだこともある。それでも、いまのハリーが内燃四輪車に乗るのは初めてだった。マルティネーズでは移動を己の脚に頼っていた。

 エンジンの音がうるさかった。なるほどこれならワーリング・イン・ラグスの窓の割れた一室にも響くだろうという低い振動。マルティネーズではトラックが沈黙していたので知らなかった。それが車体を震わせ、太ももの傷口に鈍く響いた。

 それで、と言うジャンの低い声は、どうしてかエンジンに紛れずにハリーの耳まで届く。

「それで、あんたはキツラギ警部補を四十一分署に誘って、相棒にするのか?」

 キムと共に四輪車に乗って四十一分署へ向かい、いまはそこからハリーの家へと向かう途中だった。今頃四十一分署ではキムが詳細な報告をしているところだろう。

 四輪車はジャムロックの中心部を抜け、別の大通りへと向かっているようだった。マルティネーズを発つときは後部座席に乗っていたが、いまは助手席に座っているのであたりの様子がよく見えた。運転をしているのはジャンで、車内にはハリーと彼の二人しかいない。

 ジャンは時折道路の陥没を避けたり、乱暴な運転者を罵ったりするばかりで、運転を代わってからずっとハリーに視線を向けることはなかった。その問いを聞いてハリーが顔を向けても、ジャンの険しい横顔が目に入るばかりだ。

「あんたが俺の相棒じゃないのか?」
「そうだよ。相棒っていうのがあんたのくその始末の担当者って意味なら、俺が相棒だ」

 ぶっきらぼうで素っ気ない口ぶりに、ハリーは頭の中でリストをなぞる。

「それならどうしてそんなことを聞くんだ?」
「こちらこそ聞くが、そうでないならどうして警部補を四十一分署に誘ったんだ? 質問リストはあんたの専売特許じゃないぞ」

 なるほど、彼は本当にかつてのハリーの相棒のようだった。ハリーは頭の中でリストをなぞる指を止める。質問リストに言及されたのは二人目だ。

 一人目について思考が逸れていこうとするのをハリーは頭を振ることで耐えた。

「一緒にやれたらきっと楽しいだろう」
「『一緒に』は相棒の意味じゃないのか?」
「あんたは俺の相棒をやめたいのか?」

 質問返しにジャンはハンドルを握りながらため息をついた。

「酔っ払いの相手はもう御免だ」
「でも俺は酔ってない」
「そうだな。一週間」

 漁村でも聞いた単語だ。現状この話をするのはハリーに分が悪い。ハリーは質問リストを手放してジャンの内心をぼんやりと想像する。

「あんたはもっと短気な人だと思っていた」

 ジャンは怒るでもなくただ前を見続ける。

「それで? いまは?」
「わからない」

 わからない。この言葉はいずれ明かされる犯人に対してのものではなく、永遠の課題についてのものだ。ハリーの中で「共感」のスキルが囁いた。

「俺はあんたとうまくやれるだろうか」
「……あんたにそう言われたのは初めてだよ」

 ジャンはそう言うと四輪車を路肩に止めた。何事かとハリーが彼を見つめるのに、彼の灰色の瞳が訝しげに瞬く。

「ここがあんたの家だよ」

 ジャンが示す先には灰色の集合住宅がある。取り立てて新しくも古くも、背が高くも低くもない、強いて言うならベランダの柵が少しだけ特徴的な建物だ。

「二〇四号室」
「でも、鍵がない」
「ほら」

 ジャンは片手をスラックスのポケットに突っ込んで、何の飾りもついていないむき出しの鍵を差し出した。使い込まれてはおらず鈍く銀色に光っている。手の中に握り込むとほのかに温かかった。

「どうしてあんたが鍵を持っているんだ?」
「あんたが酔っぱらってしょっちゅう鍵を無くすから」
「そうか。面目ない」

 ハリーがそう言うと、ジャンは少しだけ間を開けて鼻を鳴らした。

「もう合鍵を渡されたくはないな」

 そうしてハンドルに手をかけるのにハリーは首を傾げた。

「寄っていかないのか?」
「お茶でも出るのか? 賭けてもいいが、あの部屋にあるのは酒瓶だけだ」
「それなら、俺が酒瓶を捨てるのを見たくはないか」

 路肩に停めた四輪車の中で、ハリーはジャンと見つめ合った。ジャンの瞳がふらりと揺れて、それから「いいや」の声を聞く。

「どうしてだ?」
「どうして? このやりとりは何回目だと思う?」
「何回目なんだ?」

 悲しげな男がハリーを見て笑う。

「四回目だよ、ハリー」

 ハリーは本当の崖っぷちに立っていることにそこで気がついた。彼には漁村でハリーを捨てて去る選択肢もあったのだと。そうしないのはハリーの成果のためであって、決してハリー個人への情ではなかった。

「あんたいま、俺のことどう思っている?」

 咄嗟の問いはあまりに不躾で何を問いたいのかも曖昧だったが、ジャンはそこを非難することはしなかった。彼の灰色の瞳が静かにハリーを見つめる。ハリーはそっと唇を舐めて、今度こそ質問の焦点を考える。

「あんたは俺が生まれ変わったと思う?」
「わからない」
「わからない?」
「あんただってそう答えたことくらいあるだろう?」
「わかった。じゃあ、生まれ変わった俺となら相棒になりたい?」
「わからない」

 ハリーはそこでため息をついた。

「生まれ変わってない俺となら?」
「御免だね」

 リストが尽きて、ハリーは黙り込む。二人ともが「わからない」のではどうしようもない。これでは話をして思考を整理することもできないし、そもそも何の話をすればいいのかも分からない。

 捨て鉢のように、ハリーはマルティネーズでも繰り返した言葉を口にする。

「でも、俺は生まれ変わったと思っている」
「そうか。だといいな」

 だといいのか? 本当に? 「薄明」が何かを囁いたころには、ハリーは四輪車を降りてしまっていた。振り返っても青い四輪車の遠ざかる後ろ姿しか見えず、ハリーは仕方なしに前を向いた。



 部屋のドアを開けた瞬間に酒臭い空気を顔に感じる。それから埃とごみの臭い。一週間の不在を考えても部屋は汚く埃っぽかった。玄関には捨て損ねたのだろうごみの袋が積まれて、そこから見えるダイニングテーブルには酒瓶が林立している。濃色のカーテンは閉め切られているが、なぜかそのうちの一枚が破けていた。

 ハリーはふうと息を吐いて、それから止める。ぐっと腹に力を込めて部屋に駆け込むと、部屋を横切って窓に飛びつき開け放った。

 顔に新鮮な空気を感じてようやく止めていた息を吐く。それでもアルコールの甘い香りがハリーの周囲に漂って、「電気化学」がしきりにその源を探せと呼びかけてくる。

「もう飲まない」

 ハリーは部屋を漁ってごみ袋を探し出し、ひたすらその中に酒瓶を投げ入れる。頭の中ではスキルが盛んに喚きたてる。

「後悔するぞ」
「もったいない」
「一口だけ」
「仕事上がりだ」
「いくらしたと思っているんだ」
「このまま下水に捨てる気か?」
「酒ならまた買える」

 そこでハリーはぞっとして動きを止めた。ぶるりと体が震えて、歯がかちかちと音を立てる。

「俺は一週間禁酒したんだ」

 ハリーは呟く。

「なら十分じゃないか?」
「週に一度も飲まない人間がレヴァショールに何人いる?」
「さあ祝おう」
「たった一週間だ。おまえがアル中なことには違いない」
「まだアルコールが欲しいだろう?」
「違う! 俺は生まれ変わったんだ!」

 ハリーは叫んで、隣の部屋から「うるさいぞ!」の声が飛ぶ。重たくなり、がらがらと音を立てるごみ袋を抱えてハリーは部屋を出た。

 部屋と空き瓶回収ボックスを何度も往復して、すべての酒瓶を家から追い出したころには日が暮れていた。ハリーは最後の酒瓶をボックスへ投げ込むと掃除の途中で見つけ出した小銭でデリに寄り、ケバブを買って家へと帰った。

 酒瓶は消えたが部屋は汚いままだった。フローリングには薄っすらと埃が積もっていて、シンクでは皿が水につけられたままになっている。壁にはコモドール・レッドを投げつけたのだろう傷と染みが残っているし、バスルームの鏡はひび割れている。

「ここが俺の部屋だっていうのか」

 かつてのハリーの痕跡を見るたびに、自分ならそうしただろうという気持ちと、自分でも信じられないという気持ちがせめぎ合う。「自分」という存在を突然引き継ぎもなしに投げ渡されたのだという無責任な感情がいつだって拭えない。それでも胸に迫る寂しさ悲しさ喪失苛立ちは確かにいまのハリーが感じるものだ。

「でも俺にはここしかない」

 事件を解決してからこちら、妙な虚脱感に襲われている。マルティネーズでは「吊られた男」事件の犯人も、過去の自分についても、そのほかのたくさんの小さな事件も解決して回ったが、その旅が終わってしまいなすべきことを見つけられず呆然とした気持ち。それで前を向けと言われて、けれど見つけた自分はどうしようもなく寂しい男で、これを抱えて進むのは果てしない荒野を彷徨うのと同じに思えた。

 ジャンには生まれ変わったと告げたが、それがただテープを巻き戻しただけでないとどうして言えるだろう。ハリーにはいつでも過去の自分の影が見えている。それは自分の少し先を歩いていて、それについて歩くというのはひどく蠱惑的な誘惑に思えた。未来が見えているという誘惑。

 それで、前と言うのは自分の影がいない場所を指すのか? それでも自分は自分なのに?

「俺は――

 ハリーはシーツのはげたベッドに座って考える。そしていつの間にか眠っていた。



 声を聞いた。

「ああ、ここには何もないな」

 細い弦の震えるような声だった。全長三メートルのインスリンデナナフシがハリーを見下ろしている。

 ハリーにはこの状況に一切の心当たりがない。わかっているのはここが自分の頭の中だということだけだ。いつもは暗闇で、古代爬虫類脳と辺縁系と、スキルたちが好き勝手に喚く世界に自分以外の存在がいる。そんなことがありえるのだろうかと首を傾げて、それからスキルたちは果たして自分と言えるのだろうかと妙なことが気にかかった。

 その思考の間にも、自分以外のすべてが沈黙している。静寂は耳に染み込んでキンと頭を貫いた。ハリーは静かな時間に慣れていない。質問をするか、スキルの囁きに耳を傾けるか、あるいは走っているときの呼吸や心臓の鼓動に耳を澄ませるか。記憶を失って以来、ハリーはそういう風に生活をしていた。立ち止まることも、黙ることも知らなかった。

 世界は白い。ナナフシは何もないと語ったが、そこには靄のような何かがある様にハリーには思えた。しかし、目を細めても靄は靄のまま実体を持つことはなく、ハリーの伸ばした腕は空虚に宙を掻く。

 そこでようやくハリーは自分に体があることに気が付いた。頭の中にいるはずなのに、自分には体がある。これはただの夢なのだろうか。ハリーは吊るされた自分と向き合う夢を見たことがある。これも同じようなものなのだろうか。ハリーはぼんやりと周囲を見回し、そうしてナナフシを見上げる。何にせよ、ここにいるのはハリーとナナフシの一人と一匹だけだ。

 ナナフシの眼が碧く光った。

「何もないっていうのはどういうことだ?」
「おまえは記憶を失ったばかりだということだ」
「ここはどこだ?」
「知っているだろう。ここはおまえの頭の中だ」
「俺の頭の中には二十四のスキルがいたはずなんだが。あと古代爬虫類脳と、辺縁系が」

 ただの人間にならこんな話はしない。しかし、どんなに突飛な話でもナナフシは否定しないだろうと知っていた。それは二者のあまりの隔たりのためで、分かり合えないことが分かり合えている。

「それが何かは知らないが、ここではない場所にまだいるだろう。ここはおまえの思考の場ではない。ここにあるのはおまえの見たもの体験したものだけだ。おまえの内側ではなく、外側にあるものがここに保管されるはずだ」
「つまり――これは俺の記憶なのか?」
「その認識でおよそ合っている」
「なら、あんた以外にも色々いたっていいただろう? キムだとか」

 呟いた途端に背後から咳払いが聞こえた。まるで、ハリーのほうが彼を忘れ去ったのだとでも言うように。

「ああ、彼は知っている。眩しかった」

 ナナフシがハリーの背後を覗き込んでそう言うので、どうやらキムがそこにいるらしかった。ハリーは背後を振り返る。オレンジ色のボンバージャケット、白いシャツ、ブーツ、眼鏡。キム・キツラギ警部補が手を後ろに組んで、ハリーの動きを見守っている。

「ほかには?」

 ナナフシの声に導かれるように、ハリーはいままでに出会った人々の名前を上げる。ガルデ、レナ、クーノ――名前を呼ぶごとに彼らの姿が周囲に表れ、ハリーに顰め面をしたり、微笑んだり、石を投げるそぶりを見せたりする。しかし、彼らはその場に立ち止まって動かない。

「ほかには? 人以外の、ものたちは?」

 ハリーは促されるように次々にマルティネーズの建物を呼び出していく。呪われた商業地区の本屋、裏庭、ポスト、海、路地、弾痕、コンテナ、トラック――それでようやく本来の居場所を得たように人々が散っていった。

 ハリーはあたりを見回す。真っ白い世界は消え去って、そこはまるきりマルティネーズの街角だった。海から吹き付けるべたついた風、海の臭い、遠くのカモメの影、しんと静まり返った港、巨大なクレーンの存在感。

 いまでもくっきりと思い出せる、ハリーの生まれた場所だ。

「いい風だ」

 ハリーが作り上げた世界を、ナナフシは軽やかに歩いた。ヨットの停泊していた桟橋に慎重に足を載せ、港のコンテナの上を飛び跳ね、渋滞するトラックを大股で跨ぐ。その様子にハリーとキムは付き添った。誰もナナフシを気にせず自然なものとして扱うのは、きっとここがハリーの世界だからだ。

「たぶんこれは俺の記憶のなかで一番のものだな」

 黄色くぼやけた太陽がナナフシの細い輪郭を際立たせている。人工物に囲まれてなお負けない威容と繊細を併せ持つ存在がハリーを軽々と追い越していく。美しい生き物で、美しい景色だ。ハリーの呟きにナナフシがさざめくように笑った気がしたが、それはハリーの勘違いかもしれない。柳のように垂れた触覚がハリーの目の前でさらさらと揺れている。

「それはおまえが一度すべてを忘れてしまったからだ。私がかつて話したことを覚えているか? ここはおまえの瞼の裏、おまえの取り込んだ世界だ」

 その声がどうしようもなく悲しげなのも、たぶんハリーの気のせいだった。

「じゃあ……ここはペイルだって言うのか?」
「厳密には違う。ここはまだおまえのものだ」
「どうしてあんたがここにいる?」
「おまえが私を呼び出した。おまえが理由を知っているはずだ」

 最近は問いかけられてばかりだ。しかも、どうしようもない自分のことを。ハリーはナナフシの複眼をただ見つめた。

 答えを知っている、という閃きがハリーの頭の中を通り抜けていく。眠る前の自問自答、それからナナフシ自身が語ったこと。「おまえは私たちすべてを消し去り、ただの無に変えてしまう」 ――ハリーが見つけた、己とは全く違う存在の象徴。ペイルに殺される生き物。

 唇が戦慄いて、ハリーは息を吐き出す。

「……わからない」

 自分で自分に囁く。これは答えを知っている人間の返事だ。それでもハリーはそう言うしかない。

「そうか。何にせよ、私はもう行こう」

 その声を最後に、ナナフシの姿は解けるように消えた。そうして暗転。ハリーは暗闇に落ちていく。そこで「概念化」の声を聞いた。

「やあ、ハリーボーイ。不実な捜査官」

 ハリーは暗闇に問いかける。

――あそこは何だ?」

 スキルの声が戻っているようだった。いつもの暗闇だった。目を閉じるたびに訪れる、自分自身との対話の時間。

「おまえが察したとおりだよ。あそこは『記憶の保管庫、これからペイルになる過去』 つまり夢だ」
「どうしてそんなものを見る?」
「おまえが考えたからさ」
「何を?」
「さてね。おまえが過去が好きだから?」

 何かをつかみ損ねた感覚がしたが、それよりも「内陸帝国」が出張ってくるのが早かった。

「ええ、あなたさまは過去が好きです。あなたさまは過去からできている」

 そこからはもう滅茶苦茶だった。いつの間にか「論理」が参戦している。

「間違いないな。おまえは過去が好き。おまえは過去からできていて、おまえは自分が好きだ」

 「電気化学」がにやにや笑いの思い浮かぶ、歌うような声で言う。

「アイラブミー、ベイベー。ディスコの寵児」
「いや、違う」
「違わないさ。おまえはそうなりたいんだ。そうでなかったらどうしてあんな『表情』をしていた?」

 ハリーは漆黒に対して主張する。

「『なりたい』なら、違うということだ」
「おや、そうだ。それならこういうのはどうだ? 『ディスコの寵児のつもりでいた』」

 埒が明かない。スキルたちはこの『記憶』に対して無力なのか、ハリーがスキルを使いこなせていないのか、どこかで何かを捉え損ねたのか。ハリーはぼんやりとスキルの声から意識を逸らし、そうして本当の闇が訪れた。



 次に目に入ったのは自宅の天井だった。ハリーは二度、三度と瞬いてそれが「現実」の天井だと確かめる。くたびれたモルタルに前の住人が適当に塗料を擦り付けた痕が残る、しみったれたハリーの部屋の天井だ。

 ハリーはのっそりと体を起こした。寝る前の状況を覚えていないが、朝日が破れたカーテンから差し込んでいる。恐らくは午前七時三十分だった。

 部屋は昨日見た通り散らかっている。朝の白い光が部屋の隅々まで照らし、その汚れを、かつてのハリーの怠慢を明らかにしていた。ベッド脇に丸まったシャツは吐瀉物か何かを拭いたのか汚れている。床の一部は長い間水濡れを放置されたのかニスが剥がれてからからと乾燥した様子だ。ダイニングの椅子の一脚は脚が折れて窓際に横たわっている。朝日が差し込む窓自体が曇っている。

 ハリーは確かに過去からできていて、過去が充満する部屋に住んでいた。

 ハリーは細く息を吐く。四十一分署のラザレスはハリーに一週間の傷病休暇を与えたが、正直なところすることがない。この部屋に長居するくらいなら痛みを我慢してでも出かけた方がまだ精神衛生にいい気がした。寝床があることがわかったならいくらでも外にいられる。

 それでハリーは身支度を整えた。ディスコブレザーとフレアカットパンツ。燃えてしまったネクタイの代わりは思いつかないままブレザーの胸元は空白で、その代わりにシャツはどこかで見つけたぴかぴかの新品。そうしてバスルームの割れた鏡の前に立つと、陰気な中年の姿が目に入る。

 アルコールをやめてまだ一週間。顔の腫れと目の充血は引いてきたが、不健康な雰囲気はいまだ漂っている。表情だけでも明るくできないかと考えたが、またあの『表情』を作ってしまいそうで試すことはできなかった。

 割れた鏡に苦労しながら髭を剃って、それから顔を出した四十一分署で、ジャンはハリーの顔を見るなり眉を顰める。

「あんた、ネクタイはどうしたんだ」
「死んだよ。燃えたんだ」

 ハリーが最初に持っていた服のうちで、替えが効かないのはあれだけだった。スピリット爆弾の導火線になって死んでいった、炎に纏わりつかれて輝く美しいネクタイの姿を脳裏に描く。

 ジャンは何を言っていいのかわからないという顔をした。恐らくは目の前にいるのが狂人だと再認識したのだろう。

「ご愁傷様?」
「どうもご丁寧に……?」

 ハリーとてお悔やみに対する正当な返事を知らなかった。会話は二人の間を中途半端に彷徨い、気を取り直すようにジャンが片足に重心を異動させる。

 二人がいるのは四十一分署のオフィスのうちのCウィングの島だった。ハリーはマルティネーズから戻ってから一度ここに顔を出している。ハリーのスキルが囁いたとおり四十一分署は製糸工場の姿をしていて、天井が高く開放的だ。そのせいで照明がいまいち周囲を照らし切れておらず、あちこちのデスクでは朝からデスクライトが点いている。聞いていた通りの、てかてかとした緑色のデスクライトだ。ハリーのデスクは一目でわかって、デスクライトに大量のクリップや輪ゴムが引っ付いていて、書類が山のように積まれている。そこに座ろうとするのを妨げるように、ジャンは自分の席から立ってハリーの進路を塞いでいた。

「それで、どうしてここにいるんだ?」
「元気になったんだ」

 ハリーは言い渡された傷病休暇を無視する言い訳を何も思いつかないままここへ来てしまった。ぎこちなく足を引きずりながらここまで来たくせに真顔で言い切るハリーに、ジャンはただ鼻を鳴らすだけで終わった。

「運がいいのか悪いのか」
「どういう意味だ?」
「もう雑誌の取材が来た」
「何の?」
「何の? ナナフシのだよ。あんたは休んでるって断ろうと思っていたんだが……」

 ジャンは明らかにこの問題を持て余しているようだった。米神を揉みながらハリーを見つめくる。

「問題があるのか?」
「あんたの状態。それからこっちの方針」
「方針?」
「トラントが自然保護を優先させるべきだと。センセーショナルな書き出しで人々をマルティネーズに向かわることは避けたい」
「来るのか? 人が?」
「来るだろう」
「それで何をするんだ?」
「さあ? 嫌な想像ならいくらでもできる」

 ナナフシはいた、写真もある。真実は発見されたのだ。三百年前にトウゾクカモメが撃ち落されたように。いままで未知動物学者を笑っていたような人々がそれ以上の何を求めるのだろう。

 発見者の傲慢として疑問に思うハリーに「悪寒」のスキルがそっと囁く。「――死体だろう」 背筋を駆け上る悪寒を無視して、ハリーはジャンの声に意識を集中する。

「いまのうちに方針を固めておきたい。あんたには常識ってものがないからな」
「それの何が問題なんだ?」
「ほら、そうなるから問題なんだ。探偵の神。いの一番に取材を申し込むような雑誌の記者ならあんたの供述に嬉々として食いつくだろうがな、あんたが真実を語っているのかでたらめを語っているのか一般人には知りようがない」

 ジャンはいらいらと首を振った。棘のある言い方にハリーの脳内で何かが過る。

「あんた、自分が嫌いか?」

 考えるより先に飛び出した言葉にただジャンは顔を顰める。

「今度は何だ?」
「自分が俺についていけないことを惨めに感じている?」
「いいや」

 素早い返事だった。彼はもう一度重心を異動させて、片目を眇めてハリーを眺める。

「いいや、ハリー。そんな段階はもう過ぎた」
「じゃあ、いまはどんな段階だ?」
「もう段階はない。トラント!」

 遠くに見えるトラントを呼び寄せるように手を上げて、ジャンはこの話をおしまいにした。ちょうど鞄を片手に登庁してきたトラントが、ハリーを見て爽やかに微笑む。

「おはよう。怪我はいいのかな?」
「よくない。こいつが勝手に出てきやがったんだ」
「でも、暇なんだ」

 トラントはどっちに加勢するともいわずにその諍いをやり過ごした。

「それで、どうしたんだい?」
「もう取材が来た。ナナフシの件だ。誌名が……」

 ハリーはこっそりと自分のデスクに座り、取材に備えて髪を整え髭を弄る。ジャンはそれを苛立った様子で横目で見ていたが、トラントは取材を受けさせることに乗り気のようでハリーは時々彼を後方から支援した。

「これでも怪我人だ。三十分。それ以上の取材はなしだ。それなら変な風に話が飛ぶこともないだろう」

 ジャンがそう言い切って話は決着して、既に待っているという記者のために会議室へと向かう。その背後から声を掛けられた。

「ネクタイはどうする?」
「ネクタイがどうかしたか?」
「必要じゃないか?」

 ハリーは自分の胸元を見た。白いシャツは下腹が出ているのがよく見える。確かに何か物足りない風だが、しかし――

「代わりのネクタイなんていないだろう」

 ハリーがそう言うとジャンは自分の黒いネクタイを見下ろして、それからトラントのビジネスマン風のネクタイを見て、ただ息を吐いた。

「好きにしろ」

 会議室で待っていた記者は見たところジャンが危惧するような風変りさは見えなかった。ごく普通のスーツとごく普通のネクタイの、三十半ばの黒髪に黒い肌をした穏やかな男がハリーを見つけてにこやかに笑いかける。

「やあ、世紀の大発見者だ!」

 握手をして、差し出された名刺を受け取る。ハリーはどうしたらいいかわからずにとりあえずバッジを見せた。まだ髪も短く髭もないバッジのなかの写真に、男は「いまのほうがロックですね」とまた笑う。よく笑う男だ。ハリーがそう感じる一方で脳内のジャンはため息をついている。

 記者はハリーの悲惨な顔も怪我による影響だと思うことにしたらしく、ハリーをまっとうな警察として扱った。発見状況、レナたちの話、どうやってナナフシと触れ合ったかを話すと記者は興奮したように頷く。「それで……?」 と問われてハリーはどうしようかしばし悩んだ。

 ナナフシとの会話を話すか、話すまいか。

 脳裏に過ったのはナナフシの声に気づかないキムの様子で、この会話がハリーにしか齎されないものだと思うと未知動物学者たちを無駄に期待させるのも忍びない。ただ、一方で「悪寒」の囁きを思い出すとできるだけナナフシが殺されないようにしてやりたい。

 ハリーはできる限りを誤魔化して観察の結果としてナナフシを語ることを決めた。漁村でのジャンの反応やトラントの知識を思い浮かべながらハリーはナナフシの生態を説明する。本当は直接教えてもらった、ナナフシは対話可能な存在なのだと語ってもよかったのだが、そうなると中身はペイルの話と別れ際の「背を向けてまえに進むんだ」という言葉になってしまう。流石にそれが個人間の会話だという認識はあった。

 ハリーは足の痛みも忘れて約束の時間の倍以上をかけて話をした。話し終えたときには、二人ともが疲れて深く息を吐いた。

「長い記事になりそうだ」

 そう語る記者は、ふと思いついたようにハリーを指さした。

「そのジャケットは写真のものと同じですよね」
「この服一式がそうだ」

 記者は破顔する。

「それはいい! ぜひあなたの正面からの写真を撮らせていただきたいんです。あの写真の、裏側からの姿として」

 まずいこともないだろうとハリーは頷き、カメラを構える記者の前に立つ。カメラはキムが構えたものよりずっと大きく、黒くぴかぴかと輝いていた。キムが見たら嫉妬するだろうとハリーは思う。

 そのぼんやりとした思考を記者の声が切り裂いた。

「笑って!」

 ハリーは咄嗟に口角が持ち上がり表情筋が引き攣るのを感じた。あの『表情』に違いない。

 その引き攣りが恐怖に代わる前に、カメラのフラッシュがハリーの目を焼いた。



 どうやって記者と別れたのかハリーはよく覚えていない。ジャンは取材を終え会議室から戻ったハリーを一目見ると「酷い顔色だ」と言った。ハリー自身にもその自覚があったが、ジャンはそれを怪我のせいだと考えているようだった。自分のデスクを立ち上がって近づいてくる。遠目にトラントやジュディットの心配そうな眼差しと、トルソーとマクレーンの冷やかし染みたにやにや笑いを見た。

「家へ帰った方がいい」
「家へ?」

 ハリーは心の底から衝撃を受けてそう言った。家へ? あの過去が山のように積まれた家へ?

「ほかにどこがあるっていうんだ?」

 あそこ以外ならどこでも。ハリーはそう答えようとジャンを見つめ返し、それから開いた口を閉じた。

 あそこ以外ならどこでも。あの過去さえ振り切れるなら何だって――

 脳裏の閃きに従い、ハリーはもう一度別の言葉のために口を開いた。

「あんたは俺にキムを相棒にしてほしいと思っている。そうすれば――

 ひとつ息を吸う。

「そうすれば、あんたのなかの俺が死ぬからだ」

 脳裏を過るのは過ぎ去った女だ。ドーラ。その名前を口にしようとするたびに、律儀に口元は戦慄いてしまう。過ぎ去ったものはいつだってそうだ。

「俺は永遠にあんたの相棒の座を去り、戻ることがない。それであんたは安心して俺を憎むことができる。あんたは進んで俺を過去にしようとしている」

 過ぎ去ったものは永久に手に入らないという事実だけで美しくなる。そうやってハリーは彼の中で記憶の結晶になる。それでゆっくりと死んでいく。

「違うか?」

 ハリーがぐいと顎を上げてジャンを睥睨するのに、彼は片目を眇めることで対抗した。遠くのデスクのトーソンの口笛を、聞かなかったふりをして固く唇を引き結ぶ。

 それからため息。

「あんたはこんな話ができる状況じゃない。家が駄目なら仮眠室で寝てろ」

 ジャンが有無を言わさずに歩きだすので、仕方なしにハリーもついて歩く。コーヒーコーナーを通り過ぎ、人通りの少ない北側の廊下をどんどんと歩く。シャワー室と喫煙室を過ぎたところで立ち止まると、短く「仮眠室だ」と告げられた。

 何の文字も書かれていないドアがそこにはある。ドアのすぐ横には中の見取り図が描かれたホワイトボードが置かれており、使用者は自分が使うベッドにマグネットを置く決まりになっているのだと「団結心」が教えてくれる。昼の中途半端な時間のせいか、マグネットはホワイトボードの右下に並んでおりブース内に置かれたものはない。

「あんたのブースは入って右手前だ」
「ひとりひとりにベッドがあるのか?」

 そう聞くとジャンは鼻を鳴らした。

「まさか。あんただけだ。あんたが捜査に熱心だった頃、署に泊まり込むことも多かった。あんたがずっとそこを使っていたんで暗黙の了解でそうなっている。もっとも、最後のほうは進んで私物化しているようだったが」

 ハリーがそのブースを覗き込むと、確かに自分の痕跡が残っているようだった。本来眠るときだけ使用者が用意するはずの枕カバーが掛けっぱなしになっていて、枕元のライト――緑色で、明らかにデスクライトの流用品――の下には私物らしい時計とメモ帳が置かれている。ブースの壁にはまだ二月のカレンダーが掛けられていて、いくつかの日付に細かい書き込みがしてあった。

「ほら、ここで寝てろよ」

 ジャンは羊でも追い立てるようにハリーをブースへ押し込んだ。流されるようにベッドに座り込んで、ハリーはジャンの鋭い顎を見上げた。

「なあ、俺が死んだら満足か?」

 ハリーの頭の中には燃え盛るネクタイがいる。

 ああするしかなかったのだとハリーは知っていた。ネクタイは燃えるしかなかったのだ。ドーラの時代が過ぎ去った後の、酒とディスコと薬物の時代。それを象徴する様々な色の交じった趣味の悪いネクタイ。ハリーは確かに彼と一時代を築いたが、それを捨て去ろうというのならネクタイは燃えるしかなかった。

 しかし――本当に燃えるべきはハリーだったのではないのか? そう望んでいたのは? 自分はどうして記憶喪失になったのだった?

「ふざけるな」

 ハリーの夢想を低い声がぶった切った。

「それはこっちの台詞だ。俺がまだここにいるのが不満か? 俺があんたの目の前で焼身自殺すれば満足か?」

 低い声は彼の理性と抑圧の証拠だった。ジャンは押し殺した声で続ける。

「あんたの邪魔になっているのは俺の方だろう」

 彼は常に悔しさに苛まれてきた。「共感」のスキルがそっと囁く。彼はおまえの衛星で、いつだっておまえの存在が先に立つ。しかしおまえは彼を邪魔者扱いしてきた。憧れは死に、疲労が募る。

 ハリーは自分自身に尋ねる。なぜ?

 本当に邪魔だったからだ。自分の中の誰かが答えた。彼はおまえの良心であり理性だった。おまえはその向こう側へ行きたかった。

 その「向こう側」は「いま」ということか? ハリーは身の内に問いかけたが返事は帰ってこない。

 向こう側。ハリーはその言葉を考える。記憶喪失以後、死にかけるような目には遭ったが、進んでそこに行こうと考えたことはない。かつてのハリーは悪趣味な自殺ジョークを口にしていたと言うが、いまのハリーは疲れてはいてもまだ何かを探している。

 いま、ハリーの向こう岸にいるのはジャンだ。彼はどんな人間だ? 捜査官のハリーが彼の灰色の瞳の内側を探る。

 悲しい男がハリーを見つめ返した。

――死ぬことを考えたことがあるか?」

 その目を見ると、自然と言葉がこぼれた。深刻な言葉に相応しい誠実な沈黙が場に落ちる。

――常に。あんたは忘れてるのかもしれないが、俺は鬱病なんだ」
「なぜ?」
「さあ? そういう性格なんだろう」

 ジャンの言葉は軽い。すっと視線を逸らしたその横顔を見つめていると、「共感」と「団結心」が同じような囁きをもたらした。――彼は、いつかおまえのために死ねると思っていた。あるいは死にたいと。

「よくはならないのか? 俺はあんたが死ぬのを見たくないかもしれない」

 ハリーはその囁きを処理しきれないまま、馬鹿みたいに問いかける。

「残念ながら。ハリー」

 ジャンは短く答えて踵を返す。ハリーは閉まった扉をただ眺めるとごろりとベッドに横になった。シーツからは馴染んだ自分の臭いがした。



 また同じ夢だった。白い靄の世界。ハリーはその靄に目を凝らすようにしてぽつりと語る。

「どうして俺がナナフシを呼び出したのかを知っている」

 それからマルティネーズの街を思い浮かべた。昨晩ナナフシが歩いたのと同じマルティネーズの街。ハリーの記憶の中の生まれ故郷。

 想像した途端、ハリーはワーリング・イン・ラグスの一○一号室に立っていた。破れた窓、遠い潮騒と階下の騒音、転がる酒瓶、バスルームの湿気た空気と酒の匂いが空気に満ちていて、ベッドのシーツは皺くちゃで半分取れかかっている――ガルデが掃除する前、ハリーが破壊したとおりの姿で部屋はそこにある。なぜならこれは過去だから。

 それからハリーは扉を開けて外へと歩いた。

 外には人ひとり見当たらない。ハリーは一階へ降りると無人のカウンターと客席の間を通り過ぎ、ワーリング・イン・ラグスの外へ出る。人がいないのはハリーが呼び出さないせいだ。誰かの名前を呼べばその人物がここの現れると知っているのに誰の名前も呼びたくなかった。

 建物を出ると南へ下って砲撃痕と質屋を横目に水門を渡り、漁村へと辿り着く。少しずつハリーの記憶が曖昧になっているせいか、ワーリング・イン・ラグスの扉も、鳥の巣の外観も、街の色合いも曖昧にぼやけている。それなのにハリーだけが確固たる輪郭を持って存在している。

 漁村は土と葦と、ところどころで土砂の浸食に負けたコンクリートで覆われている。ハリーは数軒の家を通り過ぎて、リリエンヌの立っていた桟橋へと向かう。

 そこにはかつてと同じようにぴかぴかと輝く黄色い小舟が待っていて、ハリーはそれに乗り込んで海の要塞へと向かった。

 舟はひとりでに流れるように進んでいく。今度はサッドFMは流さずに、ただ波とカモメの音に耳を澄ます。教会の裏手を通り過ぎ、フェルドの建物がどんどんと小さくなっていく。澪標の脇をすべるように通り過ぎ、そして要塞に辿り着く。

 ハリーは錆びた階段をこつこつと上り、要塞に入った。

 かつての夢と同じように、ただし、今度は夢とは反対方向に、脱走兵のいた側へと降りていく。

 この先に何があるのか知っている。ハリーが目覚めて最初の日、裏庭で一体何を見たか。

「俺がナナフシを殺すからだ」

 これはハリーの夢だ。しかし、いずれ起こる未来でもある。ナナフシが葦の原に横たわって死んでいた。

 ハリーはごくりと唾を飲み込み、倒れた細い体に近づいた。

 ハリーはナナフシの体をなぞるようにゆっくりとナナフシの体に沿って歩く。

 こうして横たわっていると、ナナフシは何か遊具や、建築途中の建材のように見えた。枝のような脚のうちの一本が宙に浮かび、長い触角は垂れ下がって海に沈んでいる。

 実際はこうはならないと、現実のハリーのスキルなら言うだろう。彼らはペイルに飲み込まれるのだと。しかしハリーはどちらにせよ、と思う。

 ペイルに殺されないのなら、ナナフシを殺すのは人間だ。つまり、ハリーを起点とした人間の行いだという確信がある。

 インスリンデナナフシの写真を撮ったことを後悔するつもりはない。あれを二人の見た夢にしないために必要だった。けれど、その結果はどうなる?

 研究者は大挙してマルティネーズの浜辺を探すだろう。すでに取材の記者が来た。トラントは、ほかの雑誌や新聞も取材に来るだろうと言っていた。ナナフシは見つかるだろうか。あるいは逃げ延びるだろうか。四度の政権転覆を生き延び革命すらを知っているのなら、ナナフシにはハリーの知らない生きる術があると思っていいのだろうか。自然保護区が成立して、それで安心していられるだろうか。

 どちらにせよ、だ。ハリーの行いがナナフシを殺す。

 昨日ナナフシに問われたことを思い出す。なぜナナフシが最初から記憶の中にいたのか? 答えは、ハリーがナナフシ見つめ、彼女を瞼の裏に追いやったから。

 ハリーの口がわずかに戦慄いて言葉を探す。何かが見つかる前に、ぷつりと視界が黒に染まった。

「一体おまえは何がしたいんだ?」

 そう尋ねるのは「意志力」だ。

「前に進めと言われたのに、ぐちぐちと後ろを向いてばかり」

 ハリーは逆に問い返した。まるきり子どもの反発のようだ。

「前ってどこだ? 何をすることだ? 新しいネクタイを買うことか? 新しい相棒を手にすることか? そしてそいつらを駄目にすることか?」
「駄目にする自信があるのか?」

 「共感」が問いかける。

「違うのか? ドーラが去り、ネクタイが去り、次はキムの番か? そしてキムもいつかは去っていく。前ってそういうことだろう。過去に背中を向けるって。それでも、逃げても逃げても背中から過去は追いかけてくる」

 ハリーは少なからずジャンを駄目にした。ハリーの表情筋は未だあの『表情』を忘れていない。

「それとも――

 思慮深げなのは「概念化」だ。

「あるいは前を向くというのはそういう営みなのか? 「前」を手に入れては後ろに放り投げるような?」

 「百科事典」は苛々としている。

「分からないことを問うのは無駄だ。こいつは記憶を失っているんだからな」
「しかし、それはやってみない言い訳にはならないだろう」

 「意志力」は主張し、ハリーはそれに反駁する。

「でも、何を?」

 そして暗転。



 仮眠室は薄暗く、ハリーはいっときいまが何時なのかが分からなかった。枕元の時計を手探りで探して、いまが夕方の六時過ぎだということを知る。それから仮眠室の塞がれた窓から漏れる茜色に気づいた。昼間の中途半端な時間に眠ったせいで、午前七時三十分の誓いは果たされなかったらしい。

「サンセットだ」

 ハリーはぽつりと呟く。それからそっと仮眠室を抜け出した。



 ジャムロックの景色はすべてが懐かしく、すべてが目新しい。ハリーは夕暮れのジャムロックの街を彷徨う。

 ちょうど陽が落ちる時間帯だった。名残の陽の温かさが街角のコンクリートでできた建物を照らし、夜の冷たい風が通りを吹き抜けていく。ハリーはその風と同化したように通りから通りへとさ迷い歩いた。

 大通りの車道が排水のために道路を傾斜させている。ようやくわずかに芽を出し始めた街路樹の冬木。歩道に描かれた肺の絵の落書き。古いカフェが入っている建物の壁の赤と鎧戸の緑色の対比。色鮮やかなペンキで塗られた板葺きの家。

 マルティネーズと同じくらい古く、しかし猥雑な街並みだ。

 人々は一日の仕事を終えて足早に帰路につき、あるいは歓楽街へ繰り出してゆく。

 その中を一人歩くことを寂しいと思う心はハリーにはなかった。かつてのハリーならば捜査に邁進しつつも失われた家庭について嘆いて見せただろう。しかしいまのハリーにその暖かな部屋の記憶はない。ハリーに思い返す記憶はなく、風に背を押されるようにして歩きながらどこかの家のリビングを想像することしかできない。

 明るい色の板張りの床、メッシナの伝統柄という触れ込みの赤いラグが敷かれていて、ソファはきれいな黄緑色。ラジオでは男の歌手が失われた青春を歌い、暖かなブランケットを膝にかけて今日一日の出来事を話す――しかし、一体誰が?

 誰でもない。あるいは、ハリー以外のすべての人。

 街はまさしくハリーのものだった。そこは誰のものでもあり、誰のものでもない。家でない場所。暖かな家でない場所。寒々しい家でない場所。すべての人の場所。

 とある広場では荷台に大量の荷物を積んだ自転車を押す浮浪者がいた。毛だらけの帽子とマフラーの中に埋まった顔は垢のせいで色濃く見える、しかしそれでも蒼褪めて見えた。周囲の人間は彼が見えないように振る舞いながらも、しっかりと彼を避けて歩いている。浮浪者は別段それを不満とも思わずにただ歩みを続けている。ハリーは遠目でその様子を眺めた。近づくのが嫌だとは思わなかったが、近づかなくても彼のことがわかっていた。彼はこれから三ブロック先、小さな川沿いの廃屋で夜を超す。そこは最近別の浮浪者が教えてくれた屋根のある場所で、それ以前は彼は橋の下、段ボールの中で夜を越していた。今日は空き缶を拾って金に換えた帰りで、その金で彼は今日の夕飯と明日の朝飯を賄うつもりだ。それ以降のことは彼には分からない。

 またある路地裏では女が一人立ち尽くしている。体を売ろうと思ってきたのだが、そのために何をすればいいのかすらわからない女だ。家族が経営している服飾の会社が長年の放漫経営により破綻し、突然食うに困ってしまった。借金取りの言うことを幼い妹たちに聞かせまいとしてきたが、彼女自身は借金取りの言うことを真に受けてここまで来てしまった。

 また別の広場には印刷会社の事務の仕事を終え家路を急ぐ女がいる。夕食は家にいる夫の母が用意してくれる手筈なのだが、最近交友関係が広がった息子がそれに合わせて帰宅してくれるか心配している。義理の母は食事を抜かれると不機嫌になるのだ。夫はそれに対して何も言わない。夜勤で疲れていると言ってばかりだ。

 ハリーはそこまで読み取ると彼らから目を背けた。そうして何物でもない人間に戻り、また歩き始める。そうしなければ、自分は彼らと同化してしまうような気がした。

 捜査官でない自分はどうなっていただろうとハリーは考える。あの朝キニーマのエンジン音が聞こえず、キムが握手のために手を差し伸べなかったのなら。マルティネーズで生まれた自分は真っ先に捜査官の身分を与えられて、それに引き摺られてここまで来てしまった。けれどそれ以外の自分と言うのはどこにあるのだろう。いまハリーにできること、やりたいことは何もない。もしくは――元から捜査官以外の自分などと言うものは持っていなかったのか。だからドーラにも捨てられたのか。ディスコブレザー、フレアカットパンツ、ヘビ革の緑色の靴。自分が最初から持っていたものはそれだけだ。

 ディスコスタイル。

 かつてのハリーはディスコに熱中していたのだという。確かにそれが何かいいもののような気はしている。だけどそれが一体何だったのか、いまの自分は語れるだろうか。ディスコ・エリジウムを名づけはしたが、ディスコというものはあれで合っているだろうか。

 ハリーは脳内に白い靄を思い浮かべ、それからディスコを想像する。ミラーボールがきっとある。それから色とりどりの交差するライト。壁は黒で、端にはきっとバーカウンターがある。反対側には一段高くなったフロアがあって、そこにギヨーム・ル・ミリョンが――

 ハリーはギヨーム・ル・ミリョンの姿を知らない。覚えていなかった。

 いつの間にか架空のディスコは現実の廃教会、ディスコ・エリジウムへと変わっていた。古びた床、高い天井と埃っぽい桟。一段高くなっているのは説教台があっただろう部分。地面のライトをステンドグラスがきらきらと反射していて――それは現実のディスコだった。決して、どこにもない架空のディスコではなく。

「は――

 ハリーは息を吐き、そして空を見上げる。いつの間にか陽も落ちきって、空は藍色をしている。星々がネオンサインに負けながらもぽつぽつと輝き、その下にハリーは一人立っている。

 ハリーが立っていた。ほかの誰でもないハリーが。

 ふと寒さを感じて、ハリーは背を丸めて意味もなく腕をさすった。随分長いこと街を歩いていたようだった。体が冷え、太ももがぴりぴりと痺れるように痛んでいることにハリーはここでようやく気がついた。流石に足もだるく、足の裏からは石畳の固い感触が伝わってくる。ハリーの朧げな記憶によるとここはジャムロックの外れ、ハリーの家から四キロ離れた地点のようで、ハリーは深く絶望のため息をついた。

 いまやすべての場所がハリーの家以外の場所であり、街全体がハリーを疎外しているかのようだった。このブロックはハリーの住むブロックではない。この家もハリーの家ではない。この食料品店も、薬局も、バーですら、ハリーのものではなかった。

 ハリーは足を動かすたびに一歩、と思い、それから家路までの残りの距離を思う。集合住宅の階数をむやみに数えてはここは自分のアパートではないと思い、石畳の色を見てはここは近所の歩道と石が違うと思う。

 どうしたのだろう? ジャムロック歩きはどこへ行ったのだ? ハリーは今や草臥れて遠い家路を急ぐ中年の男だった。あの散らかった、手入れの行き届いていない寝るためだけの部屋だけがハリーの居場所であり、ハリーはただそれを心中に思い浮かべ、その引力に引き寄せられるように一歩一歩を歩くことしかできなかった。



 そうして辿り着いた部屋は、当たり前だが出ていったときと同じ姿をしていた。埃っぽい空気、冷えたキッチン、ダイニングテーブルには酒瓶が置かれていた跡が丸い輪染みになって残っている。バスルームは散らかっている。バスタブには湯垢が赤く残り、シャワーのために湯を流すと排水口から水が溢れる。

 しかしそれで十分だった。これがいまのハリーであり、いまのハリーに相応しい部屋はここしかなかった。この、灰色の壁をした四階建ての、築四十年のアパートの二〇四号室、工事監督の男の部屋と飲食店の店員の男の部屋に挟まれた、労働者階級に相応しい草臥れた部屋がハリーの部屋だった。

 ハリーは凍える手で玄関の鍵を開けるとよぼよぼとベッドへと歩み寄り、皺のよったシーツと毛玉の浮いた枕に飛び込んだ。

 待ち望んだベッドだった。



 白い靄の世界でハリーは唱える。

「俺の部屋」

 ハリーは荒れた自分の部屋――酒を捨てて以来一度も立ち入っていないキッチン、食事以外のものがテーブルに山と積まれ、椅子が一脚窓際に放られているダイニング、それから皺くちゃのシーツの敷かれたベッド、破れたカーテンや、そのほかのしようもない痕跡たち――を眺め、それから目を閉じた。

「どうしたんです? マルティネーズはやめたのか?」

 暗闇の中で「内陸帝国」が尋ねた。「つまらない男だな」と愚痴るのは「電気化学」だ。

「過去から『背を向けた』んだよ、文字通り」

 ハリーはただそう答える。

「どうして?」
「俺が存在しているから」

 「肉体装置」が笑い、「耐久力」がため息をついた。

「そうだな。おまえは生きて存在している」
「そして風邪をひく三時間前だ」

 ハリーは彼らに宣言した。

「俺は生きている。これから生活をするんだ」
「生活? 人生ではなく?」

 「意志力」が尋ねるのに、ハリーは言う。

「生活さ。とりあえず、明日は風邪薬を買いに行く」

 そして再び目を閉じると、分かり切った七時半がやってくる。



 関節の節々に痛みを感じながらハリーが起き上がると、破れたカーテンから差し込んだ光が目を焼いた。

「くそったれ」

 ハリーは毒づいて、のっそりと足を床に下ろす。熱があるのは分かるが、それが何度なのかはわからない。誰か知っているか、と自分の中に問いかけたが、答えは「高熱」の一言だった。

「寒気がする」

 呟くと、丁寧に「痛みの閾値」が「これからまだ熱が上がるぞ」と教えてくれる。ハリーはのそのそとキッチンまで歩くとグラスに水を注いだ。

 塩素のにおいの強い冷たい水がハリーの腫れた喉を滑り落ちていく。その心地よさに一息ついて、さあ薬を買いに行こうと玄関を開けた。



 そして待ち受ける黒い制服を見た。

「どうして」

 これはどちらの台詞だっただろう。ジャン・ヴィクマールがハリーの部屋の玄関前に立っている。

「どうして見捨てられないんだろうなあ」

 これは間違いなくジャンの台詞だった。目を細めてハリーを見つめている。よく見れば彼の右手には煙草があり、足元には灰が山を作っている。十分以上前からここで待っていたらしかった。

「どうしてここにいるんだ?」

 これはハリーの台詞だった。本当にわからなくて問いかけたのに、ジャンは分かっているだろうとでもいうように息を吐く。

「ほら、行こう」
「待ってくれ、熱があるんだ」
「ならなおさらだ」
「どういう意味だ?」

 ジャンは答えずに歩き始める。つられて後をつけ始めたところでハリーはいまさら自分が昨日から服を着替えていないことが気になった。

 黙って歩くジャンの後ろを、ハリーも黙ってついて歩く。集合住宅の階段を下りて、昨日の朝は四十一分署に向かうためにここから大通りへ出てバスに乗ったのだが、ジャンは路上駐車の列に並ぶ青い内燃四輪車を指さした。

「乗れよ」
「どうしたんだ」
「まだしらばっくれるつもりか?」
「本気で分からない。過去の俺の余罪でも見つかったのか?」

 そう言うとジャンは噴き出して、本気でおかしいとでもいうようにけらけらと笑った。笑うと目じりに皺が寄って、それが険しい表情の中で妙に幼く見える。

 ハリーの中で「共感」のスキルが囁いた。彼はしおらしいおまえを愉快に思っている。同時に、少し寂しいとも。

「違う。どちらかというと現行犯だ。何を言ってもあんた、どうせ出歩くんだろう。それなら俺の目の届くところにいてくれたほうがマシだ」

 そう言ってジャンは四輪車のエンジンをかけた。低い重低音が周囲に響く。その響きを聞いたのは二日ぶりだったが、どうしてか懐かしい気がした。目覚めのときにも聞いたせいかもしれない。あるいは辺縁系の声を覚えているからか。地獄の内燃機関。どうしてかハリーはエンジンの音を慕わしく感じた。おそらくは、キムのトルクオタクとは少し違った意味合いで。

「あんた、朝っぱらからわざわざ四輪車を運転してここまで来たのか?」
「そうだよ。わざわざな」

 ジャンの声には柔らかい優しさが微かに見えた。

 内燃四輪車は昨日ハリーがとぼとぼと歩いた道を、昨日とは比べ物にならないスピードで逆走していく。ジャンの運転は交通マナーへの意識はあるものの車体への関心が薄く、ハリーは少しだけ冷や冷やした。これは痛みに気を取られていた先日は気づかなかった事実だ。二度目の乗車で少しだけ目が追い付いてきたのもあるかもしれない。カーブへの進入は早すぎるか遅すぎるかのどちらかで、車間距離が微妙に開いているせいでしょっちゅう横入りされる。それで相手の運転手に文句を言っているのだから世話はないとハリーは思う。



 そうして辿り着いた四十一分署で、ハリーはまたも仮眠室に押し込められた。「ラザレスから薬を貰ってくる」というジャンを呼び止めて、ハリーは問う。

「なあ、こないだの答えを教えてくれよ」

「何だ?」
「あんた、俺と相棒になりたいか?」
「いいや」
「理由は? やっぱり俺を殺したいから?」

 ジャンはブースの壁に寄りかかって腕を組んだ。防御姿勢。

「いいや。単純に、俺がもう疲れているからさ」

 ジャンはポケットから煙草の箱を取り出すと口に銜える。カーテンの引かれて薄暗い仮眠室にぽっとライターの明かりが灯るのをハリーは黙って見守った。ここは禁煙だろうと過去のハリーが囁いたが、そんなことはどうでもよいといまのハリーは黙殺する。

「俺はもう何の期待もしたくないんだ。おまえがよくなるとか悪くなるとか、そんなことが俺に影響するのは間違っている。そう思わないか?」
「それから?」
「それから?」

 ハリーは黙って顎を持ち上げて彼を見る。ジャンは苦笑した。

「それから、そうだな。あとは――キツラギ警部補がどうするか見たい」
「どうするかって?」
「俺と同じように失敗するのか、俺とは違うやり方でおまえを制御し続けるのか。まだ少し会話をしただけだが、あの人は四十一分署の誰とも似ていない。そういう人ならどうにかできるのかもしれないとも思う」
「待て、それは期待とは違うのか?」
「期待だよ」

 ジャンは吐き捨てる。

「どうしてずっとあんたを見捨てられないんだろう。あんたが出歩いて傷口が開こうが放っておけばいいんだ。それなのに心配で見に行って、馬鹿みたいだ」

 ハリーを見下ろすジャンの表情はいつの間にかいつもの険しいものに戻っている。ハリーはそれを深い喜びをもって見つめ返した。

「昨日の夜も部屋に来たのか?」
「そうだよ。くそ」

 ハリーは『表情』の一歩手前の微笑みを作った。

「俺はずっと、あんたにそうしてもらいたかった」
「あんたは最低のくそ野郎だよ」
「そうだよ。知っていただろう」

 知っている、知られている。それがぐるぐると循環して二人の間を巡った。

「なあ」

 これはハリーだ。

「ああ」

 これはジャン。

「俺はネクタイの喪に服すつもりなんだ」
「喪に?」
「そう。俺は、新しい俺に似合うネクタイを見つけるまで喪に服す。ずっとノーネクタイで過ごすんだ」
「勝手にすればいい」
「ああ、そうする」

 頷いて、ハリーはもう一度問いかける。

「なあ」
「まだあるのか?」
「あんたは俺が生まれ変わったと思うか?」
「別に、どっちでもいい」

 ジャンは静かな声でそう言った。

「どうして?」
「あんたはあんただ。ごみみたいなことをしようと、聖人みたいに振る舞おうと」
「どういう意味だ」
「言葉の通りだよ。あんたの執念深さはあんたの暴力性と紙一重だし、あんたのその閃きはあんたの繊細さの裏返しだ。片一方だけを欲しがることはできない」
「それが、あんたが俺から得た教訓か?」
「カウンセラーの言葉だよ。『極端な思考を止めましょう。物事に別の側面がないか考えてみましょう』 ペイルの果てに世界があるように、とさ」
「カウンセリングに行った?」
「そうだな。ちょうど一か月前に。明日が通院日だ」

 そう言ってジャンは笑った。今度の笑いはぎこちない、くしゃりとした笑いだ。

「俺たちの過去にいい面はあったか?」

 そう尋ねると、ジャンはふっと真顔に戻る。

「どうだろうな……もう覚えていない」
「でも、俺はそれを捨てたくないってとき、俺はどうしたらいい?」

 ハリーは子どものように尋ねる。ジャンはため息をつく。

「どうにもできない。あんたはそれに縋りついて泣くことしかできない」
「本当に?」
「ああ」

 ハリーはごろりとベッドに横になる。シーツには加齢臭が染みついていたが、それにほっとする自分がいる。自分の臭いだ。

「なあ、俺は生きているんだ」
「知っているよ」

 心配からかいらいらと足踏みをするジャンにハリーは言葉を重ねた。

「だから、どうあってもおまえと死んでやれないと思う」

 ジャンは足踏みをやめてハリーへと視線を固定した。

「おまえが俺と死にたいと思っていたとしても」

 仮眠室は薄暗かったが、カーテンの閉め切られた窓から差し込むほんの僅かな光でジャンの瞳が輝くのが見えた。

――そうだな」

 ため息。

「あんたのためなら死ねるとずっと思ってきたのに、あんたのために生きないといけないことばかりだ」
「例えば?」
「あんたのくその始末だよ」
「もうそんなことはしない」
「現にいま俺の手を煩わせてる」

 二人ともが同じタイミングでふっと笑った。

「なあ」

 ハリーはもう一度ジャンに問いかける。

「どうした?」

 答えが返ってくることに安堵して、ハリーは目を閉じる。

「俺はキムに相棒になってくれるよう頼むよ」
「ああ、それがいい」
「俺の家から酒瓶がなくなったのを見たくないか?」
「それで、茶は出るのか? 脚の折れた椅子に座るのはもう御免だぞ」
「用意する。片付けもするし掃除もする――

 そう答えたところでハリーの意識は途切れた。しばらく傍に留まっていた気配がそっと踵を返す靴音を聞いた気がしたが、これは気のせいかもしれない。



 その日、ハリーは葦の原の夢を見た。記憶をもとにした過去ではない、ただのぼんやりとしたイメージの夢だ。あるいはこれすら過去の一場面かもしれないとしても。

 べたついた風と、かすかな潮の臭い、そよそよと葦が風に靡くそこで、インスリンデナナフシがブイをおもちゃに遊んでいる。転がして、跳ね上げて、脚を乗せて――そこにハリーはいない。ハリーは決して必要なかった。

 その光景を見ていると、自然と言葉がこぼれた。

「ごめんな」

 ああ、それが最初の思いではなかったか。生きているだけで逃れようのない宿命への怯えと絶望。自分の言葉が、思考が、行動が、存在がほかの誰かを傷つけ、影響を与え続けることへの。

 しかしいままで謝ることはできなかった。ハリーは生きていて、これからも存在し続けるから。たぶん、これからも謝ることはできない。現実では。

 遠くナナフシがこちらに気が付くことはなく、ただ声だけが聞こえた。

「構わない。私はおまえに会えた」

 すぐ隣で囁くような、親密な、許しの言葉。ああ――これはハリーの夢だ。通り過ぎていく者たちからの、甘く優しい言葉。知っていながらハリーはそっと瞼を閉じた。明日の朝もきっと自分は七時半に目が覚める。そうしたらこの夢を出て、それから家を片付けるのだ。