パパ・ユーアクレイジー
ウォルターは観測者として生きることを選んだ。今までその選択を後悔したことはないし、これからもそうだ。
ウォルターの背後にウォルターの父親や、親身になってくれた教授、育った環境を見てそうせざるを得なかったのだろうと考える人間もいたが、ウォルターには選択肢があった。もちろん技研都市でコーラルを身近なものとして生まれ育った事実が芽生えさせたものはある。それでも、技研都市でのウォルターは何の義務も背負わないただの子どもだった。技研の人間は家庭が機能不全となったウォルターへ居場所を提供することはしてもコーラル関連の技術を教えることはしなかった。アイビスの火が起こったことだって知ったのは木星についてからだ。ナガイ教授はウォルターを木星へと送るときも何の説明もしなかった。これが最後とも言わずに笑って手を振っていた。
周囲の人間がウォルターへ与えたものはいいものばかりだ。整えられた部屋、おもちゃ、軽やかな挨拶と親愛の情。彼らはむしろ、ウォルターがコーラルとは無縁の健やかな生活を送ることを願った。誰一人、ウォルターの父親の具体的な所業、母親の末期、世間の批判、そんなものをウォルターに伝えはしなかった。突拍子もないおもちゃを作ってウォルターを笑わせていた女性は、「それであんたは笑えるのかい?」と険しい顔をして尋ねたし、身を寄せた木星で世話になった男は「お前が何をしようとしているかは知らんが、お前がルビコンを離れてここにいる意味を考えろ」と厳しく言った。それでもウォルターは隠されたものを欲しがった。ウォルターは友人たちが好きで、彼らと同じ場所に立ち、彼らと同じものを分かち合いたかったので。これはウォルターの自発的な意思だ。
隠されたものを知り、背負い、父や良くしてくれた人間たちを罪人と呼び、破綻に怯え、それでも後悔はしなかった。大火を逃れた技術者や研究者たちが作った結社の構成員はほとんどが年上だったので、彼らが道半ばで老い、死んで行くたびに、ウォルターは彼らの手を取り目的を果たすことを誓った。
その選択に苦痛はない。ずっと昔から、苦しくなんてない。ウォルターは疾うに一生を生きるのに十分な労りを受け取っている。ただ、今度はその優しさの背後の罪を背負う番だと言うだけだ。友人が隠していたものを分かち合うだけ。その意思がウォルターを前へと歩かせる。
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「621、お前にやろう」
ぎこちなく開いた621の手に、ウォルターは小さなケースを乗せた。621は何をするでもなく手のひらの上のものをじっと眺めている。感情の起伏に乏しい第四世代の例に漏れず、通常モードの621は自発的な反応が少ない。
渡したのはラムネの入った小さなケースだ。621が星外企業の仕事を受けて実績を積んだ結果、いくらか融通が利くようになった。その戦利品だ。封鎖機構がルビコンへの出入りに睨みを利かせ物資が不足している現状では嗜好品は希少で、大所帯で安定した輸入ルートを持っている企業からしか手に入らない報酬だ。
「ラムネだ。これならお前でも食べられるはずだ。甘いものはストレスや疲労に効く。もちろん、そうでなくとも人間の普遍的な喜びの一つだ」
「……あなたの分は」
「これは前回の仕事の報酬に融通してもらったものだ。お前に味わう権利がある。――俺もフィーカを分けてもらっている。気にするな」
普段は点滴で栄養を補給しているが、621には口も胃もある。少量なら消化に困ることもないだろう。購入してからいくらか人間の形に整えはしたが、未だぼろぼろの風体をしている強化人間にも、何か喜びがあっていいはずだ。
そうやって621のことを気遣うとき、ウォルターは自然と自分がしてもらったことを思い出す。ずっと昔、平穏な生活の中の温かい毛布だとか、こっそりとわけてもらうお菓子だとか、夜、夢うつつの中で聞く柔らかい話し声だとか、そういうものを。
621はぎこちない手つきでラムネを一粒取り出して口に含んだ。ぱちぱちと瞬く瞳が次第に丸くなり、微かに口元が綻ぶのをウォルターは見守る。
「これが甘い、でいいのか?」
「そうだ」
「……いい味だ」
「そうか」
621はもう一粒だけラムネを口に含むと、「残りは取っておく」ときっぱりと宣言した。時々不随意に震える手が、それでもしっかりとケースを握りしめている。意外にも強い感情が残っているようだった。こういう機会がなければ気づかなかっただろう。
「気に入ったのならまた融通してもらえるよう交渉しよう」
ウォルターがそういうと、621がぱっと顔をあげた。「どこの仕事を受ければいい」
「そう簡単にはいかない。菓子は輸入品だから金を出しても手に入らないこともある。ルビコンでは貴重なものだ」
「……そうか」
621が神妙に頷いたのを確認してウォルターは踵を返す。その背中に声がかかった。
「ウォルター、ありがとう」
「……元を辿ればお前の成果だ。気にするな」
ウォルターは振り返ることなく歩く。621の純粋な喜びや感謝に耐えられる気がしなかった。ウォルターが621に与える優しさは、ウォルターが友人たちから受け取り、そして差し出したいと願う愛情と似通いながらも決定的に違う。友人の苦しみを自分の苦しみとするような、友人の喜びを喜ぶような、そういう気持ちを621に対して持てないでいる。
どうして愛せないのだろう。621はよいAC乗りだ。ウォルターの持ってくる厳しい仕事をこなし、これまで無事に生還してきた。今までに扱ってきた強化人間の中でもずば抜けた腕を持っている。これなら最後まで仕事をやり遂げられる、ほかに変わりはいないと信じて賭けてすらいるのに。
答えを知っていながらの問いにウォルターは苦く笑う。そもそも621はウォルターの飼い犬で、決して友人にはならない。何の選択肢もないままウォルターの手綱に繋がれ、自らが死地に送る人間を、どうして愛することが出来るだろう。そんなものは支配者の立場を濫用した悪趣味な娯楽と変わらない。仕事が終わったなら、621を自由にしなければ。そうしたら心置きなく621の喜びを願える。自らの使命のその先を思いながら、ウォルターは歩いた。
*****
他に選択肢がなかったわけではないのだ。コーラルとは無縁の生活は、幾度となくウォルターの前に提示された。その上で選んだ。そうしなければ得られないものがあった。嫌になるような事実を山ほど知った。酷いこともたくさんした。父親の業も、世話になった教授の別れ際の晴れやかな笑顔も、今まで殺した強化人間の数も、思い返す度に心臓が締め上げられるように痛む。それでもウォルターは耐えることが出来る。621にも、そういうものがあるといい。それがウォルターが今までの人生で得た一番の贈り物なのだ。柔らかい毛布より、おもちゃより菓子より、記憶の背後でさざめく柔らかい声たちが。選ぶにしたって、選択肢が必要だ。飼い主以外の沢山の人に会い、話をし、そうして飼い犬からちゃんとした人間になればいい。
ウォルターの願いは、かつて友人たちがウォルターに向けたものによく似ている。