血は立ったまま眠っている

 普段の登庁時刻より一時間早い午前六時五十分、ジャンは静かに四十一分署の医務室のドアを開けた。昨日の夕方にも訪れたベッドのカーテンを開けると、彼の相棒が静かに眠っている。

 ジャンはそっと眠るハリーの額に手を当てた。平熱だった。

 昨日のハリーは燃えるように熱く、内側にどんな熱源があるものか不思議に思ったものだった。それなのに当の本人は寒い寒いとしきりに呟いていた。四十一分署へ戻ってすぐにハリーを医務室に連れ込んだものの、ジャンにもラザレスにもできることは多くなかった。傷にテープを張り直し、解熱鎮痛剤を与えただけだ。優秀な彼の相棒が既に弾の摘出を終えていた。

「熱があるぞ。寒いっていうなら、これからまだ上がるだろう」

 ジャンはハリーの手首で体温を測りながらそう言ったが、ハリーは黙って首を振る。

「血が燃えているんだ」

 きっと撃たれて駄目になってしまったのだろう。ハリーが履いていたのはいつものオレンジのパンツではなく、どこにでも見るようなジーンズだった。その色の濃い部分をなぞるように彼の手が動く。

「太ももが燃えている――」

 ジャンにはそれが風邪をひいたときと同じような悪寒に思えたが、本人がそう言うので黙って頷いた。

 かつてのハリーに戻ったようだと思った。酒を飲み始める少し前の、彼の名声が純粋なものだった最後の時期、彼はこんなふうに世界を表現していた。

 もしかしたらそれは彼が優秀な刑事からただの人間へ戻る変化を示していたのかもしれない。今になってジャンはそう思う。その詩的で苦痛を伴う世界がハリーにとっての真実なのだとジャンはもう思い知っている。

「燃えている。炎が」

 ジャンの手は自然と彼の肩をさすった。それはいつかの銃撃戦のあと、ハリーがジャンにしてくれたことだった。「大丈夫だ。あんたは生きている」彼は覚えていないだろうが、傷ついた相棒への慰めをジャンはそれしか知らない。あのときは、こうすれば傷が治るとでもいうように分厚い手が真剣にジャンの撃たれた腕を撫でさすっていた。その体温がどんなふうだったのかは、傷口が焼けるように痛かったせいで覚えていない。

 ハリーは髪を枕にこすりつけるようにして首を振る。

「ネクタイを燃やしてしまった。あいつは死んでしまった。燃えてしまった。炎が全部を焼き尽くす。全部。ナナフシも。俺たちだけが燃えながら生き続ける」

 混乱しているのだ。生存者としての罪悪感。あるいは殺人者としての?

 ジャンは慰めるように彼の肩をさすり続ける。

「大丈夫だ。大丈夫」

 生きていることが辛い人間に掛ける言葉は何だ? ジャンはそんな言葉が存在しないことを知っている。生きていてほしいという言葉すら重荷になる病をジャンは知っていた。

 ジャンは黙って彼の相棒である中年の男を撫でる。いつもの歪な表情も消えた、世の中に倦んだ男の張りを失った皮膚を服の下に感じながら。

「大丈夫だ、大丈夫」

 ハリーはぼんやりと潤んだ瞳でジャンを見上げた。

「俺は、燃えることでしか生きられないのか? 燃える血が全部流れ出たなら、俺たちは楽になれるか?」

 ジャンはその答えを知っていた。ハリーも知っていた。

「いいや。ハリー、苦しいだけだ。どちらにせよ」
「そうか」

 ハリーはその答えに安堵するように目を閉じた。ジャンはしばらく彼の肩に手を置いていたが、そのうち自宅へ帰るために手を離した。

 あれから鎮痛剤が効いたらしく、ハリーの寝顔は穏やかだった。ジャンは彼の額に落ちる髪をそっとすくって撫でる。彼が目覚めるまであと三十分ほど時間があった。彼は毎朝七時半に目が覚める。目覚ましがなくとも、仮眠をとっていようと。ジャンはそんなことばかり知っている。

「俺の血は燃えてなんかいない」

 静かに立ち尽くす体には眠る血が流れている。