ドラゴンは地中に眠る

ボヘミアの夏は日が長い。起きるにはまだ早い時間だと言うのに空が白み始める気配がしている。ハンスは薄暗い部屋を見つめてひとつ瞬きをした。目が覚めてしまった。

 ベッドに横になったまま、ぱちり、ぱちりと瞬きをする。そのたびに薄暗い部屋に目が慣れていく。サイドテーブルの上に置かれた包帯、壁に掛けられたワインの革袋、部屋の対角線上のベッドで眠るヘンリー。ハンスはヘンリーの胸の上下を捉えようと目を凝らすが、二人の距離はあまりに隔たっており呼吸の音も聞こえない。

 ハンスははくりと口を開け、そうして閉じる。声を上げて壊してしまうにはこの静寂はあまりに貴重なものだと理解していた。それでも寂しさが拭えず、ハンスは体を起こして床に裸の足を下ろした。そのままぺたぺたと歩き、そっとヘンリーのベッドに近づいて膝をつく。普段なら貴族らしくないと嫌うだろう行為も、夜と朝のあわい、物事の輪郭が滲む今なら自分自身に許してやれる気がした。

 近づいてみてようやくヘンリーが呼吸する音が聞こえるようになる。すうすうと掠れる空気の音、ゆるやかに上下する胸。膝をついているので目線と彼の胸の高さがほとんど同じになる。

「ヘンリー……」

 息だけの声で呼びかけても、彼が起きることはない。

 思い出すのはジシュカに言われた言葉だ。勝利に沸くスフドル砦の中、わざわざハンスを探して声をかけてきたジシュカはどこか遠い眼差しをしていた。

「戦いの後、駄目になる奴がたまにいる」

 ジシュカの低い声はハンスのプライドを通り越しても身の内に染み込むような力を持っていた。

「酒浸りになる奴、女房を殴る奴、何もないのに怯える奴……」

 城壁から望む草原はどこまでも青く牧歌的だったが、近くに目を向ければ兵士たちがあちこちで死体を漁り、穴を掘り、戦の後始末をしているのを見ることができた。隣に立つ男も同様に、寛いだ様子の裏に戦闘の疲れが見え隠れしている。

「それで、一体俺に何が言いたいんです?」
「気をつけろと言うことだ」
「何に?」
「お前自身に。あるいはヘンリーに」
「解決策もなしにそんなことを言われても困る。それに、ヘンリーに直接言ったらどうですか?」
「こういう話はお前のほうが適任だろう」
「どうして?」

 ハンスはそれを心からの疑問として尋ねた。認めるのは業腹だが、大抵の物事はヘンリーのほうが上手くこなす。貴族というプライドもなく、何かをやってみることに躊躇いがない。間違ってもハンスにだけ打ち明けるような話があるものか。

「お前のほうが分別がある」
「分別?」

 ジシュカの鋭い瞳がハンスを縫い留めた。

「お前なら、マレショフで悪魔の言うことに従っただろう?」

 怯むハンスにジシュカは少しだけ目元を和らげた。二度傷ついた左目はまだ痛々しい包帯に覆われていたが、右目には励ましを与えるような光があった。

「褒めているんだ。確かにヘンリーは逆境を切り開く力を持っているかもしれない。だが、あいつの頑なさが本人を地獄に連れて行くこともあるだろう」
「……くそっ、そうだな。そうかもしれない」

 もしもイストヴァンがあの剣もろとも地獄に落ちていたなら、ヘンリーは迷わず地獄に飛び込んだだろう。どこか横柄な倫理観と、子どものような頑なさと、決めたことをやり通す力と、そういうところが魅力的で、隙になる男だった。

 だからハンスはヘンリーが怖い。復讐を。そう語っていたヘンリーは、実際に復讐を果たしてからどこか達観した表情をするようになった。彼の少年期は終わったのだとハンスはそれで悟った。

 却ってハンスはどうだろう。結婚は勝手に決められ、相続は先延ばしにされ、貴族と謂えど貴族の役目など何一つ果たせてはいない。

「どうして……」

 どうして彼にしてやれることがないのだろう。従者としての彼の献身を受け取るだけ受け取って、自分は彼に何を返せているのか。

 ため息を吐いて彼の額に落ちた髪の毛をそっと払う。朝が近いせいで髭が伸びている。大きな瞳が閉じられているとヘンリーはまるきり大人の男に見える。それでも眠っている最中の唸り声だけが寝穢い子どものそれで、ハンスはつられるように欠伸を噛み殺した。ああ、眠い。



*****



 物語は終わっても人生は続く。夢の中、ヘンリーは父と母には会えないまま、イストヴァンやマークヴァート、エリックとはよく話をする。そうして受け入れたのはヘンリーはかつて憎んだ存在になったということだ。マークヴァートの妻や子どもはヘンリーを恨んでいるだろう。エリックは言うまでもなく。家族あるものを殺し、その恨みを一心に受ける存在になった。イストヴァンがかつて語った通り、自分たちは戦争が生んだ孤児なのだ。それは血と炎から生まれ、全てを飲み込み、そうして後には何も残さない。いつかこの連鎖は終わるのだろうか。ヘンリーがエリックを殺して。あるいはその逆で。ヘンリーが死んだら、今度は誰がエリックを恨むのだろう。父か、ハンスか。ハンスは間違いなく悲しむ。けれど彼なら恨みはしないかもしれない。彼の語った二人の騎士の物語のように悲しんで、悲しんで、悲しんで、そうして死んでしまうかもしれなくとも。それならそこで戦いの連鎖は終わる。

 そんなことは許されないな。ヘンリーはぼやけた頭で考える。ハンスが死ぬのは許されないな。だってあんなにいいやつなのに。そりゃあ高慢で、わがままで、融通が利かないところもあるけれど、それでも賢明だし、弓が上手いし、お喋りだって聞いていると楽しいし。

 それじゃあやっぱり頑張って生きないとなあ。ヘンリーの思考はそこで止まる。エリックを殺してでも、生きないとなあ。二人で。

 ハンスがヘンリーのことを大事に思ってくれているのを知っていながら、ヘンリーはなお自分のほうが彼を好いているのだと自信を持って断言できた。彼がいなかったら、ヘンリーはもっと酷い人間になっていた自信がある。復讐心しか持たない化け物になって、幽鬼のように地上を彷徨っていた自信が。そうならなかったのは、そうしなかったのは、ハンスが彼に世界を与えてくれたからだ。復讐以外の、苛立ちだとか、対抗心だとか、向上心だとか、そういうものをもう一度教えてくれたからだ。瞼の裏に血と炎に塗れたスカリッツを焼き付けながら、ヘンリーは今も立っている。

 そういえば、とヘンリーが思い出すのは地中に埋もれたドラゴンの骨だ。あんな風に怪物を埋めて、何にも見なかったふりをして、それでもやっぱり生きないとなあ、と思う。その想像と重ねるように体を丸めると、ちぢこめた腕が何かに当たる。薄く目を開くと朝の光に照らされた金髪が目に入って、ヘンリーは微笑んだ。新しい朝が来た。