あなたの息は春の息
キムはジャン・ヴィクマール警部補の態度に覚えがあった。キムだけではなく、現場仕事をしたことがあるRCMの人間なら一度は目にする感情だ。
それは大抵こんな風だ――労働者階級の夫婦。古い集合住宅に住んでいて、連れ添って数年以上が経過している。若い頃はそれなりに働き者だった夫はいつの間にか酒に酔い、自分はダメ人間だと言いふらすようになり、実際その通りになる。妻は必死に夫を励まし、懇願し、それでも段々と疲れてくる。愛情は毎日のように試され、磨り減り、希望は虚しさの別名へと変わる。彼女はもはや夫の理想の姿すら想像できない。一瞬だけ正気に戻る夫の謝罪や後悔でも埋められないほど彼女は損なわれている。ただ変質した情と習慣だけが彼女を夫の傍に留まらせる。
レヴァショールではよく見る光景だ。もしかしたらどこの世界でも。ジャンに彼女らと違うところがあるとするなら、彼はそれを自覚しており、藻掻いているというところだろう。彼にはそれなりの職があり、医療にアクセスできる金と知識がある。
「悪かった。俺たちはあんたをカウンセラーみたいに扱っている」
キムは41分署のコーヒーコーナーでジャンから淹れたてのコーヒーを受け取った。57分署と同様、41分署のコーヒーはお世辞にも美味いとは言えないが、ジャンは古いコーヒーマシンや酸化した豆との付き合い方を心得ているようだった。彼が淹れるコーヒーはいくらかマシな味がする。キムは素直に礼を言った。
「こんな職場だ。それなりのいざこざは経験済みだよ」
キムは本心からそう答えたが、ジャンは首を振った。
「これがなかったなら、あんたはもっと仕事に集中できただろう」
「ハリーがああいう人でなかったのなら、僕は41分署で働くことはなかったよ」
キムは確かに彼ら――ジャンとハリーの問題にかかずらっていると認識していたが、キムにとっては許せる範囲の手間だった。少なくともキムは職務を邪魔されたことも不当に扱われたこともなく、41分署で忙しくやりがいのある日々を送っている。論理的にもキムが二人の仲裁に入ることは妥当だと考えていた。記憶喪失後のハリーに一番詳しいのはキムだし、二人は明らかに冷静で権力のある第三者を必要としていて――それはミノー巡査では難しいことだった。
「気休めを言っているんじゃない。僕はこれについて不満に思っていることはないし、僕がそうしたいんだ」
「――ありがとう」
ようやくジャンは謝罪をやめて感謝を口にした。
「君はよくやっている。本当に嫌だと思っているなら本職のカウンセラーに引き継いでいるさ」
ジャンはほんの少しだけ表情を緩めて自分のコップに口をつけた。キムもどこを眺めるでもなく遠くを見つめながらコーヒーを啜る。
41分署は聞いていた通り製糸工場の姿をしていた。煤けた色の煉瓦の壁と、高い天井。かつては大型の機械が入っていただろう建物は間仕切りがなく見通しがいい。働いている人間の姿がよく見えた。照明のほとんどを窓からの採光に頼っているので、薄曇りの今日は建物全体が薄暗い。高い天窓から落ちる光があくせくと働く人間の小ささを際立たせている。評判通りよく言えば活気のある、悪く言えば慌ただしい署だ。
ハリーはRCMに復帰し、ジャンとのデコンプタージュを再開していた。キムも、41分署への習熟を兼ねてCウィングの立て直しに協力している。キムの目から見たハリーはマルティネーズの事件を捜査した時と同じ突飛さと熱心さを維持していた。謎の言動は変わらないが、少なくとも酒を飲んでいる場面には出くわさないし、あまり臭くもなければ皺も寄っていない――そしてそこまで奇抜でない――服装をしている。その真摯さは周囲も認めているところで、かつての彼の所業だけが彼の足を引っ張っている。
今日の二人の口論のきっかけはハリーが何気なくある地区を褒めたことだった。各々のデスクで、現場作業の間に溜まっていた書類を処理していたときだ。お前はあそこを嫌っていたよ、取り繕った場所だって、と応じたジャンは、お前もそのうちあの地区を嫌いになるさと決めつけ、そうしてお前もそうだ、今は感じが良くてもそのうち酒に逃げるようになるとヒステリックにハリーへ迫った。キムはジャンがそれ以上言葉を重ねる前に休憩を宣言し、彼の肩を叩いてコーヒーコーナーへと引っ張った。
厄介なのは、ハリーに誠意があるところだ。キムは目を細めてジャンを眺めた。マルティネーズでの初対面の時のピリピリとした雰囲気は和らいでいるが、どこかこわばった表情は染みついたように消えることがない。
ハリーはジャンの傷をそれなりに認知しているし、埋め合わせをしたいと思っている。しかし、二人の関係はもうそんな段階にはない。ハリーは彼のドロレスから学ばなかったのだろうかとキムは内心不思議に思っていた。こうなってしまった関係を続けるというのは、事故に遭った車に乗り続けるようなものだ。一度だけの、小さな事故ならいい。でも、その車は長い間ひどい扱いを受けてきた。どんなに凄腕の板金屋に頼んだどころで車体のダメージは刻みつけられて消えることはない。エンジンがイカれていないとどうして言える。しかし、ハリーがすっぱりと関係を切ることが出来る性格だったならそもそもドロレスを引きずることはなかっただろう。
ジャンがハリーを詰るのをやめられないなら、とキムは考える。二人は離れた方がいいのかもしれない。そしてそれを上申するのはキムの仕事だ。ハリーは回復に務めているしジャンはその発想を奪われているが、努力しても戻せないものに執着するのは虚しいことだ。ジャンの傷にしろ、ハリーの記憶喪失にしろ。
しかし、今のジャンにそれを提示されて受け入れるような余裕はない。
「あいつは昔から観察眼に優れていたし、口も達者で知りたいことは全部暴いてきた」
ぽつりとしたジャンの声には捨てきれない憧憬が滲んでいた。キムは喉の奥で聞いているよと伝えるだけの音を立てた。
「それで、最後のほうはうんざりするところばかり暴いてあげつらっていた。世の中とか、自分とか」
「きみとか、仕事仲間とかの?」
「ああ。だから――」
ジャンは手持ち無沙汰にマグカップを弄った。中のコーヒーがゆらゆらと揺れた。ミルクなし、砂糖が少し。
「あいつは本当に記憶をなくして、回復しようとしている。それはいいんだ。いいんだが、」
ため息。
「なにも知らないあいつならともかく、知ってしまったらまた世の中にうんざりしないかと、最近はそんなことを考える」
依存症患者と似たような発想だ。回復しているという事実に怯え、位置エネルギーの低いところへ低いところへと落下し続けることが安定だと思い込むような。彼の申告する鬱病のせいか、あるいは不健全な状態へ慣らされてしまったのかもしれない。
キムは眉を跳ね上げてみせた。
「たぶん、今のハリーにとってここはそんなに悪い世界じゃないよ」
キムは取り残された共産主義者を見つめるハリーの表情を思い出す。それからインスリンデナナフシに触れる繊細な手つきと、薄い色の瞳に過る思考のひらめきを。彼が読み取った世界は滅茶苦茶に砕かれたあと、更なる嵐を予感しながらも確かに息をしている。あの小島からボートで戻るさなか、潮風に身を晒すハリーは洗われたような顔でマルティネーズの街を眺めていた。
「どこまでが彼の意図したものだろうかと考えたことがある。トラントが言っていただろう? ハリーは意図して記憶喪失を引き起こしたのかもしれないって」
ジャンがそれを信じていないのは知っていたが、キムは彼がやりおおせたのだと確信していた。
「どこまでが彼の望んだ通りになった? なぜ記憶を失っても彼女のことを引き摺っている? それとも最初は死ぬつもりで、生き残るつもりはなかった?」
死ぬという言葉でびくりとジャンの肩が跳ねるのを、キムは安心させるように微笑んだ。
「僕の推測では、彼はうまくやり遂げた。あの状況は想定通りで、彼はあらかじめ失われた自分を生み出すつもりだった」
「あいつはドロレスを忘れていない」
「でも、彼女と過ごした記憶はない。彼にあるのは喪失だけだ。最初から不完全な自分」
「元々の自分はパーフェクトだったって? 大した自信家だ」
キムはそれを癖になった悪態として聞き流した。ジャンはかつての彼を貶さないとやっていけないのだと理解していた。
「そうしてハリーは不完全で不安定な世界にぴったりと寄り添う自分を生み出した。彼は苦しみながらもまだ生きていたかったから」
「――だとしたらずるいやつだ」
キムはその呟きを彼の癖として処理した。コーヒーを飲み干して、カップを洗うために小さなシンクへ向かう。背中で長い沈黙を聞いた。
「あいつがどう思っていようと俺は、完璧な刑事だった頃のあいつが好きだった」
「うん」
「それに罪悪感を持ちたくないんだ」
「そう」
衛星警官という立場に立ち続けている彼は、ハリーに引っ張られるようにここまでやってきたのだろう。だから今も彼を見捨てられない。彼の栄光と失墜が表裏一体だった事実をどう整理すべきか、彼はまだ決めきれないでいる。彼の相棒は一足先に片付けてしまったのに。
その決断にかつてのハリーの身勝手さが見えた。
「俺は今のハリーとうまくやれると思うか?」
「そうしない選択肢も君にはある」
「ああ……」
ジャンは肺を空っぽにするように長く息を吐いた。
「……あいつはドロレスのときのようには悲しまないだろうな」
差別的な人間ならホモセクシュアルとして揶揄するだろう言葉を、キムは黙って聞き流した。自らの倫理と、性的指向と、彼への共感によって。
「君の心身が一番大切だよ」
カップをすすぎ、キムはジャンへ向き直った。ジャンは俯いて何かを考えている。
「もう少し、うまくやれると思う」
「そう?」
キムはその声が詰問にならないように心がけた。
「いい感じになれるかは分からん。あんたと違って俺はあいつに振り回されてばかりだ。ただ、もう少しあいつの話を聞く余地があると思う。俺が調子のいい日に限るだろうが……」
「わかった」
彼は耐える人だ。キムは敬意を持ってジャンの目を見つめ返し、頷いた。
レヴァショールにはこういう人がたくさんいる。彼らの忍耐はいつだって現状の受容や無力さの自覚として受け取られてきた。しかし彼らこそが今のレヴァショールをつくりあげた。トラムのシートに座るときにもぞもぞと動かす尻、帰ってこない夫のためのサンドイッチ、買い物をするときの短い世間話。
彼らは身のうちに傷を隠しながら、ぼんやりとした未来を考える。冬に吐く息のように白く曖昧で、何一つ具体的ではなく、それでも切実な希望を。彼らが息をしていることをキムは知っている。キムはRCMの一員で、何よりレヴァショールの市民だ。キムは彼らの隣人だった。
ハリーもその呼吸を聞くだろう。そしてきっと、その吐息を大切なものとして扱う。彼は一度、マルティネーズで労働者階級の女に約束したことだってあるのだ。だからジャンが恐れたような、彼が再び世界と自分に絶望することなど起こらない。
どちらにせよジャンはハリーと話をしなければいけない。幻想の人を現実に引きずり下ろし、彼我の間に横たわる絶対的な断絶を思い知らなければ。それはハリーがやったこととは違い、何一つ劇的ではない、じりじりとした歩みになる。時間と薬と医者と仲間を頼り、ぶつかり、離れ、そうして現実の二人はちょうどよい距離を見つける。どんな距離に落ち着くかはまだ分からないが、実際の行動のなかで二人ともがよい未来を望み、現実へ引き寄せるだろう。
キムはジャンの背中を柔らかく叩いた。
「行こう、休憩は終わりだ」