スプートニク

 日焼けした首筋が無防備に晒されていたが、今更気にするようなことでもなかった。葉佩は床の上で片足を抱えるようにして座っていて、丸い背中が幼くあどけない。

 皆守が十八の頃から葉佩はよくこの姿勢を取っていた。狭い男子寮の一室で、昼休みの教室で、屋上で。当時はその無防備が空恐ろしく、いつか自分がこの首をへし折るのだとばかり考えていたものだが、今の皆守が気にするのは彼が湯冷めしないかどうかだけである。葉佩は暑がりで、十二月にもなるのに風呂上がりは半袖のインナーでしばらく過ごす。今も寒さを気にする様子もなくぽちぽちとH.A.N.Tを弄って今後の予定を確認していた。

「次の仕事がちょっと大掛かりなんだよね。エジプトで、何人かでチーム組んでやるの」
「初めて聞くパターンだな」
「うん。珍しい。それで、スケジュールの調整が難航してて、いつ始まるのかもいつ終わるのかも不明。一応おれが早めに現地入りして、あとは揃い次第ってことになってるんだけど」
「貧乏くじを引かされたな」

 葉佩はにっと笑った。

「おれみたいなのが職場にいると便利だよ」

 いつからか、記憶にある限り皆守が大学院に進んで以降、葉佩がこうやって仕事のスケジュールを共有してくれるようになった。天香學園を卒業してすぐの皆守はあの狭い箱庭で育まれた友情がどれほど長続きするものかと内心怯えていたが、もしかしたら葉佩もそうだったのかもしれない。また連絡してもいい? という問いかけはそのうち連絡するという断定に変化し、そして次は三か月後かなという未来の共有に変わっていった。

「滅茶苦茶になるの間違いじゃないか?」
「滅茶苦茶になるのは遺跡のせい」

 葉佩が厳かに宣言するのに笑って、ベッドの上のスウェットを投げつけた。

「そろそろ服着ろよ」
「はーい」

 全部、十八の頃から変わらないやり取りだ。遺跡の探索を終えて、時間があれば大浴場へ行き、だらだらとどちらかの部屋で喋って解散する。それをいずれ殺すと信じた人間とやっていたのだから不思議なものだ。

「あのさ、それでおれ、明日早めに出ていくから。鍵はいつも通り郵便受けでいい?」

 大学院生の皆守の部屋は狭い1Kで、皆守の座るベッドのほかに床に布団を敷いたらそれだけで窮屈になる。葉佩が仕事の合間に訪ねてくるときは床に荷物を散らかすのがいつものことだったが、いま、葉佩の荷物はきちんと纏められて壁際に鎮座している。

「別に、持って行ってもいいんだぜ」

 何度も繰り返した言葉に、何度も聞いた言葉が返ってくる。

「失くしたら困るよ」

 肩を竦めて布団に入ろうとする皆守の背後で静かなため息が聞こえた。

「あのさ」
「なんだ?」
「おれが死んだら連絡欲しい?」

 一瞬時間が止まって、皆守はゆっくりと葉佩を振り返った。ごく当たり前の顔で葉佩は首を傾げている。不意を突いて差し出された生死の話にからからと口が渇く。もつれる舌をようやく動かしても掠れた声しか出なかった。

「そんなにやばい仕事なのか?」
「え?」
「次の仕事。死ぬことを考えるくらい危ないのか?」
「ああ、いや、違う。危ないっていうならいつも危ない。そうじゃなくて。おれが死んでさ、ずっと連絡つかなかったら困らないかなって、そういう話」

 自分は彼を殺すと思っていたのに、どうして最後まで友人だと思えていたのか、皆守はもう思い出せない。皆守が通り過ぎたちぐはぐの過去の続きに葉佩がいて、そこはもう皆守には理解のできない境地だった。初の単独任務が天香だというのなら、続くのはそれと同じかそれ以上に危険な任務だと、少し考えればわかったはずなのに。

 答えを先延ばしにするように言葉を投げる。

「その連絡は、ロゼッタ協会から、ということか?」
「うん。制度があるんだ」
「俺は身内じゃないだろう」
「別に、そういう縛りはないよ。ロゼッタ協会だぜ?」

 聞き及ぶ破天荒さを考えればまったくその通りで、しかしちっとも笑えない。

「……俺に、知ってほしいのか」

 葉佩は口をへの字に曲げた。元々の顔がどこか素っ気ないつくりをしている分、葉佩は大げさに表情を動かす。

「どうだろう? どっちもさみしいよね? 知らないのも、知っちゃうのも」

 皆守には答えが見つからないことよりも、どちらにせよ自分は彼の他人なのだという事実のほうが堪えた。明日葉佩が死んだとして、皆守は何も知らずに生活し、そういえば連絡がないなと思いながら生きていくか、あるいはメールか手紙かそういった何かで死を知って呆然とするか、その二つの選択肢しかない。

「……ああ」

 どちらもさみしい。が、どちらかしかない。皆守は修士課程の二年目で、博士課程への進学を控えている。葉佩とはあの十二月に進路が分かれてそのままだ。生死を共にすることはもうない。

「少し、考えさせてくれ」
「うん。いつでも言って。連絡いらないならそう言ってもいいし。気にしないから」

 葉佩が布団に入るので、皆守も今度こそ照明を落として寝転んだが、どうにも眠れそうになかった。

 皆守がベッドで、葉佩が床に布団を敷いて眠るので、皆守が横になると葉佩が眠る様子が視界に入る。夜の薄闇の中で丸い頭の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。

 葉佩を部屋に招いて、食事をして、最近変わったことの話をして話を聞いて、そういう時間が好きだった。この部屋で眠る葉佩を見ていると、自分がしてやれることがたくさんある気がした。それから――悪趣味な言い方をするなら、葉佩の信頼が目に見えて嬉しかった。

 いかないでほしい。ずっとここにいてくれたらいいのに。浅ましい願いに自分が嫌になる。

 いつだって、皆守にとっての葉佩は手に届かない星のようだ。宝探し屋として次々に墓守を打ち破っていった時期、いい加減にしてくれと願った上段蹴りを避けられてお返しの八握剣の一閃を食らった瞬間、ひらりと手を振って去っていった冬のあの日、それ以前の、さりげなく隣に並んで歩いた日々。

 前の高校私服だったんだよね、エジプトで観光客と間違われたことがあって、小テストあるってどうして教えてくれなかったの、自販機寄るけど何かいる? そんな言葉のすべてが分不相応な気がして、それでも嬉しかった。泉のような、誰彼構わず受け取れる情だとしても、それでも彼と一番長い時間を過ごしたのだという自負は皆守の今を少なからず構成している。

 誰に悪く言われたって、それだけで世界の全てを決めつけるには早くって、どんなに苦しくても自分の存在を諦める必要はない。自分にそう言い聞かせられるようになったのは、あの三か月隣にいた友人たちのおかげだ。

 彼がいなくなったなら――

「九ちゃんが死んだら俺は泣くだろうな」

 つんと鼻の奥が痛んで、みっともなく濡れた声が出た。

「そう」

 ごそごそと衣擦れの音がして、葉佩がこちらへ向いた。夜目が利くので気まずい顔をしているのがわかる。

「九ちゃん、結局俺にどうして欲しいか言わなかっただろ」
「だって……わがままじゃん」
「俺は忘れるなよって言ったぜ」
「それはいいんだよ」
「じゃあ俺にもそう言わせろよ……なあ、俺はそんなに頼りないか? 一度、」
「違うよ。そうじゃなくて」

 葉佩の反応の速さに皆守は顔を顰める。

「俺のせいか」
「違うって。皆守が、ずっといるだろ?」
「なに?」
「院に進むとき、引っ越すからって住所教えてくれただろ。もしかして、皆守ってこれからおれに住所教え続けるのかなってずっと考えてた。だから、本当はもっと早くに聞くべきだったんだ」

 葉佩は家を持たない。倉庫を借りてはいるらしいが、公的な住所はロゼッタ協会の日本支部になっていると聞いていた。世界中を飛び回って一か所に長く居ることなんてないと日本でもホテル暮らしをしていた葉佩を部屋に泊まるよう誘ったのは皆守だ。

「もう修士課程も終わりだぞ」
「うん。ごめん。あのさ、嬉しかったんだ」

 薄闇の中、微かに光る葉佩の目を見据える。彷徨っていた葉佩の目が皆守を捉えた。

「あの日、本当は次の仕事なんてサボりたかったんだよ。違うか、サボった方がいいと思った……やっぱりサボりたかった。でも、結局おれは自分の仕事を選んだ。皆守や阿門や、白岐のことを気にするよりも」

 あの日。遺跡の最深部に潜った日。皆守が己の役割を明かした日。二人が対峙した日。皆守が死を選ぼうとした日。遺跡から出てすぐに葉佩はH.A.N.Tを確認して、「次の仕事がある」と宣言した。救急キットで応急手当てをして、さっさと荷造りに取り組んでいたのを覚えている。寂しくて、けれどそれこそが宝探し屋なんだと思っていた。

 皆守の中で、宝探し屋の葉佩と友人の葉佩は微妙に違う姿をしていて、モザイク状に継ぎ接ぎされて一人の葉佩が存在している。あの日あの一瞬、おまえが欲しい、生きろと叫んだ男と、長い時間隣にいて皆守に声をかけ続けた男と。どんな姿を見ても、すべてが眩しく新しくそれらしく見えていたけれど。

「だから、日本に帰ったときに皆守がいてくれて嬉しかった。元気で、自分のやりたいことを探しているのが、すごく嬉しくて、でもおれに言えるのはこれしかなかった」

 素っ気ない顔つきの男が顔をくしゃくしゃにしているのが皆守には見えた。皆守はぼんやりと、衝動のまま口を開く。

「俺は、あの日お前がさっさと去っていったのを信頼だと思っていたよ。お前が後ろ髪を引かれる思いだなんて知らなかった」
「ごめん……」
「違う。いいから聞けよ。だから、それに応えないといけないと思ってここまで来た」

 皆守にここにいてもいいと思わせたのはあの三か月の時間だ。皆守に世界の広さを教えたのは宝探し屋の硬質な瞳だ。

「だから、大丈夫なんだ。ここまで過ごした時間を信じてくれ。俺はもう、これまでの時間を投げ捨てるようなことはしない。九ちゃんの最期を預かるくらい、させてくれよ」

 顔をゆがめる葉佩は今までで一番無防備だ。かつて怯えた剥き出しの葉佩を、皆守はもう身のうちに抱え込んでいる。忘れるなよ、なんて自分を外側に委ねるような言葉では足りない。

「お前が死んだら俺は泣くよ。なあ、でも、あの時の俺と違って、九ちゃんは自分から死にに行ったりしないだろ。だから、泣いて、それから、一緒にいられて楽しかったって言うから」

 この葉佩を守ってやりたいと思う。隣にいなくても、彼がどこにいても。

「いくらでも、どこにだって行って、それから話を聞かせてくれよ」

спу́тник[スプートニク]
①(旅行の)同行者,道連れ;連れ,伴侶
②つきもの,ともにあるもの
③(天体の)衛星
④人工衛星