あなたの人生の物語

story of your life and others



 マルティネーズから戻ったあなたは傷を縫い直され、41分署の医務室のベッドに横たわって天井を眺めている。高い天井は製糸工場の名残だが、そこを渡る梁は新たに加えられたものだ。それは昼間に見ると駅や美術館のように開放的で親しみやすく見える。そして夜になるとまるで打ち捨てられたかのようにがらんどうに見える。

 今は夕方で、あなたはここで働く人間たちが椅子から立ち上がり、短い挨拶とともに職場を去っていく様子を思い浮かべる。残された人間は疲れた声で挨拶を返し、未処理の仕事を眺めてため息をつき、目頭を揉む。これはあなたの失われた記憶を埋める空想であり、あなたは実際にその様子を見たわけではない。

 あなたは41分署に着いて早々に医務室に押し込まれたので、この場所全体を観察することはできなかった。キツラギ警部補がどこへ行ったのか、共産主義者の移送は終わったのか、あなたを迎えにきた同僚たちが今何をしているのか何一つ分からずにいる。あなたにとってここは知らない場所だ。マルティネーズよりもずっとあなたによそよそしい。

 あなたはまるで敵地にいるかのように神経を研ぎ澄ます。

知覚-血と消毒液の入り混じったにおい。三月の冷たい空気、当直の看護師の微かな身じろぎ、遠くに聞こえる足音。

団結心-あなたにはその足音がジャン・ヴィクマール衛星警官のものだとわかる。身長に対して平均的な歩幅、少しだけ速足で、底の磨り減った革靴が乾いた音を立てる。あなたはその音にじっと耳を澄まし接近を待つ。足音の主は医務室のドアを開け、ざっと周囲を見渡し、そしてカーテンの閉じられたベッドへと向かう――

「調子はどうだ? 頭は診てもらったか?」

 カーテンが開く音と共にジャン・ヴィクマール衛星警官が顔を出す。その言葉にはいつも通りの棘が含まれていたが、あなたはそれを気にする余裕もない。

「暇だよ。退屈だ」
「……なにか必要なものは?」

 一転して押し殺したような彼の声に、あなたは自分の内側の声に耳を傾ける。いつも飲んでいたアルコールが消えて、あなたの体は糖質を欲しがっている。ベッドに横たわるのは退屈で気が狂いそうだ。

「ない」
「そうか」

 カーテンは閉まり、あなたは天井を見上げる作業に戻る。



 あなたは冴え冴えとした夜の中で眠り、痛みに目覚め、鎮痛薬を飲み、看護師が見回りをする足音を聞き――その繰り返しに耐えたあとでようやく朝が来る。あなたは意味もなく寝返りを打ち、枕に髪をこすりつけながら登庁する人々の足音を感じる。

 正規の登庁時刻の少し前にカーテンが開き、衛星警官があなたを見下ろす。

「おはよう」

 あなたは挨拶に頷く彼の服装が昨日と変わっていないことに気づく。RCMの制服と、シャツと、ネクタイ。

「帰っていなかったのか?」

 彼は怪訝な顔であなたを見る。あなたが制服を指さしたところで納得したように鼻を鳴らした。

「帰った。帰って戻って来た」

 改めて彼の姿を確認すると、髭が整えられていることに気が付く。シャツは昨日見たよりも皺が少ない。

 突然あなたは自分の着替えの在りかが気になり始める。

「なあ、俺はどこに住んでいたんだ?」
「ここの近くだ。歩いて7分、走って5分」
「それなら帰るのも楽だろうな」

 彼は肩を竦めた。

内陸帝国-恐らくあなたさまは彼女と別れてから仕事に便利な場所へと引っ越したのでしょう。機動部隊をつくったあなた方は、常に仕事に追われるようになった。もしくは自ら望んでその環境を作り、あなたは身を持ち崩した。

「……狂乱の日々か」
「何だ?」
「楽しかっただろうな」

団結心-おまえはろくに家に帰らなかった。職場に泊まり、連絡が来たら深夜だろうと署に駆けつけ、捜査に取り組んだ。

電気化学-そして決して休まなかった。暇なときは酒を飲み、薬をやり、悲しみに浸る隙を作らなかった。最高の日々だよ。

 彼は奇妙なものを見る目であなたを見る。

「覚えてないんだろう」
「楽しくなかったか?」

 彼はひっそりと唇を噛んだ。

「楽しかったさ。でも、残ったのはこれだけだ」

 彼はあなたに書類を放る。備品の亡失届と、銃弾の補充申請、傷病休暇届。どれもほとんどの欄が埋められていて、あとはあなたがサインをするだけだ。それから新聞。一面トップがドロスの逮捕、そしてインスリンデナナフシ発見の記事が続いていた。

「次来た時に回収するからな」

 彼が去ったあと、あなたはベッドに座ってハリアー・デュボアのサインをし、隅々まで新聞を読み、こっそりストレッチをし、体を拭き、腹を空かせる。食事は一日三回で、もちろん酒は出ない。

 パーティは終わった。疲れ知らずに捜査に邁進した日々。今のあなたには解くべき謎も、開くべき缶もない。あなたは再び草臥れた中年男性になってベッドに横たわる。

電気化学-退屈だよ。ハリーボーイ。

 あなたの口は何かを吐き出そうとわななくが、言葉はない。

意志力-しかし、これから何をする?

団結心-捜査だろう。

内陸帝国-かつてと同じように?

薄明-繰り返しだ……次のゴールは近いぞ。おまえの体はもう十分にダメージを受けている。もう酒など必要ないくらいに。

 あなたはすべてを振り切るために目を閉じ、暗闇へと沈み込む。あなたは虚無の中に生活を思い浮かべる。幻の家。あなたは定時で職場を出て、デリで炒めたチキンと米のボックスを買って帰る。ラジオを聞きながら飯を食い、コインランドリーへ向かい、風呂に入って眠る。何一つ現実的でない、書き割りのように平坦で奥行きのない暮らし。そこにいてほしい人はもういない。



 次にあなたが目を覚ましたとき、そこは夜だった。ベッドのサイドテーブルに冷えた夕食のトレイが置かれているのをあなたは横になったまま眺める。天井は遠く部屋は静かで、定時を過ぎていることがわかる。

 あなたはそっと体を起こす。

 夕食のトレイの下にはまだ新聞と書類が置かれたままになっていた。あなたはそれを手に取って、ゆっくりとベッドから足をおろす。安っぽいスリッパを突っ掛けてそっと立ち上がる。



 何一つ見覚えのない景色のなかを、あなたは足を引きずりながら進む。そっと太ももを撫でても、血が滲む感触はなかった。あなたの体に染みついた記憶が、目に見えないサインとなって進路を指示する。人通りの少ない北側の廊下を通り、コーヒーコーナーを通ってオフィスへ。ウィングごとに島が作られていて、明かりがついているのはひとつだけだ。

 あなたはゆっくりと明かりのついているCウィングのデスクへと向かう。あなたが前しか見ていなかったとしても、あなたの体は自然に床に置かれた段ボールや配線を避けることができる。そうして近づいたデスクで、あなたは彼を見下ろす。

「ジャン」

 彼は書き物をする姿勢で眠っていた。デスクにはあなたにとって見知らぬ書類と、コーヒー渋のついたマグカップ、それから空の薬のシートが放られている。

百科事典-抗不安薬。催眠作用がある。

団結心-元々41分署は忙しい場所だった。広大な管轄地区に見合わない人員。それに加えて機動部隊。その負荷があなたの衛星警官に圧し掛かっている。あなたが駄目になってもあなたの作ったものは残る。

「ジャン」

 あなたがもう一度呼びかけても、彼は目を覚まさない。あなたは暗闇に立ち尽くし、そっと体を震わせる。まだ三月で、あなたは病院着しか着ていない。あなたは周囲を見回して、意味もなくいくつかのデスクの引き出しを漁り、草臥れたブランケットを見つけ出すと彼の肩に掛ける。

 あなたは彼の隣のデスクに座り、静かに周囲を見回す。ここがあなたのデスクだろうと思われた。一番大きくて、一番散らかっている。古い椅子は誂えたようにあなたの尻にぴったりで、座ると微かに軋む音がした。周囲の空気はしんと静まり返って冷えている。あなたの体が覚えているとしても、あなたにとってここは見知らぬ場所だった。あなたは薄暗い周囲に何があるのか見通すことはできない。ただ、隣のデスクライトの明かりがあなたのデスクの書類の山をぼんやりと照らしている。

視覚計算-しかし、おまえの不在による影響は少ない。デスク中央の整えられた書類だけだ。それ以外はすべてお前の膨大な処理件数のせいだ。

「……狂乱の日々。パーティ」

 あなたの脳裏にあのネクタイが浮かぶ。憂鬱な日々を多少なりとも吹き飛ばそうとした戦友はもういない。残るのは――誰かが残っているだろうか?

肉体装置-おまえについていける人間は誰もいない。おまえは地獄の内燃機関だ。

 あなたはすぐ隣に眠る衛星警官を見つめる。鋭い頬の輪郭と、まばらに生えた無精ひげ、目の下の隈。

内陸帝国-あなたはかつて似たような景色があったことを覚えています。薄暗いオフィスで、デスクライトだけを頼りに二人で捜査資料を漁ったのです。

共感-彼はまだおまえのために仕事を続けている。今日残っていたのもマルティネーズの事件の後始末のためだ。

電気化学-おまえが欲しいのは一緒に踊ってくれるやつだ。おまえの後始末をするやつじゃない。

概念化-おまえは彼をダンスの相手ではなく自分の肝臓のように扱っている。お前が取り込んだ毒物を代謝するやつだ。

 あなたはそっと自分の内側に問いかける。キムは?

共感-不当な扱いを受けた場合、キツラギ警部補は抗議するだろうな。ダンスは踊ってくれたが。

権威-もう一度躍らせることだってできるだろう。

意志力-どちらにせよ、お前が“本当に”欲しい人はもういない。おまえは一人でどうにかするんだ。パーティにしろ、生活にしろ。

内陸帝国-なんてひどい……

 それなら彼はどうなるのだろう。あなたは頬杖をついて眠る男を眺める。いつまで経っても目が覚める気配がなく、呼吸の音がかすかに聞こえる。

概念化-彼はおまえの一部だ。それを外部化するのは自分で自分の手術をするようなものだ。

内陸帝国-あなたは一度成し遂げています。あなたは彼女の思い出を失っている。

 あなたはため息をつく。この夜を超えればあなたはめでたく退院できる。そうしてあなたは生活に戻る。自分の家を見つけ出し、そこに寝泊まりする。しかし、あなたにはそこでやっていく想像がつかない。あなたが知っているのは、マルティネーズとこの冷たいオフィスだけだ。

 彼なら何と言うだろう。あなたはそっと隣に眠る男のことを考える。捜査するか、死ぬか。それ以外のあなたを、彼は知っているだろうか。キムは、彼が傍にいる間決して止まることがなかったとあなたを評したけれど。それでよいのだろうか。

 あなたはもう一度事件解決マシンになることができる。けれどあなたは、それでいいのかまだ確信が持てないでいる。あなたはまだ生まれて一週間の赤子だ。すべての可能性があなたにはある。

 しかし、すべてはこの夜が明けてからの話だ。

 あなたは夜に蹲って夜明けを待つ。まだ夜で、だからあなたはまだ走る必要はない。だからもう少しだけ、ここで他人の寝息に微睡むことが許されていた。あるいはその微睡みこそが、あなたの生活なのかもしれない。