Sunrise, parabellum

 キムが一日の終わりの煙草を吸い忘れたことに気がついたのは午前一時、ハリーの包帯を替え、ドルアミンを飲ませ終わったあとのことだった。

 ワーリング・イン・ラグスの一室には煌々と明かりが灯っている。白々とした照明は部屋を照らしはしたが、夜はそれ以上に広く、暗い。夜は時間を支配し、静寂を永遠に引き延ばし沈黙の中に不安の種を蒔く。キムはそのことを知っていた。まだ一日は終わらない。ハリーが無事に意識を取り戻すか、あるいはすべてを終わらせる朝日が昇るまでは。

 別段、ハリーの命が危険だというわけではなかった。撃たれた傷は幸いにも太い血管を逸れていたし、弾の摘出も終わっている。包帯は二度変えて、今は血が酷く滲むこともなくなった。目に見えないダメージがどれほどあるかキムに断言することはできなかったが、ドルアミンで楽になった様子もある。それでも安心して眠りにつくことができないのはハリーのせいだと言うしかない。

 ハリーはキムが知る中で最も不可思議で、それでいて奇妙に響き合う人間だった。もしかしたら、彼がマルティネーズで話をした全員が彼をそういう風に評するのかもしれない。彼はマルティネーズの人々だけでなく、固く閉じていたはずのキムの缶もこじ開けて見せた。人間缶切り。今までRCMの人間に内燃四輪車の話をしたことがあっただろうか? 自らの出自について語ったのはいつぶりだ? 性的指向の話は? 出会って一週間も経たない人間に、どうしてあれほどあっさりと色々を語って見せたのか。

 キムは静かにソファに座って、眠るハリーの横顔を眺める。ドルアミンを飲ませたのは二回目。服薬の間隔をぎりぎりまで詰めたので、しばらく彼が痛みに魘されることはないだろう。白い照明の下で、彼の顔に刻まれた皺が深い影を作っている。髪は後退し、髪と髭には白いものが交じっている。最初は六十代にも見えた顔は長く共にいるにつれて見慣れて、今はただハリーの顔だと思うだけだ。

 何も知らないんだと語る彼に影響された部分はある。しかしそれ以上に――彼の、剥き出しの魂が。

 最初に握手をしたときの、何か奇妙な事態に巻き込まれているかのような不可解な表情。ジョイスへの出来の悪い生徒のような問いかけ。何か、キムには分からない葉書を手にしたときの葛藤。時折目の焦点がぼやけて、どこを眺めるでもなく僅かに唇が震える様子。くるくると、扱いに困るようにバッジを弄る手つき。バルコニーの喫煙者を見たときのあまりに素朴な困惑。

 彼が自分と世界を探し、見つけていく過程をキムは共に歩いてきた。彼はすべてを曝け出していた。彼が何を知っていて何を知らなかったのか、キムは知っている。何に傷ついているのかも察している。傍で見ている分には滑稽なほど彼の抱えた傷は分かりやすかった。

 だから、彼の力になりたいと、彼を信じたいと、思う。彼の深酒で赤らみ浮腫んだ顔には、同時に傷ついた繊細な瞳があった。彼が時折じっと酒瓶を、身体向上薬を見つめていたのを知っていて、それでも彼はキムの前でそれらに手を出すことはなかった。彼のような困難を抱えた人はどこにだっているだろう。しかし、それを克服しようする彼を、その奮闘と意志を、キムは本当に信頼している。

 しかし、その彼が最後に語ったことと言えば世界と自分への失望だ。

「きみは――

 視線をハリーに固定しながら、キムの唇がわななく。零れたのはため息だけだ。彼と一緒に踊ったあの一瞬が、彼とブランコに揺られたあの時間が、彼と走り続けたこの一週間が、ため息となってキムの体から漏れ出す。

 彼は剥き出しの魂だった。そこに誰かが入る余地はない。キムの強固な缶とは違う。キムが彼を缶の内側に迎え入れたのとは――

――生きて帰らないと、僕はきみを許さないかもしれない」

 冗談だ。死ぬような怪我じゃない。それでもキムは彼の帰還を祈る。彼の魂の帰還を。そうしなければ話が始まらないのだ。キムはこの夜の虚無に耐える。そして、彼の虚無と戦うのだ。夜は続く。煙草はまだ吸えそうにない。目を覚ました彼に告げるべき言葉はもう決まっていた。