天と地の

 強張った母の顔を思い出した。疲れ切った父の声も。

「どうして普通の進路を選べないの」
「仕事っていうのはフィクションじゃない。夢を見るのをやめなさい」
「あなたがどこか遠いところで命を落とすかもしれないと思うと耐えられない」

 話は平行線だった。《宝探し屋》トレジャーハンターという職を知ってからこちら、両親は自分がその進路を選ぶことに頷いたことはない。

 それが何だと言うのだろう。本当は、彼らが頷く必要はない。未成年だとか、手続きだとか、そういったものが自分の行動を一時妨げたとしても、意思を曲げさせることはできない。自分も、彼らもそれを知っているから、会話にはぴりぴりとした緊張と同時に疲れがある。妥協点が見つからないことをお互いよく理解していた。

 ただ目の前の人を可哀想に思う。彼らの愛情を理解している。わかるよ、おれもあなたたちを愛している。あなたたちがおれを心配していることを知っている。傷つかないでほしいと、おれの苦しみが少なくなってほしいと祈っていることを知っている。ただ知っている。それはおれの内心ではない。

 だから、負けるのは両親の方だ。どちらかの意思しか通らないというのなら、縋りつくことしかできない方が負ける。両親が訴える愛情が僅かな時間自分をここに留め置いたとしても、その事実で愛情は呪いに変質する。そうしたら、繋ぎ留める鎖も消えて自分はここを出て行くだろう。それは、そう遠くない未来の話だ。

 可哀想にと思った。

 そして今、葉佩は馬鹿馬鹿しいくらいに彼らと同じことをしている。遺跡の最深部、玄室で向かい合った友人は笑って足を一歩引いた。そして葉佩から遠ざかろうとしている。

 もう時間がなかった。玄室の揺れはますますひどくなり、分厚いはずの壁からはみしみしという不穏な音が聞こえてくる。墓守がここに残ると言うのなら、葉佩がバディたちを守って退却しなければいけない。それは義務だ。頭の中の冷静な部分が叫ぶのに、体はちっとも動かなかった。目の前の光景を受け入れられない。

「皆守」

 情けないくらいに声が震えた。死ぬんだって。死にたいんだって。頭の中でわんわんと誰かの声が反響している。何が言えるだろう。何を差し出せるだろう。何の希望が、何の喜びが、死への渇望を上回れるだろう。他人の意思を、どうやって曲げればいいのだろう。

 皆守はただ微笑んでいる。そんな穏やかな顔が出来たのか。いつも、諦めと羨望が入り混じった、水底から空を見上げるような目をしていたのに。

「死なないで」

 ああ。葉佩は絶望しながら息を吐く。最後に差し出せるものはこれしかない。人を繋ぐ、呪いにも似た情。自分の心の奥底まで浚って感情を、思い出をかき集める。お前を助けられると思っていたよ。助けられないにしたって傍にいられると思っていたよ。いつか悩みを聞きたいと思っていた。一緒に悩んでやりたいと思っていた。秘密を打ち明けてくれて嬉しかった。この先があると思っていた。

 可哀想にと自らに対して思う。そんなもので他人を変えられるものか。自分の心臓がどれほど痛んだところで、その痛みが真実相手に届くことはない。そんなこととっくに知っているのに、振り絞るように言葉を差し出す。

「好きだよ。お前がいないと寂しい」



*****



 向かい合った葉佩はびっしょりと汗をかいていた。いつもつけているゴーグルは皆守が蹴り飛ばしたから、大粒の汗は額から滑り落ちてそのまま頬を伝う。それに加えて左の額からはだらだらと血が流れている。皆守がつけた傷のせいだ。自分でつけておきながら、皆守はそれを痛ましいと思う。早く休ませて治療を受けさせなきゃいけない。こんなところにいる場合じゃないと思っているのに、葉佩は揺れる床の上で足を踏ん張って皆守から目を離さない。疲れ切ったように肩で息をして、怪我の痛みに顔を顰めながら、葉佩は皆守の名前を呼んだ。壁から吹き出る炎が葉佩の頬をちらちらと照らし、光る汗が一瞬涙に見えた。

「好きだよ。お前がいないと寂しい」

 絞り出すような声自体が葉佩の心を表していた。葉佩の情を知っていた。言葉がなくたって、皆守といるときだけ少し乱暴になる話し方を、息だけの微かな笑い方を知っていた。降り積もる時間を共有してきた。それを言葉にして差し出す葉佩が何を要求しているのか、皆守はきちんと理解している。

 皆守は結局何一つ選ばなかった。職務を放棄できないと墓守として戦い、そのやり方は間違っていると葉佩と共に阿門を説得する。そして今、どこへも行かずに死のうとしている。

 葉佩は選べと言う。自らの手を取ってくれ、生きる方を選べと。だから皆守は選びたくない。立ち尽くしていれば終わりが来ることを知っているから。

「決めていたことだ」

 葉佩ははくりと口を開け、そうして閉じた。ふっと体の力が抜け、表情が消える。素の、どこか素っ気ないつくりの顔からは内心がわからない。黒い瞳が傷ついたように揺れた気がした。


 ――永遠の別離を前に、鈴を鳴らすような声がした。瞬きほどの時間だったようにも、奇妙に間延びした時間だったようにも思う。白い光がすべてを天へと還した。


 自分が生きていることに気がついて、とりあえず皆守は顔を上げた。見慣れた新宿の夜空がある。夜空というにはくすんでいて、しんとした静けさも、どこまでも続く暗さもない。高層ビルと繁華街の光が空に溢れ、数少ない星もかすんでいる。

 のろのろと視線を戻すと、皆守同様に呆然とした阿門と目が合った。今頬に感じる冷たい夜風も、さらさらと木々が揺れる音も、地下の遺跡ではあり得ない。ローファー越しに落ち葉と土の感触がある。遺跡へ下りる穴からは少し離れた、墓地のはずれに立っているようだった。周りを取り囲む木々に見覚えがあった。

 遺跡にいた全員が無事に地上に戻っていた。阿門、白岐、端麗、それから葉佩。ついさっきまで玄室で向かい合っていたはずの人間が墓地に立ち尽くしている。奇妙な事態だったが、遠く学生寮のざわめきが皆守達を救った光が幻ではなかったことを伝えてくる。

「阿門さま!」
「無事ですか?」

 木立の奥から人影が駆け寄ってくる。生徒会の役員たちだった。阿門が待機させていたのだろう彼らは、どういう事態を想定していたのか普段の落ち着きを失くした切羽詰まった声をしている。その声に、目が覚めたように阿門はそちらへ歩き始めた。立ち尽くす皆守の横では、葉佩がぐいと額の血を拭っている。端麗が葉佩に話しかけて傷の様子を確かめる。額は、腕は、足は。端麗の端的な問診に、葉佩が体を動かして答える。皆守は見るとはなしにその様子を見守った。一時の虚脱が現実に押し流されていく。白岐だけが白い光の名残を探すように、じっと虚空を見つめていた。

 いつだったか、葉佩が言った。

「世界の秘密を探っているんだ」

 遺跡探索からの帰り道だった。「どうして《宝探し屋》トレジャーハンターになったの?」たしかそういう問いだった。尋ねたのは八千穂だっただろうか。しんと静まり返った墓地を背に、疲れた体を引きずって寮の明かりを目指す。それはこの二学期に何度も繰り返された日常で、記憶は積み重なり混ざり合って曖昧だ。

「小さい頃から冒険ものの映画とか、小説とかが好きだった。一番好きなのが、トレジャーハンターがでてくるやつ」

 皆守はアロマをふかしながら葉佩の声に耳を澄ませた。葉佩が自分について語るのは珍しかった。皆守が記憶する限り、後にも先にもこの一度きりだ。皆守はその頃既に葉佩をないがしろにすることが出来なかったし、そういう話を聞けることを内心くすぐったく思っていた。

「現実にもそういう、冒険をして手に入れるような宝があるに違いないって思いこんじゃったんだよな。それで《宝探し屋》トレジャーハンターになった。でも、そう思うだけでこう……わくわくするだろ?」

 相槌を必要としない語りは、それこそが秘密の告白のようだ。

「どこかに宝が眠っていると思うと、世界がきらきらして見える。たぶん、それを手に入れられたらもっと」

 それを聞いて、ああこいつは自分とは違う人間なのだと思った。それが寂しかったのを覚えている。皆守には世界が美しく見えたことはない。

 星が輝いていればよかったのに。夜の闇に目を凝らしながら皆守は思う。そうしたら、きれいだと言えただろう。心からのものではなくても、ただ事実として。そして、そう考える自分に落胆している。葉佩に秘密を打ち明けて、対峙して、それから共に戦って。死のうとしたところを生き延びて。あれだけのことがあっても、皆守の心境に劇的な変化は訪れなかった。生きていることに気がついて、確かにほっとした気持ちがあるのに同時に途方に暮れている。

 決して、積極的に死にたいわけではなかった。ただどこにも行きたくなかった。皆守は墓守で、だから墓の傍にいたかった。あそこ以外の居場所を知らない。

 誰が何と言おうと、墓守という職は皆守にとって一種の安寧だった。一面の荒野の中で皆守に立ち止まっていることを許した。もう何の変化もない場所を変化しないように守ることを求めた。染みついた怠惰と人間不信は墓守という仕事によく馴染んだ。

 それに、今さら何かを変えたくなかった。あのひとに優しくできなかった。報いるべき人を殺した後で立ち直れてしまうのが怖かった。

 皆守は放心したまま視線を彷徨わせ、こちらを見つめる葉佩を見つけた。普段通りの、意思の強い真っ直ぐで硬質な瞳が皆守を見ている。

「皆守」

 耐えられない、と反射的に思う。これが皆守のすべてだ。友人を裏切り、恩師の死を浪費し、死のうとしながら生きている。全てが中途半端な人間には常に前を向く《宝探し屋》トレジャーハンターの視線は眩しすぎる。皆守は断罪を待つように葉佩の目を見つめ返した。

「無事でよかった、って言ってもいい?」

 違和感に皆守は眉を寄せた。葉佩にしてはおずおずとした、迂遠な問いかけだった。それからついさっき自分が死のうとしたことを思い出した。確かに皆守は選んだのだ。どんな理由にせよ、墓に留まり続けて生きることを拒んだ。

「……ああ」
「そう」

 葉佩の深い吐息を聞いた。

「無事でよかった」

 葉佩は腰が抜けたように地面に座り込んだ。震える両手が葉佩の顔を覆う。皆守はそれを見下ろして立ち尽くした。何をそんなに、と葉佩のことが分からない。

 隣の端麗が事務的な表情を作って皆守を見ている。普段浮かべている薄い微笑みを消した真面目な顔は、こちらの事情に関知しないというポーズだとわかった。

「きみも体に異常はないな」
「ああ」

 疲労感はあるが、葉佩と戦ったときに受けた傷にも葉佩を庇って打った肩にも痛みはない。あの双子のおかげだろう。ぼろぼろのローファーや制服はそのままだが、体の傷は癒えているようだ。葉佩の額の怪我も消えているのだろうとぼんやりと思う。

「では私は私の仕事に戻ろう。――私も、きみが無事で嬉しいよ」

 端麗は検分するように皆守の頭から足先まで眺めて頷くと、白岐と共に去っていく。葉佩はどうして彼女をもう一人のバディに選んだのだろう。教師としての立場か、保健医としての知識か、何やら怪しげな本業の関係か。葉佩が何を想定していたのか、皆守には想像しか出来ない。ただ、端麗の距離を弁えた振る舞いと、それを通り越しての普遍的な親愛に気まずく身じろぐことしかできなかった。

 葉佩はぐったりと弛緩したまま動こうとしない。その様子に皆守はようやくそれまでの緊張を察した。傷をつけた、悪いことをしたと心臓は痛むのに、葉佩の安堵だけが共有できない。もうずっと、皆守は葉佩のことを好ましく思っている。何があっても大切な友人だと固く信じているのに、蹲る葉佩はどこか遠いところにいる。

「悪かった」

 迷った末に絞り出した言葉が葉佩のところへきちんと届いたのか、皆守には判然としなかった。皆守自身も何に対しての謝罪か分かっていない。

「いや……」

 顔を覆ったまま、葉佩はのろのろと首を振った。

「おれが悪い。そういうことをしちゃいけなかった」

 半ば独り言のようなくぐもった声が続く。

「お前におれを背負わせるようなこと、言うべきじゃなかった」

 葉佩を守るためなら身を投げ出してもいいと思っていたのに、どうしてそのために生きられないのだろう。今さら、つい先ほどの自分を不思議に思う。守ってやりたいと思っていたのに傷をつけた。大切だと思いながら手を取れなかった。葉佩の手を取れば救われると揺れたのは、ただの無邪気な願望だったのか。

 自分が酷く幼く、冷たい人間に思えた。葉佩が顔を上げる。初めて見る、疲れ切った顔だった。皆守の知る限り、葉佩はどんなときでも背筋を伸ばしてまっすぐに立っていた。その男が、草臥れてもう何もできないという顔をしている。思考を放棄した皆守の頭は他人事のようにその様子を哀れに思った。

「皆守はいま、生きてもいいかなって、思える?」

 その問いに、皆守の脳裏に砂漠が浮かぶ。生き延びたのだという、緊張から解放された気持ちはある。ぼんやりとした死への恐怖も戻ってきた。ただ、一番強いのは、これからどうすればという戸惑いだ。ここが終わりでないのなら、皆守はどこへ行くのだろう。想像もしなかった未来は茫洋として頼りない。前に進む勇気を出す以前に、進むための道が分からない。

「……もう死のうとはしない」

 どうしてここで終わらないのだろう。無事でよかったの先があって、ありうる未来のどこかで皆守が再びその選択を取るかもしれない、そういう疑念を葉佩は捨てられない。皆守も、葉佩の質問への答えを返せない。葉佩は答えを知っていたように笑った。

「皆守がいないと寂しいよ。本当に。でも、全ての苦しみに耐えてまでそうしろと、おれには言えない。言うべきじゃなかった」

 そんな寂しいことを言わないでくれと、伸ばした手を振り切っておきながら今の皆守は身勝手に思う。黙り込む皆守を前に、葉佩は疲れを忘れたように身軽に立ち上がる。顔が近い。皆守は自分が随分と葉佩の近くに寄っていたことに気づいた。葉佩は無言で手を広げる。

 何を求められているのかはわかるが、そんなことをされたのは初めてだった。

 皆守がおずおずと一歩だけ歩み寄ると、葉佩が体を寄せて皆守の背中にゆるく手を回す。葉佩の短い髪が皆守の耳をくすぐった。ほとんど身長の同じ葉佩の肩にそっと頭を凭れて、皆守は目を閉じる。

 アサルトベストのごわついた感触の先に、ゆっくりと呼吸する存在があった。背中の手は触れるか触れないかの距離を保っているのに、ぽかぽかとした熱を感じる。自分もそうした方がいいのかと、葉佩の背中に手を回す。少しだけ距離が近づいて、皆守はほうと息を吐いた。

 探索中に肩を貸したことも、屋上で隣り合って座ったこともあったけれど、こうやって抱き合うのは初めてだった。同級生の女子同士でこういう接触をしているのを見たときには子どもじゃあるまいしと思っていたのに、こうして初めて自分が不安で孤独だったことを知る。葉佩の抱擁は祝福のようだった。存在と生存の証。生きている、とどうしてか自分が泣きたい。

「皆守の苦しみが少ないといい。それで、何か少しでも喜びがあればいい」

 吐息に紛れた言葉は真摯なのに他人事だ。寂しいという葉佩の吐露がいかに得難いものだったか今ならわかる。卒業後の進路を尋ねたとき、不思議そうに「おれは元々《宝探し屋》トレジャーハンターだけど」と言った人間が、皆守を人生に組み込もうとした。今となってはこうなる前の二人がどういう関係だったかも思い出せない。葉佩の示す親愛は友情の域を出なかったような気もするから、皆守の行動がその距離感を狂わせたのかもしれない。葉佩にそこまでさせて、結果がこれだ。

 葉佩の手を取ればよかった。お前のために生きると言って、自分の人生を背負わせて、葉佩の人生を奪って、分かちがたいほど癒着できればよかったのに。皆守は葉佩を損ねて終わった。中途半端に提示された未来は誰の物にもならず二人の間に転がっている。あらゆる幻想は打ち砕かれて、失われたものへの寂しさだけが残った。

「……ああ」

 ゆるりと葉佩の手が背中を撫でて、それでおしまいだった。

「行こう」

 葉佩は《宝探し屋》トレジャーハンターの顔をして皆守を見る。疲れた顔はそのままに、視線は真っすぐ前を向いている。遠くで生徒会役員や執行委員の声が聞こえていた。皆守にも、しなければいけないことがあるはずだった。葉佩が歩き出すのを追いかけた。


 遺跡崩壊から数日もしないうちに葉佩は學園を去った。親しい人間には挨拶をして回ったらしいが、夜のうちに出て行ったようで誰も見送りは出来なかった。朝には空っぽの部屋が残されていたという。

 皆守のところにも挨拶に来た。夜も遅い時間に寮の部屋のドアをノックされて、開けると私服姿の葉佩がいた。皆守が入るかと訊くと首を振る。消灯時間の過ぎた薄暗い廊下に立ったまま、葉佩が何かを差し出した。

「おれもう行くからさ」

 皆守が墓に捧げたあの写真だった。

「あァ」

 思わず手に取って写真に目を落とす。芸術作品には程遠い、ただのスナップ写真だ。それでも被写体の柔和な雰囲気は伝わる。皆守の記憶に焼き付いているのは最期の蒼ざめて強張った顔だったから、写真を見てああこういう表情をする人だったと思い出した。墓に捧げて以降すっかり忘れてしまっていた。

「ちゃんと大事にしろよ。おれに持たせっぱなしにするな」
「……そうだな。悪かった」

 皆守が隠し事なく葉佩と向き合ったのは、遺跡が崩壊して以降これが初めてだった。皆守の方はどういう態度をとればいいのかまだ測りかねているのに、葉佩はすっかり普段通りだ。  元から葉佩はそういう人間だった。積極的に人と交わる癖に、人に流されることをしない。それでいて優しい。執行委員や役員が助力を惜しまない訳だと、同じ立場になって皆守も思い知る。葉佩の態度には決して無関心にはならない受容があった。

 皆守の事情を知ったうえでそういうものだと扱われると、変えられない過去に胸が痛みながらも開き直りのような前向きな気持ちが湧いてくる。今の自分のままで、どうにかなるのかもしれないという淡い希望だ。

「あと、卒業もしろよ。もう朝起こしてやれないんだから」
「そもそも頼んでない。毎回言っているがな、夜更かしさせた張本人がどうして俺の睡眠を邪魔するんだ」
「完璧なアフターケアだったろ?」

 葉佩が笑うので諦めのため息をつく。「じゃあな」という言葉に、いつもの癖で言葉を返す。

「また、」
「ん?」
――いや。言われなくともちゃんと卒業するさ」
「おう」

 葉佩はひらりと手を振って立ち去った。


 元々冬休みで普段とは生活習慣が変わる時期だったこともあって、皆守の生活は自然と葉佩がいないものへと切り替わった。そもそも遺跡の後始末に忙しく、寂しいなどと言う暇もない。墓を掘り起こし、助かる人を病院へ送り、生徒たちへの説明を考える。朝から晩まで、やるべきことは尽きなかった。呻きながら朝早くに起きて、深夜になって電池が切れたようにベッドに倒れ込む。そういう風に過ごしていると部屋は荒れたが、かえって心は穏やかになった。そうやって時間を使いながら、皆守はあっという間に葉佩のいない日常に適応した。あっけないものだと思う。

 ずっと、もう何も起こらないでくれと怯えながら祈っていた。変化しないことは素敵なことだ。平穏で、何の事件もなくて、誰も傷つけることがない。そして傷つかずに済む。

 それでも時間は進むし、すべては変わる。この三か月の波乱に満ちた生活を通して皆守はそれを思い知った。三か月前の皆守と、今日の皆守は違う。昨日の皆守とも違う。

 あのひとが死んだ瞬間にずっと留まっていたかったのに、遠いところまで来てしまった。その距離を考えると、この先にも同じように時間が続いていくのだと漠然と思う。時間の流れが皆守をここに連れて来て、そしてどこかへと運んでいく。ずっと同じ場所に留まって朽ちるようにして終わっていくのだというかつての展望は段々と薄れてそれこそ遠い。

 この先がある。まだ、どこに行くのかはわからない。それでもどこかには向かっていると皆守は根拠もなく思う。



*****



 葉佩は次の任務地に向かう飛行機の座席に座って目を閉じている。浅い微睡みの中、客室乗務員のアナウンスを聞く。降下に向けてもうすぐベルト着用サインが点灯するという。お手洗いだとか背もたれだとか、切れ切れに単語が聞こえるが、外界を拒絶するように目を閉じ続けた。

 天香の遺跡探索が終わりを迎えてまだ三日、それまで働き詰めだったこともあって酷く疲れて眠かった。新米《宝探し屋》トレジャーハンターにとって飛行機はまだ珍しい非日常なのだが、窓の外を覗き込むことも、機内の設備や客室乗務員の仕事を眺めることもできていない。

 あまり働かない頭で葉佩はぼんやりと考える。そうは言っても地球上のどこででも飛行機は飛ぶ。同じような機体と、同じような機内で。それなら今は眠っていたい。天香の遺跡が迎えた結末への虚脱感から立ち直るにはまだ時間がかかる気がしていた。

 友人の翻意は叶わず、秘宝は横から掻っ攫われた。自分の愚かさにつくづく嫌気がさす。

 世界のどこかに宝物があると信じていた。自分の、自分のためだけの宝物が。それはきっと、たくさんの冒険と苦労の末に見つかるんだと。

 それが間違いだと薄々勘付いている。自分だけの宝物は、探すものではないはずだ。

 天香で出会った遺跡の墓守たちは、既に秘宝を持っていた。果たして自分に何があるだろう。葉佩は目を閉じたまま記憶を辿る。故郷は捨てた。持ち物は仕事道具だけ。いや、バディたちから色々とものを貰いはしたが、全て倉庫を借りて置いてきた。贈り主がどんな気持ちを込めたのかはよくわからない。舞草から貰ったポスターなどは別に好意の証にはならないと思う。皆守が寄越したカレー鍋も、本人はマニア垂涎の宝だとか言っていたが怪しいものだ。

 ああいうものを宝物にすればいいのか。ただ、そんなものはなくても大丈夫だと楽観的に思っていた。知り合ったほとんどの人間を友達だと思っていたから。

 友情なら、関係の構築に「友達になろう」「もうやめよう」だなんて言葉は必要ない。だから葉佩はあそこで知り合った人間全員を勝手に友人だと思っていた。王でも隊長でも師匠でもなく。そして、友人のまま去っていけると思っていた。あの學園を出たらもう二度と会わないにしても、友情は心の中で永遠だ。それを抱えて生きていこうと思っていたのに。

 ただ一人、皆守とだけ友達になり損ねて葉佩の欺瞞は暴かれた。あのとき葉佩がかき集めた感情は、無責任な友情と言うにはあまりに重い。言葉に引きずられるように葉佩は皆守の不在を寂しく思う。そうしてふと不安になる。いま、彼は生きているだろうか。そうすると輝かしい永遠はふいと姿を消し、葉佩の手元には何も残らない。

「あなたがどこか遠いところで命を落とすかもしれないと思うと耐えられない」

 本当に。心の中でいつかの誰かに同意する。例え目の前にないのだとしても、世界のどこかに存在していることが喜びなのだ。友人も、家族も。あるいは宝物も。

「お前が生きていないと寂しいよ」

 口の中で言葉を転がす。

「お前が傍にいないと寂しいよ」

 自分はどちらの意味で口にしたのだろう。皆守はそれをどう捉えたか。どちらにせよ寂しいで終わる。終わらせられる自分を葉佩は知っている。耐えられないとは思わない。耐えられなかったらよかったのにと思う時点で自分は薄情だ。

 宝物が欲しかった。何か一つ、大切なものが、それがあれば世界のすべてが輝いて見えるようなものが欲しかった。そのために命を懸けて冒険するようなものが欲しかった。

 元々そんなものはないのだろう。ありもしない幻想を追いかけていただけだ。仮にあったとしたって自分は気づかず素通りするだろうと今の葉佩は確信している。本当にたった一つの何かを追い求めているのなら、《宝探し屋》トレジャーハンターを職業にするべきではなかった。運命は仕事にはならない。

 ただ、この仕事をやめようとは一切思わなかった。信じたものが虚構だろうと、走り続けないといけない。虚構だとしても、信じなければいけない。それすらやめてしまったなら、それこそ耐えられないと葉佩は直感で理解している。葉佩の世界はあっという間に意味を失くすだろう。

 初任務で砂漠を横断する羽目になったときも、葉佩は固くオアシスの存在を信じた。そうでないなら集落か、井戸か、なにかの恵みを。信じて歩かなければ干乾びて死ぬことが分かっていた。

 そのときの葉佩の世界には一面の砂しかなかった。空は空っぽで雲ひとつなく、太陽がじりじりと肌を焼いた。乾いた風は吹きつけるばかりで葉佩をどこにも連れて行ってはくれなかったので、仕方なく足を動かした。地平線の先にオアシスがある、見えないだけだ、大した距離ではないだろうと、ずっと自分を励ました。

 剥き出しになっている皮膚は焦げたように痛み、喉が渇いて唾液すら出なくなった。背中に背負ったバディの命が重かった。こんなことで死なせるわけにはいかないと何度も恐怖に震えた。頭が絶望的な状況を囁くたびに首を振って、ここまで歩いたのだからと自分自身を説得した。

 結局何も見つけられずに行き倒れたが、その経験は葉佩に強く焼き付いた。砂漠のどこかで足を止めて座り込んでいたなら、《宝探し屋》トレジャーハンターを辞める選択肢もあっただろう。そうではなかったので、行き倒れるまで歩かなければあのときの自分に顔向けができない。

 いつの間にか飛行機は降下を始めたようで、一瞬ふわりと内臓が宙に浮く感覚がした。それに怯えたのか遠くで子どもが泣き始める。葉佩も不快感を耐えるように強く目を閉じる。結局眠れていない。疲れ切っていても葉佩の頭はつらつらとするべきことを数え始める。まずは腕時計を現地の時刻に合わせないといけない。それから遺跡近くの街までの一番早い列車を調べよう。葉佩は自分がどこまでも進むことを知っている。



*****



 皆守はぎりぎりの出席日数で高校を卒業し、何とか都内の私立大学に滑り込んだ。浪人するという選択もあったのだが、そもそも強く希望する進路もなかったので雛川に相談してどうにか手が届くという大学を教えてもらった。雛川は皆守がようやく進路を考え始めたことに喜びながらも、複雑な表情で将来に関わることだから投げやりにならないでという話をしたが、いま浪人したら立ち止まったままどこにもいけなくなる気がしていた。

 後押しになったのは、初対面の進路指導の教師だった。

 三学期の初めに皆守が進路指導室を訪ねたとき、その教師は色褪せた赤本が並んだ書棚の前に座ってコーヒーを飲んでいて、皆守の顔を見るなり妙に気安い様子で「赤本? 願書?」と聞いてきた。数学教師だとは知っていたが、担当クラスが違ったので皆守はその教師の名前しか知らなかったし、教師に至っては皆守の名前も知らなかった――悪名を知っていたのなら気安いのはおかしい――はずだが、詰襟の三年生の徽章を見られたのだろう。高校三年生の一月に入って大学を選び始める人間はそういないはずだから教師の問いは間違っていないのに、皆守はどこか後ろめたく、上履きでリノリウムの床を擦った。

 パンフレットを探しに来たと皆守が言うと、教師は「パンフレットはねえ、廊下だねえ」とコーヒーカップを置いてさっさと皆守の脇を通り抜ける。定年間際の風体を裏切るきびきびとした動きに慌てて後を追うと、すぐ近くの廊下にラックと長机が置かれパンフレットが並べてあった。生徒が自由に手に取れるようになっているらしい。ここに来るまでに皆守の視界にも入っていたはずだが、そもそもパンフレットという存在も朧気にしか認識していなかったので、これがそうだと気がつかなかった。進路指導室の存在も雛川に教えられて知ったくらいだった。自分がいかに将来を考えることを避けて来たかがわかる。

「もしかしたら品切れもあるかも。どこの大学?」

 雛川と話をした際に名前が挙がった大学名を告げると、教師はひょいひょいとパンフレットを取っていく。皆守が受け取ろうとすると「ちょっと待って」と教師はパンフレット抱えて進路指導室に戻っていった。

「まあいろんな人がいるけどねえ、僕たちに出来るのは可能性の提示くらいだしねえ」

 何も告げていないのに教師はぺらぺらと話をしながら指導室の壁際に置かれたレターケースを引っ掻き回している。

「絶対にこの大学がいいんですって人もいるけど、まあ、差し引きだよね。こだわりと、受験が長引くことと。大学に入って初めてわかることもあるしねえ」

 皆守に話しかける風ではなかったので相槌は打たなかった。ただの世間話のようだったが、本来ナイーブな時期にいる受験生に話すような内容だとは思わない。

「とりあえずどこかに進んだら大学の勉強が出来るわけだし、そこから進路を考えても遅くはないもの」

 そこまで言い終わってようやく皆守の手元にパンフレットが手渡される。

「もう出願まで時間がないから願書も渡しておこうね。ここにあった分だけだから、無い分は自分で取り寄せて」

 礼を言って進路指導室を後にしてから、適当な人間もいるものだとまず思った。少なからず人生を左右するだろう進路を指導する人間がこんな風で大丈夫なのだろうか。あまりにも沢山の人生に向き合うと、そういう距離の取り方をするようになってしまうのか。

 眉を寄せて、それから笑ってしまう。教師なんて信用ならないと言った口で、善い教師を求めている。一人で立てないまま誰かに手を引いてほしいと願っている。

 大学に進むことは、皆守の選択だと言えるだろうか。

 あのひとが、葉佩が、皆守に何を示し、何を求めたのか、流石にもう分かっている。自ら立ち止まること、自ら進むこと。流されないこと。今の自分で、ふたりに顔向けができるだろうか。

 ただ、取り敢えず大学に進もうとは思った。モラトリアムだとしても、優柔不断の結果だとしても、あの他人事の教師の言う通り何か新しいことを知ることが出来るなら、それから考えるくらいのことは許してもらえるだろう。

 そうして皆守はあまり多くはないが限られてもいない選択肢の中から嫌いではない教科の先にあった学部を選んだ。これが正解だという手ごたえはないが、あの教師の言った通りに大学という新しい世界を知った。


 皆守は大学に入って、今までの高校生活が随分と窮屈なものだったと知った。遅刻も服装も咎められることはないし、ホームルームといった面倒な時間もない。自由度の高さや選択肢の幅の広さに身が竦むような思いもあるが、法規だとか福祉だとか、高校では聞いたこともない講義があることは今までの世界の狭さを知るようで面白かった。

 たまに、葉佩は今どうしているだろうと思う。

 卒業式の日に、葉佩から卒業生全員へおめでとうのメールが届いた。進路が決まったときには皆守からメールを送り、祝いの言葉が返ってきた。

 葉佩からは早いうちに《宝探し屋》トレジャーハンターとしてのメールアドレスを教えられていた。学校のプリントの裏に走り書きされた癖のある英字を覚えている。見慣れないドメインに葉佩の職業は本当らしいと思いながら「いいのかよ」と訊くと、「今さらだろう」と返ってきた。携帯電話の中に残るそのアドレスを見ると、世界のどこかに葉佩がいるんだとぼんやりと思う。

 初任務の地だというエジプトの砂漠か、地球の裏側の南米か、意外に近くのアジアのどこかか、どこにいるにせよ皆守が見てきたのと同じように宝探しをしているんだろう。そういう確信が、皆守の茫洋とした世界に少しだけ色彩をつける。

 阿門や八千穂や、あの二学期に知り合ったほかの同級生のいまを想像しても、同じように思う。つまり、今までの皆守がそもそも世界に無関心だったのだろう。

 他人なんて鬱陶しいだけだと思っていたはずなのに、大学にも知人や友人が出来た。墓守としての皆守だったら気にも留めないような無害な人間でも、話をすれば一人一人の輪郭や内情が見えてくる。彼らと「レポートの締め切りいつだ」や「バイト始めようかな」といった当たり障りのない会話をしながら、つまり慣らされたのだとある日皆守は閃いた。

 葉佩の隣にいればおよそ人にも会話にも不足することがなかった。「魂の井戸でニキビ治ると思う?」とかいうしょうもない疑問から、「皆守クン、次の授業は移動教室だよ!」というお節介、怪しげなオカルト談義、高校生らしくテレビのバラエティ番組のことまで、たくさんの人間のあらゆる話を聞いた。葉佩がいたあの三か月で、皆守が他人に対して抱いていた警戒心は随分と研磨され擦り減ってしまった。

 鈍麻だ、という思いもある。皆守は飼い慣らされた獣のように警戒心を失くし、羊の群れに紛れている。周囲から遠巻きにされることもなく少し無愛想な同級生として扱われながら、皆守はこのまま自分が本物の羊になる日を予見して恐れている。それに抗おうにも番犬としての仕事は既に無く、皆守はただ毎日を過ごす。

 そんな恐怖を抱くことも少なくなった秋のはじめ頃に、葉佩から帰国の連絡があった。

「久しぶり」
「本当にな」

 遊びに行きたいと言うので住所だけを伝えたが、皆守の住むアパートを訪れた葉佩に道に迷った様子はなかった。玄関に立つ葉佩は小さいレジ袋を提げているほかは何も持っていなくて、まるで近所に住む人間のようだ。まだ暑さが残る時期に相応しい半袖のTシャツとワークパンツもその印象を強めているのに、編み上げのショートブーツだけが浮いている。

「お邪魔します。これお土産」
「別に、九ちゃんが気を遣う必要はないんだ。――まあ、貰っておくが」

 手渡されたレジ袋には海外で購入したらしいスパイスの瓶が詰まっていた。それを玄関わきのキッチンに置いて、皆守は上がり框に座ってブーツを脱ぐ葉佩を見下ろした。髪はこざっぱりと短くなっていて、剥き出しの首筋がこんがりと日焼けしている。初対面の頃の葉佩を思い出した。転校してきたばかりの葉佩は《宝探し屋》トレジャーハンターのパブリックイメージに違わず日に焼けていたが、冬が近づくにつれ葉佩の肌はだんだんと本来の色を取り戻していった。

「他の荷物は?」
「ホテルに置いてきた」
「ホテル? そういえば家はどこなんだ?」
「ないよ。あったってしょうがない」
「……言えば泊めてやった」
「そういうわけにはいかないだろ」

 呆れたように言う葉佩がくんと鼻を鳴らした。

「いいにおいだ」
「夏野菜カレーだ。まだ暑いだろ」

 狭い玄関はスパイスの香りに包まれている。すぐ横のキッチンでは朝から仕込んだカレーが温まっていた。海外を飛び回っていたなら日本風の味がいいだろうと、最近ハマっているグリーンカレーではなくオーソドックスな市販のルゥを使ったものに近い味にした。隠し味は醤油だ。

 手伝うと言う葉佩をラグに座らせて皿を運ぶ。カレー作りのためにキッチンにはこだわって部屋を選んだが、それ以外は一人暮らし向けの代わり映えのしない部屋だ。家具はベッドとローテーブルのほかに収納が少し。寮に暮らしていた頃と景色は大して変わらない。

 高校時代にもこういう風に探索帰りの葉佩と夜食を食べたことを思い出す。葉佩の部屋で、ローテーブル代わりの段ボール箱に皿を並べた。葉佩は自前の皿すら持っておらず、寮のどこからか卒業生が残した食器を見つけて来て借用していた。あの頃よりテーブルが上等になった今も、並ぶ皿はあり合わせのばらばらだ。一人暮らしでは揃いの食器など持っているはずもない。

「おいしい、っていうか手間がかかった味がする。野菜を別で揚げてる?」

 おいしそうと言いながらスプーンを口に運んだ葉佩が破顔する。葉佩が何でもおいしいと言う人間だと知ってはいるが、皆守はその言葉に満足して頷いた。

「当たり前だろ。カレーはこだわればいくらでもおいしくなる奥が深い料理だ」

 皆守のカレーへの執着を知っている葉佩も一口食べるたびに「茄子おいしい」「夏の味がする」と拙い語彙で褒めたたえた。

「どう、大学は?」
「どうっていうのは何だ。曖昧だな」
「おれ大学のこと全然知らないもん」

 二学期を葉佩の隣で過ごしてきたので、皆守もそれは知っていた。葉佩は進路志望調査も出さなかったし模試も受けずにいたので、この件では皆守とまとめて問題児扱いだった。葉佩がいた分皆守への圧力が弱まって有難く思っていたのだが、結局困ったのは皆守一人だ。

 それでも、葉佩に何かを説明するというのは不思議な気持ちがした。今でも皆守は《転校生》が學園の外すべてを知っているような感覚を捨てきれない。一般的な大学の制度を説明して、一年生は一般教養の授業がほとんどであまり興味もないのだが、自分で履修登録をした以上出席しないといけない気がする。第二外国語の単位を落としたので再履修している。そういう話をすると葉佩は笑った。

「面白そう」
「聞いてたか? 面倒だという話をしている」
「そう? でも、ちょっと楽しいと思ってるでしょ」

 葉佩にはこういうところがあった。皆守が授業をフケるとき、突き放したようなことを言うときに、小首を傾げて「そう?」と尋ねる。ただの意思の確認で皆守が頷いたならそれで放っておいてくれるのだが、落ち着いた声でそう問われるとそれ以上何も言えずにトーンダウンしてしまう。

「……そりゃあ、自分で選んだからな。高校の授業よりマシだ」

 面倒なのも本当なのだ。一限のために朝起きるのも、課題やレポートも。ほんの欠片のような好感を否定できないだけ。恥ずかしくなって話を逸らす。

「九ちゃんは?」
「うん?」
「どうなんだ?」
「あれから遺跡を二つ……三つか。三つ回ったかな。ドイツと、中国と、インドネシア。インドネシアで食べたカレーの話聞く?」

 葉佩が語る風景は皆守にはちっとも想像がつかない。外国の建物や屋台の話は面白いが、皆守に知識がないから頭の中のイメージはぼやけている。その像はちっとも鮮明にならないまま、そのうち話は知り合いの近況に流れていった。

「昨日八千穂に会いに行ったけど、随分心配されちゃった」
「そりゃあ、夜逃げ同然に出て行ったからな」
「みんなにはちゃんと出て行く前に挨拶したし、卒業式にはメールしたのに」
「来なかった、の間違いだろ」

 葉佩はうーんと唸る。

「元々おれはちゃんとした学生じゃないから」

 墓守から忠告を受けたときのような、きっぱりとした声だった。相手の言い分は分かったが自分の立場とは相容れない、そういうときの声だ。皆守はその声を憂鬱に聞いていた時期を思い出した。

 墓荒らしを止めないことも怖かったが、あの頃本当に恐ろしかったのは一切の慣れ合いを許さない葉佩の態度だった。學園の羊たちと違って葉佩は衝突を恐れず、他人に意思や感性がある分、自分にもそれがあるという態度を貫いた。社交的なのに柔和ではなく、葉佩はいつまでも學園の異物だった。

 そういう人間が望んで自らの傍にいる事実に皆守は奇妙な優越感を持っていたが、それは葉佩を引き留める手段がないことを受け入れていることでもあった。あの夜葉佩が寂しいと言ったこと自体が、やはりおかしな事態だったのだろう。葉佩と皆守の人生は分かたれていて、そもそも一つになったこともなかった。

「……お前らしい言い分だな」

 そこからはまたとりとめのない話に戻った。ふたりとも一杯ずつお代わりをして、カレー皿が空になってもしばらく話をしたが、最後には葉佩が皿洗いを買って出た。皆守はラグに座ったまま食器を運ぶ葉佩の背中を見送る。

 キッチンの水音が微かに部屋に響いて、祭りの後のような寂しさがあった。人と話をして盛り上がった分だけ、落ち着いたときとの落差が激しくなる。このあと別れることが既に寂しかった。皆守だって訳知り顔で同級生のことを解説できる人間ではない。卒業式の日には周囲と同じく内心そわそわとして、届いたメールに落胆した。

 葉佩は渡り鳥や、周期性の彗星のようなものなのだ。不在はただの不在で、別れにはならない。皆守はそう自分に言い聞かせる。

 それでも、ここに居残りたいと葉佩に言って欲しかった。皆守が葉佩の長い不在を寂しがるのと同じくらい、葉佩に皆守を求めて欲しい。大学に知人も友人も出来たが、皆守の中で葉佩は特別な位置に居続けている。共に三か月を過ごし、対峙し、共闘し、秘密を打ち明けた人間はこれ以上増えようがない。あの夜葉佩との人生が分かたれたのだとしても、出来るだけ近くにいて欲しい。

 もう一度葉佩の手を取りたいのに、どうしようもなく遠い。

「おれそろそろ行こうかな」
「……ああ」

 キッチンから戻った葉佩は当たり前の顔をして言う。皆守は玄関までついて歩いて葉佩がブーツを履くのを見守った。

「次は泊まっていけよ」
「寝る場所ないでしょ」
「……布団を買っておく」

 葉佩は息を漏らすように笑った。立ち上がって、玄関の段差のせいで少し低い目線から皆守を覗き込む。

「皆守っておれのこと好きね。でもいいよ」

 ひらりと手が振られてドアは閉まった。



*****



 どこかの誰かとは違って、葉佩は自分も他人も蟻のようだと思ったことはない。ただ、地面にしがみつくような生活をしているとは時々思う。

 今回ロゼッタ協会から指示のあった遺跡はアメリカ南西部の砂漠にあった。天香學園のような今を生きる墓守はおらず、今まで未発見だったのは秘匿されていたからではなく調査の目が及ばなかったことが理由らしい。

 葉佩は遺跡の傍に停めたランドクルーザーの中でH.A.N.Tを操作しながら今後の探索計画を立てる。遺跡は地下にあるので傍とはいっても地面に露出した遺跡の入口近くというだけだ。周囲に見える人工物は葉佩の乗る車のほかにない。ここは民家も商店もない、アスファルトの敷かれた道路からも何キロと離れた荒野だ。

 探索初日の今日は、遺跡の規模と壁に彫られたレリーフをざっと調べて終わった。持ち込んだ物資――水と食料、弾薬その他――が足りなくなることはなさそうだが、出来るだけ弾薬は節約したい。明日は刀と鞭を持ち込もう。ハンドガンは好きではないが念のため携行しようか。そういうことを考える。

 運転席から周囲を見回すと空は藍色で、地平線にわずかに黄色が残る。夜の帳が下りるという言葉がよく似合う光景だった。あるいは逆で、昼間というヴェールがするすると地平線の先へ消え去って、世界が本当の姿を現しているのかもしれない。そう思うほど夜空は透き通っていた。

 砂漠と言うと暑さばかりが取り上げられるがここの冬は冷え込んで、標高が高い地域では雪がちらつくこともあるらしい。一番寒さが厳しい時期は過ぎたはずなのだが、それでも空気は冷たく乾燥していて、その冷たさの分空気が澄んで景色が引き締まって見える。人里では見られない満天の星を見上げて葉佩はふうと息を吐く。一日が終わる。今日の分の仕事をこなした心地よい疲労感があった。

 ずっとここで生きていけたらと思う。

 少し前に日本に戻って天香の同級生と会って以降、葉佩は仕事に精を出し続けていた。どこかから誰かの声が追いかけて葉佩を引き戻そうとしているような気がして、それを振り切るように世界のあちこちに飛んだ。その声は父や母のもののようにも、八千穂や皆守のもののようにも聞こえる。

 会わなければよかっただろうか。ただ、友人なのだからという義務感にも似た気持ちがあった。離れていても存在する永遠の友情なんてものが幻と消えた以上、会わないわけにはいかなかったし葉佩にだって会いたい気持ちがある。

 ただ、やはり失敗だったとも思う。彼らの親愛を軛だと思いたくなかったのに、今の葉佩がやっていることはまるきり逃走だ。人が持つ重力のようなものから逃れようと躍起になっている。

 ずっと荒野に住めればいい。それができないのなら世界の果てに行けたらいい。

 葉佩は憂鬱に運転席のハンドルにもたれ掛かる。水も食料も、冒険も有限だ。食料が尽きたなら、そうでなくても今回の仕事が終わったなら葉佩はまた人里に戻らないといけない。しがみつくような生活をしている。わずかな水に、仕事に、希望に。

 秘宝を諦めきれない。ただ生きているだけじゃ満足できない。すでに持っているものを大事にしろと言われて知らないものを見逃したくない。何か別の、持っていないものを手に入れたい。現に見つけられるのを待っている遺跡がある。だから彼らの許に留まってなんかいたくない。

 葉佩は運転席に座ったまま、どんどんと空の藍色が濃くなっていくのを何もせずに見守った。エンジンを切った車内は暗く、ダッシュボードも闇に同化し始めている。

 完全に日の名残りが消える寸前、沈黙を破ってH.A.N.Tがメールの着信を告げた。

 職業上の義務感から葉佩はポケットからそれを引っ張り出す。メールは皆守からだった。

「日本はもうすぐ春だ。コンビニのカレーまんの食べ収めが近づいている」

 最後に会ってから、皆守はたまにこういうメールを寄越す。内容は大抵季節のことか大学のことだ。八千穂や取手からも似たようなメールがよく届く。暗闇の中でH.A.N.Tの画面がぴかぴかと眩しく、葉佩は目を細めた。葉佩は少し考えて返信の文面を打ち込んだ。

「アメリカにいる。砂漠がきれいだ」

 話さないといけない用件などないが、それ以外の言葉はいくらでもあった。小学生の日記のような言葉を返す。

 戻りたくない。ずっと走らせてくれと毎日祈っている。ただ、そろそろ夕飯を食べようと葉佩はトランクに積んだ食料を漁るために運転席を降りた。



*****



 皆守はラベンダーの花束を抱えて天香學園の門を潜った。卒業してからも、皆守は定期的に天香學園を訪ねている。墓参りのためだ。

 卒業して部外者となった身ではあるが、事前に阿門に連絡していたおかげで警備員は名前を聞くだけで皆守を通した。休日の昼下がり、そこかしこから運動部の学生の掛け声が聞こえる。本格的な夏が訪れる少し前の季節はぽかぽかとした気温に時折吹く風が涼しく、確かに体を動かすにはいい気候だろう。

 皆守は大学二年生になった。卒業してからここに来るのは三度目だ。一般的な墓参りの頻度を皆守は知らなかったが、學園にいたときと比べれば格段に少ない。墓参りの度に、確かに自分はここを離れたのだと実感する。

 校門から校庭の横を通り抜け、温室前を経由して墓地へと歩く。一時期はここが自分の墓場だとすら思っていたのに、今となっては學園の景色はどこかよそよそしく、自分が異物になった感覚を覚える。皆守の拠点がここから移ったということなのだろう。

 それでも記憶に残る道を辿れば、きちんと墓地へとたどり着く。皆守たちの代の生徒会と執行役員により墓地は整理され、無秩序に増えていた墓石は少しだけ数を減らして整列している。ただ、あの教師の墓だけは死が確定しているからと暴かれることも場所を変えることもなかった。墓地の隅にあるその墓の前に立ち、皆守はラベンダーの花束を手向ける。

 死んだ教師について皆守が知っていることはほとんどなかった。担当科目、温室によく顔を出したこと、ラベンダーの香りがしたこと、いつも機嫌よく笑っていたこと、それから命日。

 だから皆守はラベンダーのほかに捧げるものを知らない。何か不義理をしているような頼りない心地は、何も知らなかったし知ろうとしなかったツケだと理解していた。そもそも少しでも彼女に関心を払っていたならこんなことにはならなかっただろう。

 ただ、そのほんの少しの記憶も皆守は抱えきることが出来なかった。ほんの少ししか知らなかったからかもしれない。温室にいたのは花が好きだったのか園芸が好きだったのか、どうして教師になろうとしたのか、職員室の問答に至るまでにどのような思考があったのか。知らない空白は虚無として皆守を苛んで、生活のあらゆるところにあり得たかもしれない彼女の姿を幻視した。

 アロマに手を伸ばさなかったなら皆守はもっと早くに精神を持ち崩していただろう。彼女の記憶をラベンダーの香りに収束させることで皆守はなんとか日々を生きた。

 今は、アロマを吸う頻度を減らしても生きていける。皆守は時間をかけて彼女の死に折り合いをつけつつある。

 皆守は墓の前で深く息を吸う。肺を膨らませて姿勢が伸びると、墓地の奥に新しく増えた小さな墓が目に入った。

 阿門が作った長髄彦と巫女たちの墓だ。これを作ることを決めたとき、阿門は随分とすっきりとした顔で言った。

「きちんとした墓が必要だろう。遺跡が崩れても、覚えているべきだ」

 皆守はそれを聞いて葉佩の言葉を思い出した。

「そもそもおれは、ここが誰の作った誰の墓かすら知らないんだぜ。死体の処理なら燃やすなり埋めるなりするだけで済むのに、どうしてわざわざ墓なんて作った? 何一つ分からないまま探索をやめるわけにはいかないだろ」

 当時は墓荒らしの横暴に聞こえたが、葉佩の台詞は正しかった。業績の顕彰、死後の安寧への祈り、そんな思いはどこにもなく、遺跡は墓ではなくただの暗がりだった。そもそもが手に負えなくなった研究対象を封じるための穴だったから、あるのはただの逃避だけ。その逃避を皆守はよく知っている。過去というのは全部がそうだ。否定したくて忘れたいのに、決して振り切ることを許さない。美しく輝いた一瞬は、現状との落差で今をなおさら惨めに感じさせる。それなのに目を逸らせば逸らすだけ存在感を増していく。そうやってあの遺跡は呪いを積み重ねてきたのだろう。

 墓は記憶するためにあるはずだった。人間の不在を、墓という形で目に見えるものにする。かつて確かに生きた人間を伝え、慰めを与える。そしてただ佇むことで、逃れられない喪失を教えてくる。そうしなくては人間ひとり分の存在など抱えきれない。

 今の皆守には、きちんとした墓があった。かつての、もういない人に縋り、ただ不在と傷を確かめるだけの墓とは違う。皆守が抱えていた空白に墓石を埋め込んで彼女を思う。皆守の外側に彼女の居場所がある。今さらそれを寂しいとは思わなかった。墓はずっとここにある、皆守が忘れても、忘れなくても、近くにいても、いなくても。

 ここは皆守の居場所ではない。

 それを確かめるたびに皆守は少しだけ阿門が羨ましくなる。墓守という役目に新たな意味を吹き込まれた阿門は、この遺跡と墓地を守り伝えることを決めた。それは《阿門》の仕事で、決して皆守の仕事にはならない。するわけにはいかないと分かっている。

 最後に短く目を閉じて、皆守は墓に背を向けた。



*****



 遺跡の最深部を守る墓守を倒して、一息つく暇もなく葉佩は愛用の短機関銃を構えた。遺跡の最奥にある空間はがらんと広く、中央に秘宝が置かれた台座がぽつんと佇んでいる。倒したばかりの墓守がさらさらと塵に帰りつつある中、葉佩はじっとこの空間唯一の出入り口である扉を見据える。

 自分なら、と葉佩は思う。自分ならこのタイミングにする。秘宝に手を付けられるのは許せないと、自分なら思う。しかし、墓守を倒すのは自分の仕事ではないと、相手なら思うだろう。

 葉佩の想定通りゆっくりと両開きの扉が開き、そうして閉じる。盗掘者らしさなど欠片もなく、侵入者は堂々と姿を現した。

「キミか、葉佩九龍」
「やあ、喪部。久しぶり」

 手元の武器はしっかりと喪部を狙っている。撃っておけばよかったかもしれないが、《宝探し屋》トレジャーハンターとしてのポリシーが邪魔をした。それでも牽制にはなる。

「同窓会をしに来た、ってわけじゃないよな」
「違うね。その秘宝はボクのものだよ」

 襲撃は予想していたので驚きはない。ここエジプトの、特に地中海沿岸部は《秘宝の夜明け》レリック・ドーンが収奪に力を入れている地だ。天香學園でも敵対した喪部は、かつて着ていた不似合いな学生服を脱ぎ捨てシックなスーツを身にまとっていた。高級品に見えるが砂とカビの匂いがする遺跡にはふさわしくない。葉佩が遺跡のトラップを解除済みとはいえ、よくこんな格好をするものだと葉佩は思う。どうやら以前の発言通り出世しているようだった。この部屋の外には《秘宝の夜明け》レリック・ドーンらしく大勢の戦闘員が待機しているのだろう。

 その上で一人で姿を現したのなら、喪部のスタンスは変わっていない。本当は部下を連れ歩くのも好きではないし、秘宝と同じ部屋に入れるなど言語道断と思っているはずだ。自分以外を見下しているから。

「偉くなったみたいだけど。どう、気分は?」
「こんなのただの足掛かりさ。――今日は随分喋るじゃないか」

 訝しむ喪部に葉佩は笑いかけた。葉佩が気にしているのは喪部の戦闘手段だ。かつてのように鬼に変生してくれるのが一番いい。銃を持ち出されるのも、戦闘員が増えるのも面倒だ。できれば近づかせることなく間合いの外から銃撃して終わりにしたい。葉佩は自分があらゆる場面でその道のプロフェッショナルに劣ることを自覚している。真里野と斬り合ったら負けるし夷澤と殴り合っても負ける。特別な力など何もない。自分に有利な武器と状況で戦うことに神経を尖らせる。

「民間人に被害がないならおれだって気楽にやるさ」
「民間人、ねえ。キミは蟻が死ぬのを悲しむのかい?」
「お前が彼らを蟻だと言うんなら、おれたちだって蟻だろう?」
「ボクの本当の姿を見てなおそう言うのか」

 吐き捨てる喪部にばかだなあという気持ちが捨てられない。お前の本性が鬼だとして、だから何だと言うのだ。

 葉佩は勝手に喪部を知った気になって同情している。同情していることを知られたなら喪部が黙ってはいないはずだから喪部は気づいていないのか、防衛本能が理解を拒否しているのか。

 かつて聞いた喪部の野望が叶ったって虚無にしかならないと葉佩は思っている。喪部の理屈は倒錯している。自分の遺伝子を誇るなら自分自身が存在するだけで尊いと言わなければいけなかった。遺伝子という過去から受け継いだものを担保にこれから自分の存在の根拠や証拠や実績を作ろうなんて馬鹿げている。その大それた望みが喪部に修羅の道を走らせる。

 同じ穴の狢だ。葉佩も喪部も、存在しないものを追い求めている。出発点を間違えて、だからゴールなど見つからなくて、求めるものが手に入らないままとりあえず走れるだけ走る。愚かさで言うならそこらの一般人よりも愚かだ。

「言うさ。蟻を引きつれて、蟻の作った飯を食べて、蟻の作った街で暮らしてるならそいつは蟻だ。女王蟻だって蟻だぜ」

 おしゃべりな理由はもう一つ、目の前の人間に気を遣わなくていいからだ。対立組織に所属しているなんて知ったことではなく、ここにいるのは墓荒らしが二人。好かれる必要もなく、ことによっては数時間後に片方の命が無くなっている。

「一度秘宝を手にしたからといって、随分調子に乗るじゃないか。今度こそきちんと殺してやろう」

 喪部が姿を変える。青い肌、額に生えた白い角。鬼の姿だ。葉佩は角を狙って引き金を引く。喪部の間合いの外から撃ち続けるが、喪部がジャケットの内側に手をやるのを見て慌ててアサルトベストからガスHGを放る。爆発を煙幕代わりに秘宝が置かれた台座の裏に逃げ込んだ。逃げ込みながら爆炎に向かって適当に威嚇射撃をすると、同じように銃弾が飛んでくる。一発。撃ち合いは嫌だ。鬼の喪部と違って葉佩は脆い。残弾数はいくつだろうか。自動式拳銃なら大目に見て十五発やそこらは覚悟しないといけない。

 台座を中心に円を描くようにじりじりと移動しながら、時々威嚇のように射撃する。葉佩が台座の右側――喪部にとっての左側――から顔を出している分利き手の有利があるが、床に転がる空薬莢で足の踏み場がなくなる前にどうにかしなければいけない。

 喪部を動かすために、台座の左からガスHGを投げる。それと同時に台座の右側から飛び出して、後退しながらフルオートで射撃する。角は諦めて、狙いは銃を持つ右肩だ。葉佩はケブラーアーマーを着込んでいるので、喪部の撃つ弾が頭に当たらないことだけを祈る。

 どうしてこれだけ撃たれてまだ死なないのか。喪部は拳銃を放って近接戦に切り替えてくる。葉佩は最後のガスHGを投げつけながらバックステップで距離を取った。

 向かい合う構図に戻って状況は膠着した。残弾はゼロだがマガジンを交換する暇はないだろう。背中に背負った刀を引き抜くタイミングを伺いながら、取り敢えず息を整える。

「キミはそんなにボクをそちら側に引き摺り下ろしたいのかい?」
「引き摺り下ろす、ねえ。本当に自分を上だと思ってるのか?」

 喪部は悠然と近づいてくる。葉佩は同じだけじりじりと退く。今から刀を抜いたのでは間に合わない。仕方がないので喪部に向かって撃ち尽くした短機関銃を投げつけながら腰のコンバットナイフを引き抜いた。

 そのまま頭を狙ってナイフを薙ぐ。喪部は短機関銃を叩き落としてその勢いのまま右腕を振るう。咄嗟に避けないのは変生した体の自信のせいか、自らの攻撃の方が早いと確信しているからか。

 翳した左腕に衝撃が来る。同時にナイフが喪部の角を掠る。

 それでようやく喪部の変生が解けた。角が消え、肌の色が戻る。それを視認するより早く、よろけた喪部を蹴り飛ばす。

 追撃はせずに床に倒れたままの喪部を油断なく見る。左の前腕がズキズキと痛い。恐らく折れている。既に冷汗が止まらないしそのうち腫れてくるはずだ。右手にナイフを握ったまま、左手でぎこちなく床に転がっていた喪部の拳銃にセーフティをかけてベルトに差す。これで生身の人間同士、銃まで押収したのだからある程度の優位はあるだろう。

 喪部が顔を顰めながら体を起こす。意外にもその目は静かだった。

「キミだって、そこらにいる奴らを憎んでいるだろう。平凡で、考えることをせず、プライドも持たずに停滞に安住しようとする愚か者たちと同じになりたくないと思っている」

 葉佩はふうと息を吐いた。葉佩が喪部を知った気になっているのと同様に、喪部も葉佩を知った気になっているらしかった。

「……そうかもね」

 人間の顔をした喪部に部下を呼ぶ気はないようだった。性格からしてそうだろうし、そもそも喪部は《秘宝の夜明け》レリック・ドーン自体に忠誠を誓っているわけではない。彼の目の前で部屋の中央の台座に戻って秘宝を手に入れる。「秘宝を入手しました」というH.A.N.Tのアナウンスががらんとした空間に響いた。

「外のやつら撤退させてくれない?」
「嫌だと言ったら?」
「お前と問答する気はない」
――キミに聞きたいんだが、」
「問答する気はないって言ってるだろ」
「それならキミは、どうしてそちら側に立っているんだ?」

 喪部の声は平坦だった。いつも含まれている尊大さも見下しも誇大妄想もなくて、いよいよ同類にされてしまうと葉佩は顔を顰める。

「あの人たちは、おれのことが好きなんだよ」
「それが?」
「だからだよ。それが全部だ」
「そんなもの、キミには関係ないだろう」
「おれは関係したいんだ」
――度し難い愚かさだな」

 吐き捨てるような言葉と共に喪部は踵を返して去っていく。《秘宝の夜明け》レリック・ドーンは撤退するだろうが、葉佩が遺跡を出られるようになるまでには時間がかかる。ジャケットの袖を捲って左腕の様子を確かめながら、葉佩はのろのろと遺跡の床に座り込んでアサルトベストから救急キットを取り出す。手当てをしながらため息が漏れた。

「……言っちゃったなあ」

 葉佩は喪部の側にはいられない。人間の輪から逃げ出そうとしながら、最後の一歩を踏み出せないままここまで来た。本当のことを言うなら、愛したいとさえ思っている。関係したい。今の葉佩に言える精いっぱいの言葉は、どこまで行けば愛になるのだろう。

 名残を惜しむように遺跡の天井を眺めて、葉佩は放り出された短機関銃を拾うとマガジンを交換する。骨折はどうにかなる。帰らなければいけない。



*****



 皆守が大学三年生になった冬、葉佩が皆守の部屋に転がり込んできた。かつて學園のあらゆる場所に出没しあらゆる備品をくすねていった態度と比べると、葉佩からの伺いのメールは気味が悪いほど丁寧だった。「久しぶり」から始まるメールはしばらく日本にいること、できれば泊めて欲しいこと、無理にとは言わないし必要な対価は渡すことが書かれていた。

 皆守が住んでいるのは単身者を想定した1Kの部屋だ。葉佩もそれは知っているはずで、その上で頼んでくるのなら皆守に断る理由はない。そもそも皆守はあれからきちんと客用布団を買っていた。

 約束の日の夕方、皆守が大学から戻ってきたときには既に葉佩は部屋の前で待っていた。大きなバックパックを横に置いて、壁にもたれ掛かって文庫本を読んでいる。皆守が気づくのとほぼ同じタイミングで目が合って、皆守が歩み寄る間に本は仕舞われてしまった。

「久しぶり」
「ああ」

 葉佩と会うたびに、奇跡が起こっているような気がする。喜ばしいというよりも、信じがたいという気持ちが大きい。十二月のあの日にもう会えなくなるはずだった人間が目の前にいる。葉佩の意思が未だに皆守に向いている。

 皆守が玄関を開けると続いて葉佩も部屋に上がる。独立した洗面台はないのでキッチンで手を洗わせて、かつてと同じようにローテーブルに向かい合って夕飯を食べた。メニューはレトルトのカレーだったが、湯煎されているパッケージを見た葉佩が懐かしむような顔をしたので軽く足を蹴っておいた。

「何があったんだ?」
「何もないよ。皆守に会いに来た」
「仕事は?」
「しばらく――一か月くらいは休むって言ってある」
「それで何もないって?」
「本当だよ。みんなに会おうと思って。八千穂と白岐とは今度の土曜に会う約束した。他のみんなとも日程調整中。皆守も来る?」

 そっと表情を伺うが、皆守にはそれが嘘かどうかわからなかった。

「俺が行ったってどうしようもないだろ。何もないならそれでいいんだ」
「そう?」

 葉佩は小首を傾げたが、皆守に撤回する気はなかった。

「あとレポートがある」
「ふうん」

 皆守は大学三年生だ。授業は専門性が増して一回一回が重たくなり、実験やゼミの課題も多かった。

「明日も大学?」
「ああ」
「スケジュール教えといてよ。家のことやっとくから」
「別に、そんなことしなくても泊めてやるが」
「おれが暇なんだ」

 その日のうちに葉佩は皆守から皿洗いと風呂掃除の仕事を取り上げた。

 葉佩が家事をしている間、皆守は中途半端に実験のレポートに手をつけたり、意味もなく冷蔵庫を開け閉めしたりと落ち着かなかった。高校生の頃はどうしていたのか、何なら昨日までどのように過ごしていたのか、さっぱりわからなくなっていた。

 葉佩が風呂に入っているうちに、思い出したように客用の布団を引っ張り出す。近所の大型スーパーで買った、一式がパッケージされた安物だ。ずっと押し入れに仕舞いっぱなしだったので防虫剤の匂いがして、干しておくんだったと後悔した。風呂と、ついでに掃除を済ませた葉佩は床に敷かれた布団を見て眉を下げた。

「なんかごめん」
「謝るくらいならちゃんと使え」

 いつもより早い時間に布団に入って照明を消したところで葉佩のぽつんとした声が聞こえた。

「おれ邪魔だったらいつでも出て行くからね」
「なんでだよ。いろよ。九ちゃんが泊めてくれって言ったんだろ」

 ベッドの上で寝返りを打って葉佩の方を向く。照明を消してもカーテンの隙間から街灯の光が入り込んで、部屋は完全な闇にはならない。床に敷かれた布団を覗き込んだが、葉佩は皆守に背を向けていた。

「皆守が落ち着かないだろ」
「別に、いい。そのうち慣れる」

 自分たちはこんな風だっただろうか。皆守は薄闇に目を細める。葉佩の声は小さいがはっきりしていて、静かな部屋によく通る。それが馴染まない彼我の距離を示しているような気がする。

「九ちゃんが嫌じゃないなら、いつまででもいていい」

 返事はなかった。しばらく待った後、皆守はもう一度寝返りを打って目を閉じた。

 翌朝、皆守が目覚めたときには葉佩は既に起きて朝食まで作り終わっていた。

「おはよ。朝飯食べる? いらないならおれの昼飯にするけど」

 キッチンからは炊けた米の匂いがして、ローテーブルの上にはハムエッグが二皿並んでいた。葉佩は汁椀にご飯をよそって既に食べ始めている。割り箸を使っているのは皆守がコンビニで貰ってそのままにしていたものを見つけ出したらしかった。皆守はカレースプーンならいくらでも持っているが、箸は一膳しか持っていない。

「食べる」

 一緒に朝食を食べて、いつもより早い時間に家を出た。時間に余裕があるので駅までの道をゆっくりと歩く。時間帯が違うせいでいつも開いている弁当屋のシャッターが閉まっていた。その店の前を店員らしい男性が掃除している。少し歩く時間が変わるだけで様相が変わる景色を眺めながら、皆守は自分の気持ちが上向くのを感じた。皆守は普段朝食を食べないし、遅刻ぎりぎりまで眠っている。葉佩が皆守とは違い活動的なのは知っていたが、実際にその様子を目の当たりにするとあまりの違いに驚きながらももっと知りたいと興味を惹かれる。

 高校生の頃も葉佩に起こされたことはあったが、それは葉佩が寮を出る前に皆守の部屋のドアをノックするだけだった。「皆守朝だぜ」の声に「先行ってろ」と返すと葉佩はそのまま校舎へ向かう。「待ってろ」を返すと「あと五分なー」と待っている。二人の生活はドア一枚を隔てた別のものだった。

 他人とこんなに近くにいるのは初めてで、皆守はかつて掴み損ねた選択肢を思い出した。

 仕事でもないのに葉佩は精力的に活動しているようだった。毎日皆守より早く起きるし、皆守が年に一回もしないような家事にも手を出している。布団は干され、窓は拭かれ、玄関はきれいに掃かれた。皆守のジャージを借りたいと言ってきたのでおそらく運動だかトレーニングだかも欠かしていないし、皆守が大学から帰宅したときには大抵夕食を作り終わって本を読んでいる。最初は葉佩が持ち込んだ文庫本だったはずだが、皆守の大学一年生の頃の教科書にまで手を出し始めた。高校生の頃も葉佩の一日は四十時間くらいあるのではないかと疑っていたが、傍で見ていると葉佩だけ倍速で動いているような感覚のほうが近い。疲れないのかと訊くと、「暇の方が耐えられない」と返ってきた。

 皆守も葉佩のいる生活に慣れて、部屋でレポートを書いたりだらだらとグルメ雑誌のカレー特集を眺めたりということが出来るようになっていた。葉佩も皆守の教科書を読むかストレッチをするかして勝手に過ごして、皆守が「寝る」と宣言すると布団を敷く。そういう流れが出来ていた。

 葉佩が家に来て数日経ったその日もそうやって布団に入ったが、電気を消してしばらくしてから葉佩が布団を抜け出す音を聞いた。ぺたぺたと裸足がフローリングを歩く音が遠ざかって、皆守は微睡みながら手洗いかと考えていたが、いつまで経っても戻って来ない。皆守が起き上がって様子を見ると、葉佩はキッチンの床に座り込んでいた。

「どうした?」

 キッチン周りには窓がないので、夜の部屋の中でも一層暗い。皆守の目でも葉佩は彩度を失った輪郭に近い姿をしている。その黒い塊は流し台に頭を凭れかけてぼんやりと天井を眺めている。少しだけ頭が傾ぐ気配がして、葉佩が皆守を見たようだった。

「眠れないだけ。皆守は寝てなよ」
「眠れないにしても布団に入ったらどうだ?」
「いい」

 皆守は立ち去らなかった。静かな空間に響く冷蔵庫のぶーんという低い音を聞く。しばらくして、闇の中からため息が聞こえた。

「……あんまり、家が好きじゃないんだよね」

 ここに来た初日、葉佩が出て行こうかと尋ねたことを思い出した。それは皆守への遠慮というより葉佩自身に由来するものらしい。

「夜家にいると、どこにも行けない気がしない?」
「九ちゃんでも?」

 間抜けな問いだったかもしれない。葉佩は「何それ」と息だけで笑った。

「家のさ、帰る場所ってところが嫌なんだ。夜はここにいなきゃいけないし、昼間出かけても戻って来なきゃいけない」
「それなら、今から出かけるか?」

 思いがけずするりと言葉が出た。皆守にとって夜は眠る時間だしぬくぬくとしたベッドこそが故郷だとすら思っている。ここに住み始めてからも帰宅が遅くなったことはあるが零時を回るような時間帯に進んで外出したことはない。ただ、どこにも行けないという気持ちはよく分かったし、散々夜に遺跡を探索した経験があれば外出に躊躇はない。何せ目の前には皆守を探索に引きずり出した張本人がいる。

 普段の自分からは想像もできないほど思い切りよく何かを言えたことに驚いたが、葉佩の影は首を振った。

「今出て行ったら戻って来れないかも」
――そもそも、どうしてここに来たんだ?」
「いられるとしたら、ここだと思ったから」

皆守は寝なよ、おれも布団入るから。

 葉佩が立ち上がるので皆守が先導する形でキッチンを出た。ベッドに入ってから、薄闇の中で布団に横になった葉佩の後頭部を眺める。目を閉じているのかどうか、そもそも眠るつもりがあるのか、背後からではわからない。沈黙の中、窓の外でスクーターが走る音を聞いた。光がカーテンを横切っていく。葉佩が身じろいで小さく衣擦れの音がした。

「さっきの、どういう意味だ」
「うーん? 何て言えばいいんだろう。おれは皆守が好きってこと」
「わからない」
「うん。おれの問題だから……」
「ただ、俺も九ちゃんのことが好きだぜ」
「違うよ。そんなこと言わせたいんじゃない。ごめん――おれはずっと皆守の優しさを掠め取ってるな」
「優しいのは九ちゃんだろ」
「最初におれに親切にしたのは皆守の方だよ」

 布団にくるまっていても、眠くはなかった。緊張していたのもあるが、それ以上に葉佩との話に集中したかった。皆守は葉佩に重い話をしてしまったけれど、葉佩の話はちっとも聞けなかった。あの頃の皆守には余裕がなかったし、同級生の友人と言うには葉佩に隙がなかった。

「皆守は優しいよ。繊細で、律義だ。傍にいる人間についつい情を傾けてしまう。目の前で起こっていることを無視できない。それに流されたくなくてドライなふりをしてるだけ。おれはそれに甘えて家にまで押し入ってる」
「買いかぶりすぎだ」
「そう? おれの優しさなんて、吹けば飛ぶようなもんだよ。ただ片手間でやっているだけだ。何をやっても他人事で、誰かに心を砕くこともない」

 皆守が何か言う前に葉佩が息を吸う音を聞いた。

「おれはずっと、みんなからいろんなものをくすね続けて、自分のために浪費して、皆守のことが好きなのは本当なのに、何一つ明け渡したいとは思わない。軽蔑してくれていいよ」

 葉佩が布団をかぶり直す。皆守はしばらくの間、水底のような色をした部屋をじっと見つめ続けた。

 次の日の朝は葉佩に起こされた。

「皆守、いつも起きてる時間だけど」

 そう言われて慌てて体を起こすといつも通りテーブルに朝食が並んでいた。布団も畳まれているし葉佩の着替えも済んでいる。いつも通り順調な一日の始まりだったが、葉佩がどう思っているのかは分からなかった。朝の光の下で見る葉佩の顔は普段と変わらない。

「九龍」

 葉佩は夕飯の食材に肉や果物といった贅沢品を買って来るくせに、皆守がいいと言っても食器を買い足さない。葉佩の手元の汁椀と割り箸に皆守は目を眇める。

「俺が出て行けということはないから、お前が嫌になるまでここにいろよ」

 葉佩は眉を寄せたが嫌とは言わなかった。

 皆守はいつも通りに大学に向かい、ほとんどぼんやりとして一日をやり過ごした。座学の授業はあとで同級生にノートを写させてもらうことにして、授業が終わって早々に大学を出る。

 鞄を片手に一人で帰り道を歩きながら、葉佩と二人で並んで下校していた頃を思い出した。自主的な早退をしない限り、皆守は大抵葉佩に声をかけて一緒に校舎を出た。最初は學園をうろうろと歩き回る葉佩をけん制するためだったのだが、そのうちそんな思惑も消えてただの習慣になった。

 それが習慣になり始めた最初の頃、下校する途中で葉佩がすっと道を逸れたことがあった。

「おい」
「今日はこっち通る」
「生徒は速やかに下校することになってるんだよ」
「まだ部活やってる時間だから」

 問答している間も葉佩は歩みを止めなくて、仕方なく皆守はあとを追いかけた。追いついて横に並んだところで葉佩が前を指差す。

「弓道場のとこの金木犀がいい感じなんだよ」
「いい感じって何だ。もう見たんなら別にいいだろ」
「気づいたの夜だったから。明るいときに見たくて」
「堂々と夜に出歩いた話をするな」

 正直に言うと神鳳がいるだろう弓道場に近づきたくはなかったが、今さら引き返すのも不自然だった。気が進まないのを態度で示そうと皆守はことさらゆっくりと足を動かしたが、葉佩は同じ速さで皆守の横を歩いた。その頃には、葉佩が一人で歩くときは早足な部類だと知っていた。きまり悪く眺めた葉佩の革靴は、真新しくピカピカと夕日を反射していた。

 弓道場の脇まで来て、矢が的を射る音を背景にこぢんまりとした金木犀の木と向かい合う。オレンジ色の夕暮れに馴染む小さな花は可愛らしかったが、せいぜい一分咲きで「いい感じ」とは程遠かった。

「気が早かったんじゃないか?」
「夜だったからなあ。匂いがしてテンション上がっちゃってよく見なかったかも」
「そそっかしいにも程があるだろ」
「でも匂いするって。皆守ちゃんとわかる?」

 アロマパイプを銜える皆守に向かって葉佩は揶揄うように笑った。

 皆守があの學園で金木犀を見たのはその一度きりだ。葉佩について行かなかったなら皆守は金木犀の時期を思い出すこともなかったし、學園内に存在することすらも知らなかった。そういう思い出がたくさんある。

 皆守にとって、葉佩は世界の美しさを知り、そこへ歩いていける人間だった。葉佩について歩いて葉佩と同じものを見ると、摩耗した感性が蘇るような気がした。ずっと眩しく遠いもののように思っていた。

 だから昨日の葉佩の言葉が分からない。葉佩がどこにも行けないと語ることも、優しくなんてないと語ることも、何一つ。

 何かに裏切られたような気がしている。理屈に合わないことが起こっている気が、世界の前提が崩れたような気が。葉佩がどこへも行けないのなら、ほかの誰があの夜を抜け出せる。葉佩が優しくないのなら、ほかの誰がその形容に値する。

 ただ、そうして姿を現すのは生身の葉佩だ。暗がりに蹲る葉佩を思い出して、皆守の心臓は心細さに震える。その感覚は、かつてあのひとと向かい合ったときとよく似ていた。固い壁だと思い込んでいたものから生身の脆い人間が姿を現したあのときも、皆守の心臓はひたひたとした恐怖と不安に侵された。色を失った頬と、震える肩と、それでも無理矢理に笑みの形を作った唇を皆守は忘れたことがない。

 その記憶を振り返って、皆守は同じ愚かさを繰り返そうとしている自分に気づく。

 葉佩の見ている世界、横に並びながら道を示した指先、未だにそういうものを分けて欲しいと思っている。葉佩は皆守が身近な人間に情を傾けていると言うが、随分甘い見方だと思う。他のものが目に入らないだけだ。皆守の世界は未だ曖昧模糊としていて、だから視界に入った目の前のただひとり、ただひとつに執着しているだけ。

 葉佩は何を考えているのだろう。家が嫌いだと言いながら、どうして皆守の許に泊まるのか。それに喜ぶ皆守の心境など知らないはずだ。考えながら皆守は一人で家路を辿る。

 葉佩に出て行かれる想像もしていたので、部屋が近づくにつれ漂ってくる料理の匂いにほっとして玄関のドアを開ける。葉佩はいつも通り家にいた。夕食の並んだローテーブルを挟んで向かい合って、昼間黒塚と会っていたという葉佩の話を聞く。石のコレクションが増えていたのを見せてもらったとか、大学の同好会で石仲間に出会ったらしいとかいう話だった。葉佩がかつてのバディ達のうち何人と連絡を取って再会したのか皆守は把握していないが、会う意思がある人間全員と都合をつけるつもりらしい。つまりバディ全員ということだろうと皆守は思っている。

「高校のときも、寮生活が嫌だったのか?」

 訊ねたのは食後、皿洗いを終えた葉佩が皆守の教科書を開いてからだった。今は線形代数に手を付けているようだった。高校時代の葉佩は数学が得意だったので興味があるのは間違いないだろうが、もしかしたら新しく本を増やすのも躊躇っているのかもしれない。葉佩の稼ぐ金額からしたら大抵のものは気軽に買えるはずだった。

 葉佩はうーんと首を傾げた。

「期限付きだと分かってたから、そこまで。あの頃は新米で勉強に忙しかったし、遺跡があったし」
「……だろうな。俺の忠告なんて何一つ聞かなかった」
「阿門が律義だったからね。おれは生徒会に虐められるか闇討ちされるかを警戒していたのに、正々堂々と墓で勝負だもんなあ。これはもう探索するしかないって思って」
「図太いやつだな……」

 皆守はぐしゃぐしゃと自分の髪の毛を掻き回す。転校初日の皆守の忠告は無駄どころか逆効果になったのかもしれない。生徒会の恐ろしさを伝えようと言葉を尽くし、日々職務と友情に揺れていた当時の自分が哀れだ。

――俺は、お前の全部がそんな風にできていると思ってた」
「幻滅した?」
「いや」

 高校生の頃は、葉佩も皆守も口に出す話題を選んでいた。昼飯、授業、くだらない雑談、オカルト、友人の話。飽きるほど話をしたのに終わりが来る日まで決定的なことは何一つ話さなかった。今は、皆守の認識からブレながら目の前に存在する葉佩を知りたかった。

 それでも葉佩は夜に布団を抜け出し続けた。皆守はもう追いかけることもせず黙って寝入るように努めている。時々葉佩がキッチンから戻ってくる足音で意識が浮上することもあるが、そういうときにも何も言わない。

 ぺたりと素足が床から離れる音を聞きながら、皆守は意識してゆっくりと呼吸を繰り返す。皆守は感覚のほとんどを視界に頼っているので目を開けたくて仕方がないのだが、黙って瞼の裏の暗闇を見つめ続ける。キッチンから戻ってきた足音は、大抵ベッドの脇でしばらく立ち止まる。そのあと黙って布団に入るときもあれば、手を皆守の口元まで持ってきて呼吸を確かめる日もある。何をしているのかとは聞かなかった。葉佩も皆守が起きていることには気づいているだろうから、それでも必要なことなのだろう。その理由に思い至ってしまえば皆守は何も言えない。

 その夜も、葉佩がそうやって皆守の顔の前に手を翳してきた。瞼を閉じていても世界が未だ暗いことは認識できて、葉佩が明け方まで起きていたのではなくてよかった、と静かに息を吐きながら思う。葉佩は一度キッチンから戻れば布団に入ってじっとしているので、眠れてはいなくとも体を休めることはできるはずだった。

 皆守は大抵壁を向いて眠るので、葉佩は覗き込むように体を傾ける。空気が動いて、閉じた瞼越しにほんの少し影が濃くなるのがわかる。そして手が口元に翳される。皆守は意識してゆっくりと吸って吐いてを繰り返す。しばらくすると再び気配が動く。去っていくかと思った手は、するりと皆守の額に張り付いていた髪の毛をまとめたあとで今度こそ離れていく。

 皆守の背後で大きく空気が動く気配がして、葉佩は布団に入ったようだった。しばらくじっと固まった後で、皆守は寝返りを打って葉佩の方へ体を向ける。目を開いて、薄闇に沈む部屋を認識する。葉佩は皆守に背を向けて横になっていた。

 じりじりと手を動かして、葉佩にされたのと同じように髪を弄る。そんな風にされたのは初めてなのに、ずっと前にも同じことがあったような気がした。素っ気ない、あってもなくても違いがないような気遣いに覚えがあった。

 何がしたい。思い出したように皆守はそう思った。高校生の頃、もう三年近く前の守ってやるという意気込みだけの思いは潰えてしまった。それで俺は今、葉佩のために何がしたくて、何ができる。皆守はじっと薄闇に目を凝らした。

 そっと腕を伸ばすと、葉佩の髪に指が触れた。皆守の癖毛とは違う、真っ直ぐで固い髪がつんと指先をつつく。葉佩が一瞬体を固くして、さっきまでの皆守と同じように意識的に弛緩する。

 黙ったまま、葉佩の頭を撫でる。丸い頭から仄かな体温と、静かに皆守の手を受け入れる葉佩の意識を感じ取る。あの夜の、葉佩との抱擁を思い出した。あの微かな温もりと接触を思い出すだけで皆守の体から緊張が消える。一度きりの祝福は皆守の心臓に染みこんでいる。あの瞬間、皆守は確実に世界に存在していた。自分が確かにそこに立っていることに、あのとき皆守はようやく納得した。体温を分かちあい、二人分の呼吸を静かに聞きながら、自分の輪郭を強く意識した。

貰ったものと同じだけのものをあげたい。

「九龍」
「……なに?」

 背を向けたままの、葉佩の小さな声に息をつく。

「俺は、もう充分お前からいろんなものを貰っていると思う。何一つ、盗られたとは思わない」
「そうかな? おれは何にもできなかったのに」
「何にもなんてのは嘘だろう」
「じゃあ、一番したかったこと」
「それは、俺が自分でやる。――ちゃんと生きる」

 びくりと葉佩の肩が震えた。それを宥めるように短い髪を梳く。

「お前が俺に責任を負う必要はないんだ。――今まで悪かった」
――うん」
「別に、家にいたくないならないでいいだろ。そもそもここは俺の家だから、九ちゃんが必ずいないといけないわけじゃない。夜出かけるならついていってやる。家にいて欲しいならいてやる。九ちゃんはどこにいたっていい。天香のときにもろくに寮にいなかったのに、今さら無理する必要があるか?」
「皆守らしからぬ発言だね」

 もぞもぞと葉佩が寝返りを打って、黒い瞳が皆守を見つめた。皆守の手がそっと目尻を撫でるのを葉佩は許した。

「それと――たぶん、ほかの奴らに聞いても、お前が何かを盗んでいったなんて言うやつはいない」
「何で嫌そうな顔するんだよ」
「ほかの奴と同列にされたいわけじゃない。ただ、お前と知り合った奴全員が、お前から何かしらを貰ったって言うさ」
「そう?」
「お前はまあ、散々ものを盗っていったのは間違いないが、それ以上のことをした。間違いない。それだけは信じろよ」
「……だといいな」

 皆守がそっと瞼を撫でると、逆らうことなく葉佩は目を閉じる。静かな呼吸をしばらく手のひらで感じた後、皆守はゆっくりと手を離した。

 夜の部屋は静かだった。時々聞こえる車の音は背景に沈んで、部屋が世界から切り離されているような気がする。皆守が持つ世界への戸惑いはカーテンに隔てられ、今はただ見知った部屋に包まれる。

「……ここにいる」

 きっと葉佩はこの部屋を眺めて別のことを思うのだろう。恐らくは、閉じ込められていると。ただ、皆守にとってここは小さな城だ。學園を出てからの三年間で築いた、皆守の拠点。部屋は広くないし、物も多くない。皆守は部屋のどこに何があるのかさっと口に出せる。教科書とノートと、料理本とグルメ雑誌と、キッチンのスパイス棚と、肌触りのいいシーツと。この三年間、ここで生きてきた。そして、これからそういうものを増やして生きていく。生きていきたい。とりあえず、葉佩が盗んでいってもいいだけのレトルトカレーと、葉佩に使わせるための茶碗と、箸と、そういうものを増やしたかった。

 葉佩は結局三週間ほど滞在して去った。滞在最終日は休日だったので、皆守は葉佩を見送ることが出来た。玄関で向かい合って、何度も繰り返した言葉を口にする。

「また俺に会いに来いよ」

 葉佩は少し笑って手を振って出て行った。



*****



 葉佩が所属するロゼッタ協会は回収した秘宝の活用ではなく保管を主眼に組織されているので、協会の収入源は秘宝を探す《宝探し屋》トレジャーハンターの本分とは別に必要となる。大雑把に言うのなら、遺跡で見つけた秘宝ほどではない貴重品を求める人に売っている。

 初めてそれを聞いたときは考古学的な見地から問題があるのではと思っていた葉佩も、依頼人たちが求める珍妙な――あまり貴重でもなさそうな――品や、どこの遺跡でも大量に手に入る護符の存在を知ってからは許容範囲だと考えるようになった。そもそも遺跡自体が罠を仕掛けて待ち構えている上に保管を拒むようなつくりをしているので、この職に就いて葉佩は一般的な常識を捨てた。

 葉佩は未だハンターランキング上位に名前を乗せ続けているので、その腕を見込んだ依頼は多いし依頼人からの信頼も得ている。今回中国の小さな遺跡探索を終えて依頼品を発送し終えたときも、気の早い依頼人から返礼品を送ると連絡があった。

 天香學園というアクセスのいい遺跡に長期潜入していた頃はともかく、今の葉佩はほとんど住所不定だ。荷物は協会の日本支部気付にしてもらっている。ともかく一度日本に寄る必要があるだろうと、葉佩はH.A.N.Tを立ち上げて皆守へメールを送った。

「遊びに行く。二、三日後」

 帰国してから協会の日本支部に立ち寄って、不在の間の荷物や手紙を受け取った。届いていた返礼品は古びた燭台で、贈り主を確認すると魔女を名乗る女だった。

「うーん?」

 添えられていた手紙には魔や霊といった葉佩の守備範囲外の言葉が書かれていたので、葉佩には扱いきれないだろうとダンボールの蓋を閉じる。そのまま支部の二軒隣にあるビルに入った貸倉庫へ向かった。葉佩が唯一契約している不動産で、倉庫と言っても屋内の簡素な部屋だ。六畳ほどの広さで、一年中空調が稼働している。その扉を開けて、葉佩は途方に暮れた。

「場所がないな……」

 部屋には宝探し屋の仕事に必要な道具類に加えてファラオの胸像や遮光器ぬいぐるみなど、宝探し屋として知り合った人間からの贈り物が所狭しと置かれている。借りた当初はがらんとしていたはずなのに、今では細々とした物が集まったとき特有の迫力で葉佩を圧倒する。物をかき分けながら空間を探し、石油王から贈られた絨毯の隣に何とか隙間を作って燭台を置いた。

 ぐるりと部屋を見回す。記憶に残るようなものもあれば、いつ誰から贈られたのか忘れてしまったものもある。葉佩はそれを懐かしみながらも少しだけ疎ましく思う。

 葉佩はやっぱり薄情で、今も全てを振り払ってどこかへ向かう夢を捨てられない。世界の果て、地平線の向こう、存在しない何かを追いかけることを諦められない。依頼人たちにとっての《宝探し屋》トレジャーハンターと、葉佩にとっての《宝探し屋》トレジャーハンターは意味が違う。彼らが大金を支払って望む品に、葉佩は意味を見出さない。だから簡単に渡してしまえる。そのことへの苛立ちも諦念も葉佩の中に巣食っている。これだけの人に喜んでもらえてよかったと言ってしまえば葉佩自身の願いがあまりに哀れだ。

 大切に出来もしなければ捨てることも出来ず、数を増やした贈り物に葉佩はため息をつく。

「……棚を買うか」

 懇意にしている通販サイトの品揃えを思い出しながら葉佩は倉庫を出た。


 電車を乗り継いで、皆守の家の最寄り駅へと向かう。駅を出ると空は茜色をしていた。腕時計を見ると午後五時を少し過ぎたあたりだ。世界中を移動するので葉佩の中で太陽の位置と時刻と季節はあまり連動していないのだが、今回ばかりは冬が遠ざかっているのだとわかった。

 長い休暇を取って皆守の家に泊まったあと、まだ二か月しか経っていない。その間にどんどんと日が長くなっているらしかった。駅前の商店街を歩く人間たちからマフラーやコートが消え始めている。以前見たときは迫り来る夜に追われるように歩いていた人々が、あたたかなオレンジに染められている。それに目を細めてから、葉佩はのんびりと歩き出す。

 ドラッグストア、スーパー、居酒屋、精肉店。そこでは揚げたてのコロッケに人が並んでいる。葉佩はまだ足を動かす。惣菜店、喫茶店、弁当屋、クリーニング屋に来たところで小さな交差点に行きあたり、民家が増える。そろばん塾、古い雑居ビル、真新しいマンション。葉佩は足を動かし続ける。

 進み続けて皆守の住むアパートが見えるようになると、葉佩は一度足を止めた。

「愛している」

 口の中でその言葉を転がして葉佩は苦く笑う。

 人に差し出せるような綺麗な情は、葉佩のどこを探してももう見つからなかった。何一つ透き通っていない、ぐしゃぐしゃと混ざり、切り分けも出来ない心で葉佩は地面に立っている。葉佩の世界はとうに輝きを失っている。皆守が生きると言って、それだけで安堵できるような純真さを葉佩はもう二度と持てない。失ったものは失ったまま、葉佩は一生何かに怯えて怒りながら生きる。

 ただ、かつて差し出したあの心は、確かに皆守の許に存在して葉佩の世界に錨を下ろす。それから逃げ出そうとはもう思わなかった。葉佩は自らを縛る鎖に望んでひれ伏す。

「おれは、皆守を、愛する」

 今度ははっきりと口に出して、葉佩はもう一度歩み始める。何の希望がなくとも、何一つ手に入らないとしても、何も差し出すものが残っていないとしても、残った葉佩自身で皆守の元へ向かう。そこが荒野だろうと砂漠だろうと、葉佩は歩いていける。

 だんだんと皆守の部屋に近づいていく。ゴミ捨て場、個人経営の学習塾、古くからあるらしい広い庭の一軒家、アパート入口の郵便受けと駐輪スペース。

 漂ってくるカレーの匂いに葉佩は息だけで笑った。

 まだ干乾びて死ぬには早いようだった。