万有引力の声

 前を歩く男は傘を差していなかった。

 夏の雨が降っていた。通り雨だ。空は明るく、見上げても青と白ばかりが目に入る。灰色はなく、太陽の光が雨粒をきらきらと照らす。雨のせいで湿度は高く、空気はむっとしている。大粒の、生温い雨粒が頭に顔に腕に当たり、つうと皮膚を伝っていく。

 それを歓迎するように、男は雨に濡れて大股で歩く。少しだけ早足で、弾むようにアスファルトを蹴り出来たばかりの水たまりを避ける。短い黒髪はぺたんとしぼみ、Tシャツは肌に張り付いている。

 皆守はそれを傘の下から見ていた。

 最初は皆守が前を歩いていたのだ。後ろを歩く人間がいることには気が付いていて、皆守は足音が近づいたときには親切心から傘を傾けて通りやすいようにもしてやった。男が傘を差していないことに気が付いたのはその後で、だって足音は急ぎもしていなかったのだと何故だか自分に言い訳をした。

 男は歩いていた。走っているのではなく。傘を知らないというよりも、雨に濡れることを気にしていないか喜んでいるかのような足取りだった。男の姿はどうにも周囲に馴染まない。もしもこの男が乾燥で死ぬ生態をしていると言われても、皆守は信じたかもしれない。それくらい男は雨の中で悠然としていた。

 先ほど通りかかったアパートでは、住人が慌ててベランダの洗濯物を取り込んでいた。この明るさのせいで雨に気づいていないのか、出しっぱなしの洗濯物がちらほらと見える。一軒家の玄関先に植わったアジサイの大きな葉が雨を弾き、ブロック塀が段々と色を濃くしていく。すれ違った学生は傘を持たず、わあわあと騒ぎながら走っていた。

 そういえば葉佩も傘を持っていなかった。

 皆守はそう思い出す。

 皆守が卒業した天香學園は全寮制の、そこそこ広い土地を有する高校で、學園が抱えた秘密もあって東京にしては緑が多い場所だった。敷地内はほとんど舗装されておらず、雨の日にはたくさんの生徒の足跡が寮から校舎まで連なっていた。皆守などはそのぬかるみを見ただけで登校意欲が減衰したというのに、葉佩は平気な顔で、しかも傘も持たずに歩き出そうとするので皆守は思わず呼び止め傘に入れた。

「傘くらい持てよ」

 そう言うと葉佩は肩を竦めた。

「別に、困らないよ」
「風邪ひくだろ」
「ひかないよ」

 何を根拠に、と思ったものだが、結局皆守は葉佩が傘を差しているところを見たことがない。それでずっと皆守が傘に入れていた。風邪を引いたところも見たことがないのは、皆守が傘に入れていたからか、本人の言う謎の自信の結果なのか、ついぞ分からないままだった。

 目の前の男を傘に入れようとは思わないが、男はどうにも葉佩に似ていた。

 葉佩九龍は皆守が知る中でもっとも扱いに困る人間だった。

 高校三年生の、ほんの三か月だけの同級生。共に遺跡を探索するバディであり、かつて玄室で対峙した男。皆守の忠告なんて何一つ聞かないまま、鮮やかに皆守たちを救っていった男。遺跡の攻略を終えるとあっという間に去っていった彼とは別れの挨拶一つできないままで、だから皆守はあれから二年たった今も彼を自らのどこに位置付ければいいのか分からないでいる。

 親友というにはあの三か月が近く、そして現在が遠い。

 皆守は傘の内側から前を歩く男が大股に遠ざかっていくのを眺める。ふと、男が立ち止まりワークパンツのポケットから何かを取り出す。皆守の視力はそれが何かを正確に認識した。

 H.A.N.T.だ。ロゼッタ協会の宝探し屋が使う情報端末。葉佩が使っているのを散々横で眺めていたので、その特徴的な装飾に覚えがあった。

 ではあの男はもしかして葉佩なのか?

 皆守が慌てて走り出すのを気にすることなく男は住宅街の角を曲がる。

「九ちゃ……」

 皆守が追い付いたときには、男の姿は忽然と消えていた。あるのはごく普通の住宅と生活道路だけ。車が二台ぎりぎりですれ違えるだけの細い生活道路と、申し訳程度に引かれた歩道を示す白線と排水溝。角の家は大きな一軒家で、高い塀から松の木が覗いている。その隣はアパート。向かいにあるのは真新しいマンション。

 このどこかに消えたのだろうか? 周囲を見回してもその答えは見つからず、皆守はふうとため息を吐く。そして足元に転がる何かを発見した。

 それは人の形をした土器のように見えた。皆守が知る中で一番近いものを上げるなら、クリスマスによく見るジンジャーマンのビスケットだろうか。極限までデフォルメされた丸い輪郭と、薄茶の色合い、それからサイズがよく似ている。前を歩いていた男が落としたのか、まだあまり濡れていない。

 皆守は人形の顔に開いた二つの丸い穴と見つめ合う。人形の口は薄い線として描かれており、それはほんの少し口角を持ち上げて笑っているようだった。落とし物として警察に届けるべきだろうか。そう思いながら人形をひっくり返したところで、皆守は人形の背中に書かれた文字に気が付いた。

「葉佩九龍」

 右肩上がりの癖の強い字に、皆守は目を細めた。





 家に辿り着いてすぐに皆守はその人形をテーブルの上に置いた。葉佩のものならつまり高確率でこの人形土器は超古代文明に関するもので、それを簡単に警察に預けるのはいかがなものかと思ったのだ。

 葉佩の付き合いで遺跡に潜っていたせいで、オーパーツと呼ばれるものはよく見かけた。宙に浮く輪、永久に減らない電池、恐竜の形の土偶、これもそれらの一種だろうか。あるいは葉佩が護符と呼んでいた何らかのお守りかもしれない。

 皆守は濡れてしまった靴下を脱いで、椅子代わりのベッドへと腰かける。

 皆守は大学二年生だ。昨日までが前期期間で、今日から夏休みを謳歌する身分。ただ、どれだけ自由の身でも東京に借りた単身者用の部屋は狭く、主な家具はローテーブルとベッドだけだ。

 そのベッドに腰かけて、皆守は携帯電話のアドレス帳を開く。葉佩九龍の名前と見慣れないドメインは未だにアドレス帳に残っていた。メール作成画面を開き、ぽつぽつと文章を作成する。

 葉佩は遺跡を攻略した次の日にはいなくなっていた。卒業式にも当たり前に来ず、彼の友人だった誰がメールを送っても返事は来ない。教えられたアドレスも電話番号もロゼッタ協会のものだと思われたので、葉佩は意図的に友人と連絡を絶っているらしかった。

 疎遠になっている友人にメールを送ることは、決して億劫ではなかった。恐ろしくもなかった。むしろ、これなら返事が来るのではないのかという期待のほうが大きく、皆守は慎重に文面を精査する。

 悩んだ末出来上がったのは、用件だけの酷くシンプルなメールだった。「件名:落とし物」「本文:今日東京にいなかったか?土器でできた人形を拾った。後ろにおまえの名前がある」

 送信ボタンを押してベッドに倒れ込む。

「九ちゃん……」

 ぽつりとした声が一人だけの部屋に響き、皆守はその静けさに耐えられないように目を閉じた。どうしてもっと早くに気づいて声かけられなかったのだろう。薄っすらとした後悔と、今後への期待で心臓が奇妙に捻じれて痛んだ。





「行かなくちゃ」

 クリスマスのあの日、全員で遺跡を脱出した後で葉佩はそう言った。ゴーグルを下げていたので、その硬質な目がよく見えた。頬は煤け、額からは血が流れ、服は所々が焼け焦げていた。ぼろぼろの風体で、疲れ切ったように肩が丸まっていたのに、目だけが前を向いていた。

「もう?」

 そう問いかけたのは八千穂だった。「ごめんね」という答えが葉佩の意思を示していて、その場にいる全員で駆け出す葉佩を見送った。ああこれが宝探し屋というものかと皆守はその背中を目に焼き付けて、それなのに未練がましく葉佩との繋がりを望んでいる。

 もう二年も経っている。皆守は大学生で、単位だってそれほど落とさずにやっているし、一人で不便もなく暮らしている。それなのに、どうしてこんなに寂しいのか。

 皆守のため息を、携帯電話の着信音が遮った。ぱっと手に取ると、葉佩の名前が表示されている。慌てて体を起こして通話ボタンを押した。

「もしもし。久しぶり」

 電話の向こうの声は落ち着いていた。こんな声だった、と皆守は思い出す。高くも低くもなく、言葉で説明するには特徴のない、しかし確かに葉佩の声。

「そうだな。久しぶり」

 何かの面接のように緊張している。頭の中では言うべき台詞が三つも四つも出てきて、それを喉の奥に押し込めながら言葉を選ぶ。

「メール見たか?」
「うん。落とし物、拾ってくれてありがとう」

 電話だと、雑談というより一問一答のようになってしまう。それを歯痒く思いながら皆守は言葉を重ねる。

「あれ、九ちゃんのか? 俺、おまえの後ろを歩いていたぞ」
「え、気づかなかった」

 ほんの少し微笑の気配がして、皆守の心臓がほっと落ち着く。

「それで、東京にいるなら渡しに行こうと思うんだが」

 励まされるように続けるのを、葉佩が遮った。

「そのことなんだけど、捨てちゃって構わないよ」
「はあ?」
「それ、護符なんだけどなくて困るようなものじゃないから」
「でも、九ちゃんは近くにいるんだろ?」
「うん」
「なら、」
「もう会わないことにしているから」

 葉佩の言葉がすっと耳を通り抜ける。思考が固まって、一拍遅れて理解がやってくる。皆守はもつれる舌を何とか動かした。

「理由を……聞いてもいいか?」
「理由っていうか」

 電話の向こう側で何か動く音が聞こえる。皆守にその内容を知る術はない。

「ずっとは無理じゃない?」
「ずっと?」
「そう、ずっと。皆守はいつまでおれと友達でいるつもりだった?」
「いつまでって……」

 あの三か月の間に聞かれたなら、皆守は葉佩と墓で対峙するまでと答えただろう。そこが過ぎ去った今、友情に期限などないように思える。

「ずっとは無理だと思うんだ」

 葉佩が繰り返す。そういえば、葉佩はずっと皆守を苗字で呼ぶ。八千穂に対しても、椎名に対しても。

「なら、今疎遠になってもいいんじゃない?」
「どうして今なんだ?」
――本当は今じゃないよ。二年前、おれが天香での仕事を終えたとき」
「この電話も、したくなかったか?」

 確かめるように低い声が出た。

「おれが落とし物をしなければ、電話はしなかっただろうね」

 皆守は何も言えない。電話の向こう側も何も言わない。

――じゃあね、皆守」

 それで電話が切れた。





 携帯電話をベッドに放り投げ、皆守自身もベッドに転がった。

「あー……」

 肺から空気を吐き出すだけの声を上げて、カーテンの向こうの空を眺める。通り雨は止んで、レースカーテン越しに青空が見える。

「ごめんね」
「は?」

 葉佩の声が聞こえた。皆守は携帯電話を確認する。通話は切れている。通話時間四分三十五秒。それなら何が?

 皆守の視線は自然と拾ったばかりの人形へ向かう。

「九ちゃん?」
「でもさあ、おれには耐えられないんだよ」

 間違いなく葉佩の声だ。ノイズのない、先ほどの電話よりも明瞭で小さな声が人形から聞こえる。

「おい、聞こえてるか?」
「元気でやってくれよな」

 こちらの声が届いた様子はない。それきり人形は沈黙し、皆守は途方に暮れた。





 それから皆守が眠るまで、人形は一言も発しなかった。しかし、翌朝皆守が目覚めたのは、間違いなく人形から聞こえる声のせいだった。

「お世話になります。ロゼッタ協会の葉佩と申します」

 柔らかくはっきりとした声だった。寝ぼけ眼で枕元の時計を探ると午前九時。皆守にとっては朝早いが、葉佩にとってはとっくに活動時間のはずの時間だった。ここに至って、皆守はいくつかの推測を立てた。

一、人形から聞こえる声は本物の葉佩のものだ。

二、葉佩はこのことに気づいていない。

三、声は葉佩の生活すべてを伝えているわけではない。

 最後の推測は、朝の一言きりで人形が沈黙したせいだった。誰かしら話し相手がいる風だったが、会話らしいものは一切聞こえなかった。

 葉佩に伝えた方がいいのだろうか。皆守は悩む。プライバシーを侵害しているのは間違いないのだが、昨日さよならを告げられた身でもう一度連絡するには勇気が要った。そしてなにより、昨日の葉佩の不可解な発言。

「おれには耐えられないんだよ」

 一体何に耐えられないというのか。分からないまま皆守は土器の人形を眺める。小さな目と薄くほほ笑んだ口元は、決して葉佩には似ていなかった。





 葉佩は間違っても人付き合いを嫌うタイプではなかった。皆守と出会ったあの屋上でも、ぱちぱちと瞬きをしながらも興味深げに皆守の忠告を聞いていたし、皆守の名前を確かめるように口にして「よろしく」とだって笑って見せた。その後の行動がどうあれ、いたずらに波風を立てる人間ではないと皆守は理解した。

 遺跡の探索が進むにつれて、葉佩の柔和な部分がよく見えるようになった。取手をバディにしたときには銃をほとんど使わず、使うとしても「音うるさくてごめん」の謝罪があった。親しくなった墓守と寮で顔を合わせたなら笑顔で挨拶していたし、八千穂とテンション高くハイタッチしていたこともある。誰とだってうまくやれる人間だと、皆守は疎外感を抱いたことすらある。

 一方で、決めたことであれば梃子でも動かないような頑固さを見せた。

「あのさ、おれの気が済まないんだよ」

 おそらくまだ九月だった。葉佩は屋上でカレーパンを食べながら言った。皆守がまだ隣に座るために対価を要求していた頃。葉佩は貢物のように皆守にカレーパンを捧げていた。皆守は結局あのカレーパン代を払ったことがない。

「そりゃあ、保身を考えたなら何もしない方がいいさ。執行委員だってやり過ごして、こっそり遺跡を探ればいい。でも、それじゃあおれの気持ちはどこへ行くんだ? こんなの見過ごしたくないって気持ちは」
「お前の気持ちがそんなに大事なのか? 転校生」
「そうだよ」

 皮肉のつもりだったのに、あっさりと肯定される。転校してしばらくの間は、彼は学ランを羽織ってはいなかった。まだ真新しく輝く白いシャツが、ぴかぴかと青空の下で眩しく皆守は目を細める。

「好きなものは好きで、嫌いなものは絶対嫌い。おれはそういうのを大事にすることに決めてるんだ」
「好き嫌いなのか」
「ちょっと違うけど。似たようなもんかな」
「お前のルールに従ったら世の中大変なことになるな」
「そんなことないよ」

 葉佩は笑いながらカレーパンの袋をくしゃくしゃと丸め、スラックスのポケットに放り込む。

「おれは好き嫌いの少ないことに定評がある宝探し屋だから」
「嘘をつけ」
「本当だよ。ロゼッタ協会に聞いてみればいい」
「何をだよ」
「パクチーも納豆も激辛麻婆豆腐だって食べるよ」
「遺跡で拾った怪しげな食材もな」
「そうそう」

 葉佩の素っ気ないつくりの顔がぱっと笑みの形に変わる。少しだけ眉が下がって、目が半月の形にたわむ。皆守がよく覚えている顔だった。





 皆守はとりあえず冷蔵庫に貼ったカレンダーで不燃ごみの日を調べた。皆守の住んでいる地域では不燃ごみの収集は月に二回。次の収集は丁度一週間後だ。それまではこの土器は捨てようにも捨てられない。

 仕方なしにテーブルに置きっぱなしにすると、人形はよく喋った。ローテーブルの上、大学の教科書やコルクのコースターと一緒に、人形がぽつりと鎮座している。

「うーん? 主に木造? 珍しい――とはいえここの木材が今まで保存されていること自体が超古代文明の証ということになるのかな? 石は――花崗岩と――

 葉佩は遺跡の探索に精を出しているようだった。遺跡とこの土器の相性がいいのか、遺跡に関する言葉は漏れなく聞こえてくる。

「モチーフは古代エジプト風――風っていうのもおかしいか、超古代文明だもんな――ではないんだよな――強いて言うなら――

 皆守の部屋にはテレビがないので、葉佩の声をBGMにだらだらと部屋を片付け、グルメ雑誌を読んだ。こうしていると寮生活を思い出す。葉佩はよく皆守の部屋にやってきては小説や漫画雑誌を読んでいた。驚くことに、葉佩はC組の漫画共同購入会――金を出し合って漫画雑誌を購入して回し読みをする会だ――に出資しており、葉佩が雑誌を回す先が皆守のふたつ隣の部屋なのだという。

「そんなの読むのか」

 宝探し屋のイメージと葉佩が手に持っている少年誌が結びつかず、皆守は思わず声をかけたことがある。

「読むよ。高校生だもん」

 勝手にベッドに横になってぱらぱらと雑誌を捲っていた葉佩は、ちらりと雑誌から顔を上げて「おれのことなんだと思っているの」と唇を尖らせる。葉佩の着ているスウェットは新品だったはずだが、いつの間にかくったりとした風合いになり、古い寮に馴染んで見える。確かにこうしてみるとただの高校生のようだ。

「俺は葉佩が高校生ってところから怪しんでいるが」
「正真正銘の十八歳だよ」

 鼻を鳴らす皆守に葉佩はくすくすと笑う。その声は古くどこか薄暗い寮の部屋をぱっと明るくする。

「宝探し屋から見ると、冒険ものだってちゃちに見えるんじゃないか?」
「そんなことないって。おれは冒険小説読んで宝探し屋を目指したんだから」

 初めて聞く話だった。自分の部屋だというのに皆守はどこかぎこちなく立ち尽くす。

「皆守は読まないの?」
「読まないな」

 皆守がどこか小ばかにするように肩を竦めるのに、葉佩はめげずに雑誌を差し出す。

「じゃあタイトル聞いたことはある? これとか」

 葉佩が示す雑誌を覗き込んで、「これは知っている」「これは知らない」と伝えていくと、「有名だもんね」「勿体ない」と相槌が返ってくる。それから葉佩は雑誌を読み始めて、「この漫画今週がバトルの山場なんだけど、」などと聞いてもいないことをつらつらと語り、皆守はそれを聞き流しながら葉佩をベッドの端に追い立てて自分も寛ぐ。

 今思い返すと、まるきり普通の高校生のやり取りだった。皆守はあれからも漫画を読むことはほとんどないが、コンビニの雑誌コーナーを通りかかるときには、どこかで葉佩もこれを手に取っているだろうかと薄っすらと思う。





 皆守は陽が落ちる時間になってのっそりと部屋を抜け出した。人形からは「うーん、今日はおしまいかな」という声が聞こえたきりになっていた。夏の夕方だった。ミンミンゼミの特徴的な鳴き声と、皆守にはそれ以外としか言いようのない蝉時雨が茜色の空を満たしている。沈みかけた太陽は未だじりじりと肌を焼くが、空気はどことなく夜の気配を纏いつつある。皆守はそのなかをサンダル履きとTシャツにスウェットのラフな姿で、しかし確かな目的を持って歩く。

 昨日葉佩が消えた場所を探しに行くつもりだった。葉佩が探索作業をしているとするなら、九割九分そこだという確信がある。皆守の家からは歩いて六分、最寄駅からは歩いて七分のただの住宅街。

「……いないか」

 皆守は確かめるように口に出す。一軒家、古いアパート、新しいマンション。一軒家の塀からは松の木が覗く。昨日と変わらない光景だ。そもそも葉佩はどこへ消えたのだろう? 皆守は目を細めるが、景色におかしなところは見当たらない。

 仕方なしに踵を返そうとする皆守の視界の端で、ちらりと立ち止まっている男の姿が目に入った。皆守と同じように、葉佩が消えた曲がり角を眺めている。

 帽子をかぶった若い男。男というより少年か青年と言ったほうが近いのかもしれない。皆守と同年代か、それより年下に見える。手に地図をもっているのはこのあたりに不慣れだから。この角に何があるというのだろう?

 あるいは、葉佩の同業者? ありえなくはないだろう。葉佩は十八で宝探し屋をやっていた。

 ちらりと脳裏を掠めた思考をピンで留めるように反芻して、皆守は改めて踵を返した。





 一人暮らしでは言葉を発することがあまりない。大学も夏休みとなればなおさらで、皆守が最近話した言葉と言えばコンビニでの「あたためてください」くらいのものだ。ちなみにそのときは新発売の洋風カレーライスを買った。

 葉佩もそれは同じなのか、人形は仕事中の独り言以外ほとんど言葉を発することがない。

 だから次の日葉佩の独り言で目を覚ますと、皆守は部屋を出て大学の図書館へ向かった。帰ってくるのは夕方、土器が静かになった頃だ。皆守の考えた葉佩の要望とプライバシーとの両立だった。

 怠惰な夏休みを過ごすつもりだったのに、結果として皆守は縄文土器や古代エジプトの本について読み漁ることになった。皆守はある程度恵まれており、生活に関してアルバイトをしなくても賄えている。しかし毎日カフェで時間を潰すほどの金はなく、無料で使える冷房の効いた場所といったら図書館くらいしか思い浮かばないのだった。

 だからそこまで勉学に熱心というわけではなかった。図書館に来ても、読むのは講義に関する本ではなく適当に目についた本ばかりだ。

 皆守が大学に進学したのは、単に、就職するような余地が残されていなかっただけなのだ。高校三年生の冬、思いがけず未来への道が開けても、皆守にその道を吟味するような知識も心構えもなく、担任の雛川の力を借りて大学に滑り込んだ。

「あなたが得た経験や知識は、いつかあなたの力になりますよ」

 雛川は穏やかにそう言ったが、ただ単に學園を出て次の学び舎へと移っただけ。自分自身がそのような印象を拭えないでいる。





 モラトリアムの只中にいる皆守は、葉佩のやけにはっきりとした言葉を覚えている。

「わかるよ」

 學園の外について話をした時だったと思う。

「わかるって言ったらおかしいかな。でも、わかるんだと思う」

 学校の屋上は茜色に染まっていた。遠く新宿のビル群はシルエットとして聳え、葉佩も逆光で影として見えた。遠く、異質なもののように。

「場所が持つ引力みたいなものがあって、おれたちはそこから離れるためにたくさんの努力をしないといけない」

 葉佩の声は詩でも暗唱しているかのように静かで、まるで何か、自明のことを宣言しているように厳かだった。

「九龍?」
「違うかな?」

 葉佩の学生服がやけに場違いに見えた。「物理でやったよね。脱出速度のはなし」それなのに語る言葉はまるきり学生のそれだ。

「……俺がまともに授業に出ているように見えるか?」
「あはは」

 葉佩は笑って、「脱出速度は、推進力を持たない物体が別の大きな物体の重力圏から脱出するために必要な最低速度のことで、」

「わかんねえよ」

 毒づいた皆守に葉佩はほほ笑む。

「例えばおれがここから真上に向かってボールを投げる」
「は?」
「ボールは地面に落ちて来るだろ?」
「そりゃあな」
「じゃあ、おれがものすごく速くボールを投げたら? ロケットよりも速く?」
「宇宙に行って戻ってこない」
「そう。それが脱出速度」
「それで?」
「それだけ。出ていくのって難しいよねってはなし」

 その言葉は皆守への慰めだったのかもしれない。二人が立っているのは學園の屋上だ。遠くに街が、近くには木々と校舎が見えた。





 夕方、図書館からの帰りには葉佩が消えた道を通った。別に遠回りでもなんでもなく、駅と皆守の家の中間に位置しているのだ。落とし物を拾った日だって駅前のコンビニからの帰りだった。

 皆守はそこで古いアパートから出てくる男を見かけた。そして、その帽子に見覚えがあった。昨日も同じ場所で見かけた、地図を持った男だ。

 泥棒だろうか? 皆守がじっとその男を見つめると、男は後ろめたさを見せずにちらりと目線を返す。泥棒にしては堂々としていたが、目深に帽子をかぶった様子は不審者にも見える。

 ほんの少しだけ男と見つめ合った後で、皆守は家への一歩を踏み出した。

 家へ帰り、皆守はスーパーの買い物袋をキッチンの調理台へと置く。今日はカレーのつもりで、まな板を取り出し包丁を握る。

 カレーは未だに好きだった。學園を出たと実感するときがあるとするなら、それは雑誌に載っているようなカレー屋に並んでいるときだろう。知っているカレーの種類が増え、キッチンも広くなり、皆守のカレー作りの腕は上がり続けている。





「将来はカレー屋だ」

 葉佩はそう言って笑っていた。皆守が作ったカレーを食べていたときだ。探索を終えてから、葉佩の部屋で夜食を食べるのが最近の流行だった。

「美味いな! これお店で出せるぜ」

 どこかこそばゆく思いつつも、皆守はふふんと鼻を鳴らす。

「そりゃあな。でも、九ちゃんの舌を信じてもいいのか?」
「なんでだよ。褒めたのに」
「いつも遺跡で得体のしれないものを食っている奴に言われてもな」
「でも皆守だって自信作だと思ってるだろ? そういう顔してるもん」

 図星を突かれた仕返しに葉佩の肩を小突くと、葉佩も同じように小突き返してくる。

「皆守がお店開いたら、おれ食べに行くよ」
「食べる専門か?」
「じゃあ、おれがスパイスを仕入れるのはどう? 遺跡で育ったスパイスによる古代カレー!」
「怪しすぎる」

 はは、と笑って葉佩はスプーンを口に入れた。





 いただきます。そう手を合わせてカレーを口に運ぶ。そもそもカレーは何でも美味いのだが、高校生の頃よりもずっと美味しく作れるようになった。しかし、皆守は部屋に一人でそれを食べる。テーブルの上の人形は沈黙していた。今更一人暮らしの寂しさを言い募る気はないが、この人形の向こう側に葉佩がいると思うとどうにも一人の食事が虚しかった。

 くしゅん。静かな部屋に小さな音が響く。

 皆守は顔を上げた。自分のくしゃみではない。

「やばい、風邪ひいたかも」

 人形から声が聞こえて、皆守は呆れたように眉を下げる。

 ほらやっぱり。あの學園で葉佩が風邪をひかなかったのは間違いなく皆守が傘に入れてやったおかげじゃないか。皆守はそう思いながら小さく呟く。

「ブレスユー」

 葉佩から教えてもらった欧米のおまじないだった。





 皆守が目を覚ましたとき、枕元の時計は午前十一時を示していた。それで呆然と人形を眺める。人形は沈黙していた。

 遺跡探索にも休日があるのだろうか。疑問に思った後で皆守は昨日のくしゃみを思い出す。

 どちらだろうか。ただの休息か、あるいは病気か。

 その日皆守は一日中人形の前に座っていた。人形はずっと黙っていた。





 その次の日は、アラームをセットして午前八時に目を覚ました。九時を回った頃、人形から「よし、やるかー」の声が聞こえて、皆守はほっと息をつく。それから家を出た。

 向かった先は図書館ではなく葉佩の消えた道路だった。一軒家、古いアパート、新しいマンション。近くのガードレールに凭れて、皆守は道行く人間を眺めていく。

 自転車の後ろに子供を乗せた父親、スーツを着た女性、買い物袋を提げた老人。たくさんの人々を見送る。夏の日中は暑く、Tシャツには汗が滲む。蝉の声がうるさく、短い影は日除けにはならない。それでも皆守はそこに立ち続けた。

 二時間が経って、皆守の目当ての人間がやってくる。帽子をかぶった若い男。男はもう地理に不慣れな様子も見せず、まっすぐに歩いている。傍で見ている分には、この近所に住んでいる人間に見える。

 その男の進路に立ちふさがって、皆守は告げる。「三回目だな」男が立ち止まる。

「あんた、超古代文明を知っているか?」

 こういうときアロマパイプがあればもう少し落ち着けるのだが。皆守は思う。学生の頃はいつでも――葉佩といるときには特にアロマを吸っていた。精神安定剤であり、目の前の問題から視線をそらすための小道具でもあった。

 三度目があったなら、それはおかしなことだと皆守は判断した。葉佩はここで消えた。そして、その周囲をうろつく男。秘宝の夜明けの思い出が皆守を警戒させる。

 眉を寄せて男を警戒する皆守に対し、男は無防備に帽子を外す。初めてまともに見るその顔に皆守はぽかんと口を開けた。

「じゃあ、兄は本当に宝探し屋になったんですね」

 葉佩に瓜二つの男がそこに立っていた。





 そう、たしか墨木をもう一人のバディにしていたときだった。葉佩に弟がいることはそのときに知った。どこぞの博物館から依頼があるとかで、その日の葉佩は銃を構えていた。

「隊長の弟ですカッ! それは、さぞ優秀な――

 墨木の声が途中で詰まる。優秀な、のあとに続く言葉が思いつかなかったのだろう。

「ただの高校生だよ。おれたちと同じ」

 葉佩は宥めるようにそう言う。葉佩が執行委員たちから特別視されるのを咎めることはなかったが、返答は穏やかな友人としてのものを心掛けているように見えた。

「墨木のお兄さんのほうがすごいと思ってさ。言っておきたくて」

 墨木は謙遜も恐縮もせずにこくりと頷く。

「ありがとうございマスッ!」
「おれ、弟からそんなに尊敬されている気がしないもんな」
「そんなことハ――
「いいよ」

 葉佩は宇萬良の弱点に狙いをつけながら言う。

「なんか一個でも、墨木のお兄さんみたいなことをしてやれたらよかったのにって今は思う。家を飛び出してきたから、もう疎遠なんだけど」
「寂しいでありマスカ?」

 皆守はほとんどこの会話に口を出すことはなかったが、墨木の声には何か、期待と恐れのようなものが滲んでいた。「兄」の真意を探るような。

「どうかな。でも、元気でやっていると嬉しい」
「なるほど、でありマス……」

 墨木は噛みしめるように呟く。皆守はすうとアロマを吸った。あまり、聞きたくない話だと思った。





――九ちゃんの弟か?」

 皆守が問いかけると、「そういう名前なんですか?」と男は首を傾げる。それがあだ名のことを指しているのか、それとも葉佩に別の名前があるのかわからず、皆守は黙り込む。

 車が近づいて、皆守と男は道路の端へ避ける。近くで見ると、男と葉佩の違いが見えてきた。男のほうが少しだけ眉が下がっていて、目元が垂れている。それから少し髪が長い。それ以外は葉佩によく似ていた。輪郭も、鼻の形も。

「俺、不審でしたね」

 男は苦笑して手元の帽子を弄んだ。

「いや……葉佩を探していたのか?」

 男は頷く。

「知り合いから見かけたって連絡を聞いて。そのあと俺も探していたんです。遠目に見かけて、話しかけようとしたところで見失って。また会えないかと思って」

 このアパートに住んでいるのかと思って、呼び鈴も慣らしたんですけど違っていて。男は小さくそう続ける。声も葉佩によく似ている。それでも、皆守との距離感や話し方は違っていた。

「お兄さんは、兄の友人ですか?」
「……ああ」

 三か月間の親友で、今は疎遠。この関係を何と呼べばいいのかわからず、皆守はぎこちなく頷く。

「あいつ、家を出ていったって聞いたが」
「そうです。書置き一つで」

 男は苦笑する。葉佩はよく日焼けしていてぴんと背筋が伸び、何か運動をしていることが明らかな見た目をしていたが、男のほうはもう少し線が細い。

 男はそれ以上を言わなかった。皆守は二十歳、もう成人しているが未だ学費や生活費に関しては実家を頼っている身である。彼の家庭や保護者について想像しようとしたが、空恐ろしくなりやめた。葉佩の過去を想像するのが怖いのもあったし、子どもが行方不明となった親の狂乱を想像していたたまれない気持ちもあった。それから、目の前の男の意思表示を尊重したかった。

 二人の間に沈黙が落ちる。男は手持無沙汰に帽子を弄り、皆守は微妙に視線をそらしながら男を観察する。

「連絡先を教えてやろうか」

 皆守がそう問いかけるまでには長い時間が必要だった。

「いえ」

 男は意外にもきっぱりと首を振った。

「文句を言いたかったんですけど、あの人が元気でやっているならそれでいいです」

 男はまっすぐな目で皆守を見つめる。その視線は葉佩によく似ていた。「大学のオープンキャンパスに行くって言ってここまで来ているんです」

 皆守が戸惑いながら相槌を打つのに、男はどこか遠い目で住宅街を眺める。

「東京に来て、地元と違う世界を見ました。どうせ大学生になったら一人暮らしをして、そのうち独立すると思うと、兄がやったことは大したことないような気持ちになって」
「ああ」
「俺たち、結局別の人生を歩むんですよね。なら、元気でいる以上のことは必要ないです」

 かつての葉佩の言葉を思い出す。寂しくはない。元気でやっているならそれでいい。他人事の祈りとでもいうようなその言葉。

「……葉佩も、同じことを言っていた。元気でやっていると嬉しいと」

 男は笑った。「酷い人だなあ」

 それでおしまいだった。





 皆守は男と別れて家へと帰る。思考は今日の出来事を反芻するかのように葉佩の弟との会話を繰り返していた。

「元気でやっているならそれでいいです」
「元気でいる以上のことは必要ないです」
「元気で」
「元気でやってくれよな」

 葉佩の人生と皆守の人生は、もう別たれて交わることはないのだろうか。





 三日後が不燃ごみの回収の日だった。皆守は図書館にも行かずに人形と見つめ合う。

 捨てたくないと思った。ずっと、ずっと不安だった。葉佩と連絡が取れないのは、彼が死んでしまったからじゃないか。その思いがいつまでも拭い去れないままだった。皆守のなかの葉佩は過去にしかおらず、それは決していまを保証しない。それなのに皆守のなかにはいまだに葉佩の居場所があって、いつまでもその空白を主張してくる。

 それをやっと埋められたのに。

 探索中の独り言を聞けば、共に地下に潜った日を思い出した。風邪を引いたんじゃないかと心配だった。たまに聞こえる鼻歌が好きだった。

 どうして一緒にいられないのだろう。皆守の心はこんなに彼のものなのに。

 そう思う皆守の前で、唐突に人形が声を上げる。

「あっ、やばい」

 そうして人形はぱきりと割れた。





「ふざけるなよっ!」

 わあんと声が反響して、それから消える。

 崩壊を始める玄室で、葉佩は足を踏ん張るようにして振動に耐えていた。

「おまえら馬鹿か! 絶対に許さないからな!」

 そう言うのに葉佩が近づいて来ないのは揺れと、背後に八千穂と白岐が控えているからだった。そういう、優先順位を間違えないところを皆守は信頼していた。

 葉佩たちは遺跡を脱出できる。皆守たちはここへ残る。かつての罪、いままでの罪、長年の間違いもろとも、遺跡とともに死ぬ。

 それでいいのだと思っていた。





 死ぬな。死ぬな。死ぬな。

 皆守は住宅街を大股で駆け抜けながら思う。

 あれが護符だというのなら、あの人形は葉佩の身代わりになったに違いない。それなら今、まさに今葉佩が危険な目に合っている。

 死んでほしくない。失われてほしくない。葉佩の今までで満足したくない。これからがあるのだと信じていたい。これからも葉佩は宝探し屋として活躍するのだと言わせてほしい。それを、それを――

 あれからすぐに皆守は部屋を飛び出した。住んでいるアパートの階段を一足飛びに駆け下りて、まっすぐに葉佩が消えた場所へと走る。皆守の視力は軽やかに歩行者を避け、自転車を避け、車を飛び越えてそうして走る。

 皆守と葉佩の弟に違いがあるとしたら、皆守には葉佩と共に遺跡に潜った経験があるということだった。皆守は葉佩が探索する遺跡がどういうものか知っている。

 皆守は松の木のある一軒家を通り過ぎ、古いアパートの敷地に入る。たくさんの玄関ドアの前を走り抜けてその奥へ。

 皆守は決してこの数日暇をしていたわけではなかった。インターネットで地図を調べ、航空写真を調べ、図書館で郷土資料を調べ、そうして葉佩のいる場所に目星をつけた。

 一軒家とアパートの奥、所有者不明の小さな土地はのびのびとした草に覆われている。皆守は背丈ほどにもなるセイタカアワダチソウや、鋭い葉のイネ科の植物、ヒメジョオンをかき分けてその中心へ向かう。草に埋もれるように小さな祠があった。

 そこは元々小さな林だった。木々は切られ、宅地になっても林の中心の塚は残った。そのうち誰かがそこに祠を立てた。そして、その地下には――

 皆守は祠の裏に大きな穴が開いているのを確認する。人一人が通れるくらいの穴だ。そしてロープが一本ぶら下がっている。

 皆守はその穴に飛び込んだ。





 そこには天香の遺跡よりも小規模で簡素な空間が待ち受けていた。葉佩の言う通り、大枠は太い木材でできている。その間にあるのはただの土のように見えるが、装飾的に石や貝殻が埋め込まれていた。空間はほんのりと明るく、装飾の石が淡い光を放っている。地面は石畳で、ロープの近くには葉佩のものであろう荷物が小さな山になっている。小型の照明、弾倉、刀、調理用のガスバーナー。本人の姿はなく、皆守は周囲を見渡して葉佩の居場所を探る。耳がよければよかったのにと思いながら、四方にある四つの通路を睨む。

 そのうちの一つから低い振動が聞こえてきて、皆守は駆け出す。

「九ちゃん!」

 通路の先もさきほどの空間と同じくらい開けていた。部屋の装飾も似たようなものだが、山のように砂や瓦礫が積もっており足場が悪い。皆守は一歩を踏み出し、ぎゅっと砂が擦れる音を聞く。

「九ちゃん!」

「皆守?」

 さっと視線を走らせて、部屋の中央に立つ葉佩を見つける。その正面にはいままさに番人が砂になろうとしているのか、山のように大きな何かがさらさらと崩れていくのが見えた。

「どうしたの?」

 ゴーグルを頭まで上げて、葉佩がこちらを見る。真っすぐな、硬質な視線が皆守を射抜く。皆守の知っている葉佩がそこにいる。ここ数日聞いた声よりも遠くに聞こえ、それでも葉佩は目の前にいる。

「死なないでくれ」

 皆守は息を切らせてそう言った。砂と瓦礫の山を越え、よろよろと葉佩へと近づく。手を伸ばす。葉佩は避けなかった。肩に伸ばした手はアサルトベストのナイロンの感触を知り、ああ、存在していると思う。そうしてぐっと葉佩の体を引き寄せる。腕が温い。火薬と汗と血の臭いがする。少しだけ顎をあげると丁度葉佩の肩を超えて首筋が近づく。耳元で、腕で、体全体で葉佩の呼吸を知る。

「無事でよかった」

 葉佩の手がそろそろと皆守の背中に回る。グローブの固い感触が背中をすべる。

「うん、生きているよ」

 グローブをはめた手でくしゃりと髪を撫でられる。皆守はようやくほっと息をついた。





 二人で瓦礫の山を越え、最初に降り立った広間に戻る。その途中で皆守は人形から声が聞こえたことを話した。

「そんな効果があるなんて知らなかった」

 葉佩は顔を顰めた。「護符っていうより依り代みたいな意味があったのかな。名前を書く場所があった時点で気づくべきだった」

「心配かけちゃったね」

 葉佩が左足を引き摺りながら歩くのに気づいて、皆守は肩を貸してやる。

「いや、いろいろ聞いて悪かった」
「え、何を?」
「探索中の独り言とか、くしゃみとか」
「恥ずかしいな」
「あと、電話のあとの言葉も」

 葉佩が小さくため息を吐く。

「聞いた?」
「聞いた」
「そう」

 よたよたと広間に戻り、葉佩は床に腰を下ろす。アサルトベストから救急キットを取り出すのを眺めながら、皆守もその前に腰を落ち着けた。

「耐えられないって」

 皆守がそう切り出すと、葉佩は手を止めてこちらを見る。続けろと手振りで示すと、葉佩はブーツを脱いでワークパンツの左足を捲り上げ始めた。

「言ってたよな。理由を教えてほしい」

 剥き出しの左足には噛み跡のような、何かが食い込んで出来た傷がいくつかできていた。どれも赤々とした血を流している。葉佩はそこに乱暴に消毒液を振りかけた。

「寂しいんだよ」

 歯を食いしばりながら葉佩は言う。

「寂しいと疎遠になるのか?」
「ずっとはいられないでしょ」
「そればかりだな」

 葉佩は黙って、救急キットからガーゼと包帯を取り出す。

「おまえを見たときさ、すごく嬉しかった」
「なら」

 葉佩はまっすぐに皆守を見る。左足からはだらだらと血が出ている。それを放り出して葉佩は語る。

「肩を抱かれたのも。離れたくなかった。あの三か月、すごく楽しかった。今でも思い出す」

 葉佩の瞳が皆守を縫い留める。

「ずっと、ずっと一緒にいたい。でも、できない。だから」

 葉佩の目から透明な涙がつうと伝う。葉佩はそれを拭うこともせず皆守を見つめ続ける。

「どうしておれを見つけちゃったの――

 どうして死のうとしていたのだろう。今の視点から皆守はあのときの自分を不思議に思う。どうしてこいつを置いていこうとしていたのだろう。皆守は確かに葉佩の一部を抱えているのに。そしてきっと、葉佩も同じように皆守を抱え込んでいるはずなのに。

 自分は酷いことをしていた。葉佩の弟に同情しながら、皆守は自分を振り返る。置いていくなんて酷い。そして、葉佩も。酷いやつだ。彼の弟が言うように。

 逃れようのない記憶がここに、遺跡に、ふたりに降り積もっている。逃れられない。逃れたくない。

「そう、見つけた。だから――

 ふうと息を吐いて吸う。

「もう諦めろ。逃げられないんだ」

 引力だ。皆守は思う。場所だけじゃない。人だって引力を持つ。そうして、それからはどうやったって逃げられない。どんなに遠くに行こうと、たとえ死んだって。記憶は永遠だ。脱出速度なんて関係なくて、ぶつかった二人はどこかが癒着してしまうものなのだ。

 皆守はそれをラベンダーの香りを通して知っているはずだった。





 包帯を巻き終わった葉佩は、アサルトベストを脱いで荷物の山へと放った。

「夜にならないと武器の類は持ち出せないだろうから」
「この前は昼間に歩いていただろ」
「突然ティッシュペーパーが必要になって」
「迂闊だったな」
「本当にね」

 葉佩は笑いながら風呂敷のような布を取り出し、遺跡で拾ったのだという食材を広げ始める。夕ご飯を作ってやるよと言われたが、皆守としては正直遠慮したい。

「食えるのか、それは」
「食べられるよ」

 不審な目を向ける皆守に葉佩は広間の壁を指さして見せる。

「独り言で言ったかもしれないけど、ここはごみ捨て場なんだ」
「ごみ捨て場?」
「うん。だけどそれだけじゃなくて。再生の場所でもあったみたいだ」
「そうなのか」
「どうみてもごみじゃないものもいろいろ拾ったし、儀式跡っぽいのも見つけたんだ。それから化人みたいな存在がいた。そいつらはごみを食って食物を生産する、人工的な菌類みたいな存在らしい。おれも食べられそうになった」

 皆守はぼんやりと小さな符合に思いを馳せる。捨てられたものが再生する場所。そこで再会したという事実。

 物思いにふける皆守をよそに、葉佩は風呂敷を包んで肩に掛けて言う。

「じゃあ、行こうか」





 皆守の家へと歩きながら、ぽつりと言う。

「しばらく時間をくれないか」
「何の?」

 首を傾げる葉佩に、勇気を振り絞る。

「お前の隣にいられるよう、勉強をしたい。それから、俺をお前のバディにしてくれ」

 足を止める葉佩に言う。

「隣で、お前の声を聞いていたいんだ」