その後がある

 いつのまにか首輪を外して好き勝手をしていた飼い犬が、どうしてかウォルターの元に戻ってきた。

「ハンドラー・ウォルター」

 ウォルターの目の前に降り立ったACから声が聞こえた。声を出せない人間のための発声代用ソフトにプリセットされているありふれた声だが、ウォルターはそれを621のものだと認識している。

「……621か」

 生身の人間には大きすぎる機械を見上げる。ウォルターとカーラが足掻いてもどうにもならず、コーラルは解き放たれてしまった。ゆっくりと降下するザイレムの上で、ふたりはそれを見届けた。ザイレムが降り立った場所は浅い海の上で、そこだけを切り取るなら『恒星間入植船』が再び新天地へ辿り着いたように見えなくもなかった。そういう風に一瞬安堵するほど、穏やかで眩しい景色があった。空は透き通り、波はきらきらと輝いている。青い空は、毎日見上げていたはずの灼けた空の記憶を毎秒塗り替えていく。起こってしまったことに比べればあっけないような現実がある。

「好き勝手してくれて。今さら何の用だい?」

 ウォルターの隣でカーラがずいと前へ出る。生身対ACという圧倒的な力の差への警戒が見えたが、ウォルターの内心は穏やかだった。621が自分を害するつもりならばもっと早くにやっているだろう。ガレージでもほとんどの時間傍にあった、見慣れた機体と目を合わせる。ACの頭部にあるセンサーの赤だけが禍々しく見えた。青空の下で見上げるACには牧歌的なのどかさと同時に隠しきれない争いの匂いがする。

「……話をしに来た」
「何の話が出来る。もう全部が終わってしまったぞ、621」
「……あなたの話だ。ハンドラー・ウォルター」

 発声代用ソフトの声は落ち着いている。ACは微動だにしない。ウォルターはそこに621の思慮を見る。「機能以外は死んでいる」と評されようと、621は決して莫迦でも無知でもない。戦闘の技術も、戦況を判断する思考も、首輪を抜け出す能力もある。少なくない日々を共に過ごし、厳しい仕事を任せ、多大な信頼を寄せていたウォルターはそれを知っている。

「全部が終わったが、あなたは生きている。だから、話をしに来た」
「……だから、何の話が出来る」
「あなたは何がしたい」

 隣でカーラが腕組みをするのをウォルターは気配で察した。彼女は621の言葉を聞く体勢に入ったようだった。

「コーラルリリースが起こった以上、俺の目的はもうない」
「あなたは何がしたい」
「……621」
「あなたは生きている。それなら、話をするべきだ」

 赤い光がウォルターを見ている。ウォルターはついとそれから目を逸らし、青い空を見上げた。ルビコンを彷徨うコーラルの消えた、抜けるような空だ。空っぽだ、とウォルターは思う。オーバーシアーが積み重ねてきた努力も、ウォルターが受け取ってきた願いも、全てが無に帰して何もない。それで何を語れというのか。

「621、それならまずお前の話からだ。どうしてこんなことをした」

 結局ウォルターには621が何を考えこの結論に至ったのか分からないままだ。ACは黙り込んで、ジェネレーターの稼働する低い音が周囲に響く。

「……誰だろうと何だろうと、言いたいことは言えばいい。聞こえないなら、聞こえるようにすればいい。だからこうした」
「レイヴン……」

 感情の伺えない人工音声とは別の、生身の誰かの声が聞こえた。カーラと顔を見合わせて目の前のACを見上げ、そこにある赤い光の意味を確認する。

「私はエア。元々はコーラルに生じた変異波形。コーラルリリースを行った、もう一人の当事者です」
「そういうことかい……とっくに……」

 カーラのため息を聞きながら、ウォルターも深く息を吐く。コーラルは死んでなどいなかった。それどころか意思を持ち、自らを解放することさえして見せた。オーバーシアーが恐れたものは、オーバーシアーの認識を超えて恐ろしいものだった。――それを今になって知っている。

「私はようやくあなた方と話が出来るようになった。どうかそれを――

 エアの声を、621の人工音声が遮った。

「違う。――ハンドラー・ウォルター。あなたはどうしたい」

 621はあくまでウォルターの意思を尋ねると沈黙する。ウォルターは黙ってACを見上げた。どこで何をしてきたのか、酷く汚れ、傷が増えている。濡れて来たのかところどころで泥水が機体を伝っている。それを哀れに思うほどウォルターはACに思い入れがあるわけではないが、同時にこれが621の姿なのだとも思った。ACは武力だが、621の生体を拡張するツールでもあった。ACに乗ることで、621は喋り、聞き、生身よりもずっと早く遠くへ行った。コーラルで灼けてCOMに管理されている脳や神経は、生身よりもよほどACと相性がいい。旧世代型の強化人間が置かれる状況を知っているからこそ抱いていたウォルターの願いを超えて、621はACへ乗ってここに来た。

「……少し、考えさせてくれ」
「わかった」

 ACのヘッドがほんの少しだけ動いて、それが頷きの代わりらしかった。鈍い音と共にACが足を引き、ウォルターから十分遠ざかった後にブースターをかけて去っていく。カーラが「整備には戻ってきな!」と声を張り上げるともう一度ヘッドが大きく動いた。

 青い空の下、ACは静かな水面を滑るように小さく遠く消えていく。一時の静寂のあとには、恐らく酷い混乱が待っているだろう。少し考えただけでも、リリースによる資源の消滅、食料危機、惑星封鎖機構も大企業も手を引いた後の秩序の不在に思い至るし、ウォルター個人としても人生を賭けて成し遂げようとした目的を失って呆然とする気持ちが消えたあと、621やエアに対してどういう感情が湧くのか分からないでいる。それでもその光景は美しかった。

「一度生まれたものは、そう簡単には死なない……」

 コーラルも、強化人間も、現実も、そしてウォルターも。死なない以上これからがあった。