別にそれだけ
長い間、疎遠になることがなかった。たったそれだけの関係にも重みがある。きっかけと、環境と、ちょっとした努力が二人を繋ぎ続けてきた。カズサが定時後にヒヨシと飲みに行くのはその成果であり、また努力の一環でもある。
「あの件、来週には決裁回す」
「早いな」
「遅かったら文句言うじゃろ」
終業時間を過ぎると、すぐに着替えて並んで署を出た。カズサの定時退庁は部下への気遣いだが、ヒヨシのそれは交代制の勤務体制と本人の優秀さゆえだろう。元々、腕が立つ上に判断も的確で早い退治人だった。吸血鬼対策課でもその評判は変わらない。ごく普通の顔をして面倒な仕事をこなしている。
「そういうところ、好きだぜ」
呆れたり、文句を言ったり、たまにカズサのせいにしながらさらりと仕事をこなすところが。純粋な本心にも、ヒヨシはただ呆れた顔を作る。
「お前に好かれてもなあ」
「はは。久しぶりに焼き鳥でいいか」
「何でもええぞ」
繁華街にあるチェーン店だったが、週の初め、早い時間とあって空いていた。注文を済ませて早速話題に上がるのは最近出くわした吸血鬼たちだ。仕事の話、だからではなくどうにも誰かと話さずにはいられない驚きやおかしさが彼らにはあった。シンヨコの人間なら誰だって耳にするだろうし、直後に聞かなかったふりをするような話題に守秘義務も何もない。
「昔はこんなじゃなかったような気もするが」
「そりゃそうじゃろ」
居酒屋とは場違いに幼い顔の男が呆れたように笑う。片手に持っているソフトドリンクと、せめてもの抵抗のようなジャケットが不似合いだ。それでも、彼とはもう随分と長い付き合いになる。容姿が変わらなくとも、カズサとヒヨシの関係が変わらなくとも、環境も、人間関係も、すべては変わっていく。それを示すように、ヒヨシの話は吸血鬼との騒動で頻繁に名前を聞くようになった彼の弟へと移る。
誤解が解けた、と聞いたのはどのくらい前の飲みだっただろうか。メッセージアプリの家族グループができたのだと話すヒヨシは随分と穏やかな顔をしている。たぶん、初めて見る表情だ。幼い顔に、紆余曲折の歳月を経た者だけの表情が浮かんでいる。そっと伏せられた瞼と微かな微笑みが、彼の幸福を伝えてくる。
「あいつがなあ、元気でやっとるのが一番うれしい。俺のことも、どうあれ好きでいてくれて。ヒマリも、この間大学の専攻の話を聞いたんじゃが――」
あまりにも満ち足りた顔だった。それで思わず言葉が口を衝く。
「お前は結局、きょうだい以外に親しい人間を作れなかったんだな」
作らなかったのか、作れなかったのか。あれだけ女の子と遊びまわっておきながら、結局ヒヨシが誰か一人と長期的に交際しているのを見たことがない。退治人時代に、時間を確認してどこかへ思いを馳せるヒヨシを何度見ただろう。彼の優先順位は変わらなかった。弟が独立して、妹が一人暮らしを始めてもなお。彼の心の柔らかいところは、ずっと弟妹に明け渡されたままだ。
きょとんと大きな目を瞬かせるヒヨシは、何もわかっていないようだった。
「お前がいるじゃろう」
こんな隙を見せるのはいつぶりだろう。そんな顔、俺の前で見せたことはない癖に、気が緩んでいるんじゃないか? カズサは理不尽に思う。俺は昔から今までお前に警戒されていたはずだろう。内心どうあれ、俺たちの間には軽口の応酬しかなかったはずだ。
「じゃあ、俺のものになるか?」
「は?」
「俺はお買い得だぜ。気を遣わなくていいし、守らなくてもいい。お前を甘やかしてやれる」
半ば本気で言い募った言葉に、しんとテーブルの空気が静まった。真顔のヒヨシからは内心を伺うことが出来ない。カズサに出来るのはただ目の前の男の反応を見守ることだけだ。
「お前……」
ヒヨシは持っていたグラスをテーブルに置くと立ち上がった。出て行かれても仕方ないとの一瞬の覚悟をよそに、雑多な皿が並ぶテーブルを超えてヒヨシの手が伸びてくる。ヒヨシは甘く微笑んでいた。きれいに目が細められて、整っているが幼い顔に色気が滲む。ああこのギャップには女の子も落ちると、カズサは今更ながら腑に落ちた。
ヒヨシの右手はそのままカズサの頬を包み込んだ。かさついた親指にそっと目尻を撫でられる。何を要求されているかは分かっていながらただヒヨシの透き通った目を見つめ続けると、仕方がないなと言うように苦笑された。ヒヨシの目を閉じた顔が近づくのをじっと待つ。
そして、口の端に柔らかい温もりが触れて離れていく。
「お前のそれから支配欲と所有欲が切り離せたら考えるわ」
思わずほっと息を吐いてから、カズサは今まで自分が息を止めていたこと、緊張していたことを知った。
「それから、あいつら以上の存在にしてくれと言われたら」
「それは言えないだろう」
「覚悟が足りんのじゃにゃあか?」
「言ったら、叶えてくれるのか?」
「いや? 俺はあいつら以上の存在は作らん」
「酷い奴だ」
そこで二人は顔を見合わせてふっと笑った。ヒヨシはなんてことない顔で店員を呼び出すベルを押し、カズサはメニューを手に取って次に頼む飲み物を探す。たまにはアルコールも入れるかとメニューを辿りながら、本当に好きなのにな、と未練のように思う。それでも、変わらない、変えられない関係にも価値はあった。なんだかんだ、彼を愛しているのだ。無責任に。