海へいこうよ

海へいこうよ

 皆守はふたりの顔を見比べた。

「何が何だって?」
「だから、葉佩が海へ行かないかと」

 阿門が真面目くさった顔で言う。葉佩はにこにこと笑いながら頷いた。

「絶対楽しいよ」

 楽しいかどうかの問題ではないと思うのだが葉佩は「どう?」と尋ねるばかりだ。

「どうと言われても、九ちゃん、今の状況はわかっているのか?」

 今日は十二月二十五日。どう考えても海に行く気温ではないし、葉佩はともかく皆守と阿門には仕事があった。

 墓を掘り起こさなければいけない。

 生徒会と執行委員が総出で仕事にあたっているいま、責任者である生徒会の会長と副会長がそろってサボタージュなど笑えないだろう。それなのに葉佩は肩を竦めるだけだ。

「みんなにはおれからお願いしたよ。構わないってさ」
「みんな? 全員で行くのか?」

 皆守は首を伸ばして木立の向こうの墓地へと目をやった。午前七時を少し過ぎ、ようやく日が昇って作業も軌道に乗り始めたころだった。遺跡を巡る長い歴史に決着がついて以降、夜を徹して作業が続いている。生徒会と執行委員の全員がこの歴史に対して責任を感じていたし、全員がこの歴史を終わらせられることに希望を感じていた。冬の朝の冷たい空気に時折明るい声が響くのが遠くからでも聞こえてくる。

 皆守もさっきまではその一員だった。朝、額に絆創膏を張り付けた葉佩が顔を出したときにはああ元気だったかとほっと息をついたものだが、まさかこんな話をするためとは思わない。

「違う。おれと皆守と阿門の三人」
「三人? それで、生徒会と執行委員全員が俺たちが抜けて構わないって?」
「うん」
「夷澤も?」
「どうしてそこで夷澤かな。わかるけど。夷澤もいいって言ってくれたよ。『仕方ないですね』って」
「しかし、いいと言われようが俺たちにも責任というものがある」

 阿門はひたすら困惑しているようだった。皆守は無理もないと思う。皆守も《転校生》の突飛さには慣れたつもりでいたが、葉佩はいつだって皆守の想像の上を行く。

「そうだ。そもそもどうして俺たちで、どうして海なんだ」
「俺がふたりと行きたいから」
「それだけで仕事は抜けられないだろう」

 皆守としては説得のつもりだったのだが、返って来たのはじっとりとした眼差しだった。

「仕事に対して責任があるっていうなら、おれの心の傷に対しても責任を負ってくれてもいいんじゃない?」

 皆守は思わず葉佩から目を逸らし、阿門と顔を見合わせた。阿門の表情は昨日の穏やかさを忘れたようにいつもの険しい顔に戻っていたが、皆守にはそれが心を痛めている表情だとわかった。彼は厳めしい雰囲気から遠巻きにされることが多いが、単に表に出さない内心が多いだけなのだ。

 それから自分のしたことを思い出す。

 そもそもこの三人で話すことなど今日までほとんどなかった。こうしてああだこうだと言い合いができるのは阿門と皆守が役目から解き放たれたからで、そして死のうとしたところを救われたからだ。あのときはそうするべきなのだと信じていたが、その後の反応と、いまこうして三人で馬鹿みたいに突っ立っている現状を思えばあのとき機会を逃して幸いだったという気持ちが湧きあがる。

 二人の選択について誰も怒りはしなかった。八千穂は泣いて、白岐はほっと胸を撫で下ろしていた。千貫は「まずはホットミルクでもいかがでしょう」と言い、保健医は薄く微笑んでいた。

 こうして二人を責め立てるのは葉佩が初めてだ。それを言われたら皆守は何も言えない。

――悪かった」
「違うよ、謝ってほしいんじゃなくて」

 葉佩はふうとため息をつく。葉佩と皆守はほとんど身長が変わらないが、俯かれると表情がわからない。額の絆創膏のガーゼが赤黒く変色しているのだけがよく見える。皆守が蹴った部分だった。

「ちょっとだけでいいからおれに付き合ってほしいんだよ。ほんの少し、おれに譲歩してくれるものがあったっていいだろ?」

 それは怒られるよりよほど身に染みる言葉だった。葉佩に何かを諦めさせたという事実。

 しかし、見限ったのは皆守のほうだ。葉佩は最後の最後まで二人に手を伸ばすことを諦めなかった。

――わかった」
「皆守」
「阿門も、それでいいだろ?」

 彼が頷くのを確認して、皆守は作業着代わりにしていたジャージの泥汚れを払う。

「そんなんでいいならいくらでも付き合うさ。校則破りだろうと、サボタージュだろうと」
「ああ、そんな規則もあったっけ?」
「おまえなあ」

 長期休暇の間は届けを出せば外出できることになっているものの、葉佩がそんなことを知っているはずもなかった。呑気な反応に皆守は呆れてしまう。

「それで? 着替えてくるから寮で待ち合わせでいいか? 何か要るものは?」

 尋ねると首を振って葉佩は言う。

「何も要らないよ。おれが運転するし」
「はあ?」
「もう車も届けてもらったんだよね」
「おい、誰にだ?」
「亀急便。二人にはおれのドライブに付き合ってもらうから。いくらでもって言ったよね」

 清々しく笑う葉佩に、一瞬でもいじらしく見えたのが嘘ではないかと皆守は疑った。

遠ざかること

 車は寮から少し離れた通路に停まっていた。わナンバーをつけた青いSUV。そういった種類を皆守が知ったのはあとになってからで、そのときの皆守はただ「アメリカで荒野を走っていそうだ」くらいの感想しか持てなかった。葉佩はというと「うおっ、国産車」と難しい顔をしている。

「国産だとなにかまずいのか?」
「おれ左ハンドルしかまともに運転したことないんだよ」

 そういえばこいつはエジプトから来たのだったと皆守は思い出した。転校当初は日に焼けていた葉佩の肌は夜の探索を続けた影響ですっかり白く戻り、いまはただ普通の高校生のように見える。制服を着た葉佩が銃を扱うところには見慣れても、運転という単語を耳慣れなく感じるのがなんとも可笑しい。

 葉佩は奇妙な顔をして皆守を見つめ返す。

「申し訳ないんだけど、皆守は助手席に座ってもらっていい?」
「いいが、どうした?」
「右ハンドルの車を運転するのは久しぶりです」
「ああ」
「というか、おれは正真正銘十八歳です」
「ああ?」
「運転免許を取れるのは十八からです」
「……つまり?」
「初心者です。しかも三か月も運転していない」
「大丈夫なのか?」

 これは阿門の台詞だった。

「怪しいから頼んでる。頼むよ皆守。おれの助手をやってくれ」
「……何をしたらいいんだ?」
「危なそうなときに教えて」
「おい、俺は何が危ないかなんてわからないぞ」
「おまえの視力が頼りだ! 阿門は何かあったときのために後部座席ね」

 阿門の《力》を思えばこれは本当に「何かある」のではないのかと皆守は内心恐怖したが、葉佩も阿門もさっさと車に乗り込んでしまう。

「死んだらおまえのせいだって言うからな」

 渋々助手席の扉を開けた皆守の台詞にも葉佩は笑うだけだ。

「どんと来い」

 そう言った葉佩がキーを回しエンジンをかける。低い振動が座席から伝わってきて、皆守のほうも車に乗るのなんて久しぶりだと思い出した。

 學園にいる間は外出なんてしなかったし、そもそも東京育ちの身の上では車よりも電車のほうが身近だった。最後に車に乗ったのはいつだっただろうと考えるが、いまの体験が遠い記憶を上書きして押し流していく。

 葉佩が隣の席でハンドルを握り、ルームミラーを調整する。そして高らかに宣言する。

「じゃあ、行きましょう!」

 車はゆっくりと動き出した。皆守は内心冷や冷やと葉佩を見守っていたのだが、運転自体には慣れているらしく別段怪しい動きは見当たらない。車高が高いのか普段の目線よりも景色がよく見えて、見知ったはずの學園が目新しい。

 寮を背に車はのろのろと學園の正門までを走った。「ずいぶんゆっくりだな」と尋ねると「人がいるかもしれないし」と返ってくる。どうやら安全意識はあるらしい。皆守は座席にもたれて葉佩を見守る姿勢に入った。阿門は口を出すでもなく運転席の後ろで腕を組んで窓の外を眺めている。

 學園の外へ出る段になって、葉佩が突然ワイパーを動かす。

「……これは?」
「間違えた」

 かちかちと今度はウィンカーが点滅する音が聞こえてきた。

「おい、本当に大丈夫か?」
「大丈夫だって」

 皆守は運転免許自体を持っていないのだ。ハンドルとアクセルとブレーキくらいしか知らず、何をどう間違えたのかすら覚束ないのに葉佩はあっけらかんとしている。

 そうこうする間にも車は學園の外を走り始める。校門を外から見たのは三回目だろうか。受験のときと、入学のときと、それからいま。まさか三回目がこんな無断外出になるとは思いもしなかった。皆守は感慨深く學園の高い塀が遠ざかっていく様子を眺めた。

 ちらと葉佩を見ると何でもないような顔で車を運転している。學園の外も中も葉佩にとっては変わりないらしい。

「そういえば、阿門はいいのか? 無断で外出して」

 後部座席に尋ねると、阿門の小さく笑いを含んだ声が返って来た。

「よくはない。千貫には伝えたが……」
「千貫さんは何て?」
「ただ『いってらっしゃいませ』と」
「よくあの人が許したな」

 そこに葉佩の声が割り込んでくる。

「おれが根回ししてるもん」

 皆守は目を丸くして葉佩を見たが、葉佩は正面を見据えてこちらを見ない。ただ口角が上を向いているのだけがわかった。

「何と言ったんだ?」
「そのまんまだよ。阿門と海に行きたいんですって」

 背後から阿門の笑い声が聞こえてくる。

「全部おまえの手のひらの上か」
「まあね」

 皆守は後部座席を振り向いて阿門の表情を探るが、死を決めたときと同じくらい晴れ晴れと穏やかな顔をしている。

 皆守はそっと前を向いた。葉を落として枝ばかりとなった街路樹がゆったりと後ろへ流れていくのをただ眺め、あれはケヤキだろうとぼんやりと思う。一歩學園の外へ出てみればあまりに普通の街並みが広がっている。新宿とあって建物は高く空に伸びているが、通りに面した一階にはごくふつうの個人商店や飲食店の看板も見かける。教科書販売の文字を見かけて、あの店は天香學園とも取引があるのだろうかと妙なことが気にかかった。

「サンタがいた」

 突然葉佩がぽつりと言う。

「何?」
「サンタクロース。さっきのコンビニ前」

 窓の外を見るが「さっきのコンビニ」すら遠く、サンタは見えそうになかった。コンビニ、という響きがなぜだか懐かしい。學園に入学してしばらくはコンビニの品揃えが懐かしいという声も聞いたが、三年もいればそんなことも思わなくなった。世間ではクリスマスにコンビニ店員がサンタのコスプレをしてケーキを売る、そんなことも忘れていた。見えなかったのは見えると思っていなかったからか、単純に葉佩が運転者で皆守が同乗者だからという理由だろうか。

「阿門は見えたか?」
「いや。見えなかった」
「まあ、帰りには見えるでしょう」

 車は曲がるたびに大きな道を走るようになり、スピードを上げていく。通りの建物はひとつひとつが大きく、新しく、ぴかぴかと風景を反射するようになる。

「東京の道ってわかり辛いね」

 カーナビの出す案内と青い案内看板を見比べながら、葉佩がぽつりと言う。

「そうか?」
「行き先が多すぎるんだと思う。全部の道がどこかに通じるから」
「どういう意味だ?」
「通過するための道がないんだね、きっと」

 はぐらかしのようにも聞こえたが、皆守にもわかる気がした。學園を後にして市ヶ谷、四谷、外苑前。皆守でも知っている土地を通り過ぎてきた。東京はそういった誰かにとっての目的地でできているのかもしれないとふと思う。だから、たとえば階段の踊り場のような、そういうモラトリアムが許されずに酷く迷う。そう考えると、今までずっと中途半端だった自分が多少なりとも救われた気がした。

 葉佩は「もう少しで高速に乗るから」と道の先に見える高架を指さして言う。

「えーっと、首都高速三号線。の入り口が――右にあるの? どこ?」

 葉佩が慌ててハンドルに齧りつくのに、皆守は「あれだ」と遠くに見える料金所を示す。「さんきゅ、助かる」という声に、ようやく役に立てたと息をつく。「高速乗ったら見ないといけないものもないと思う」と葉佩が言うので、皆守の仕事といえば結局これひとつで終わるようだった。探索ならまだ本領を発揮できようが、運転のこととなるとさっぱりだった。その探索だって、真実全力を出せたのは昨日の三戦だけだ。

 あまり葉佩の役に立ったとは言い難い。そう自嘲してから、こう言うとまるで今までの日々でずっと葉佩の役に立ちたかったみたいじゃないかと内心目を丸くした。揺れ動き苦悩した日々も、通り過ぎてしまえば圧縮されていまという一点からしか見えなくなる。あの教師が死んだときに恐れた現象が、まったく別の形で立ち上ってくるようだった。

 皆守が立ち直ってしまったのなら、あの教師が死んでしまった――殺してしまった――ことは何だったのだ。その問いもいま、午前八時前の明るい車内で考えれば、あの教師はそれこそを望んでいたのだろうという、昨日は辿り着けなかった別解が頭に浮かぶ。その二つの解答を並べながら、皆守は學園からの距離に思いを馳せた。

車は走る。会話も続く

「高速が――だいたい40分くらいだって」

 高速に入ると葉佩の言う通り信号も歩行者もなく、ただ通り過ぎる看板と遮音壁を眺めるばかりになった。皆守がそれを眺めていると、後部座席から阿門が問いかけてくる。

「そういえば、海とは言ったがどこの海だ?」
「神奈川」
「神奈川の?」
「どこって言ってたかな? 大磯。千貫さんのおすすめ」
「どこだ?」
「三浦半島よりさらに先、神奈川県の中部。東京湾より太平洋が見たいんじゃありませんかって」
「そこまで入れ知恵していたのか」

 阿門は呆れたように言う。

「阿門に楽しんでほしいんだよ」

 いつの間にか葉佩は千貫と通じ合っているらしい。窘めるような口調だった。

「どうして海なんだ?」
「皆守が言ったんだろ? 海なんてしばらく行ってないって」
「言ったか?」
「言ったよ。どこの区画だったかな――金色の――
「朱堂のところだ」
「そう! 思い出した?」
「言った気もするな。阿門はどうだ?」
「確かに、最近はあまり記憶がないな。大磯なら、一度家族で行った気もするが」

 阿門の後半の呟きは聞こえなくても構わないといったぽつりとした声だったが、葉佩は我が意を得たりとばかりにはしゃいだ声を上げた。

「ほらね! 千貫さんのことだからそうだと思ったんだ!」
「何がだよ」
「あの人は本当に坊ちゃん思いで、無駄なことなんてしないってこと」

 葉佩の指がハンドルの上でくるくると踊る。

「おれはそういう話を聞きたかったし、したかったんだ。本当はもっと早く《生徒会》と話をしておくべきだった。もう遅いかもしれないけどさ」
「話とは」
「自分を大事にしろって言いたかった。みんな辛そうだった」
「ああ、そうだな。謝らねばなるまい」
「おまえもだよ、阿門」

 葉佩の声は昨日遺跡で聞いたようにきっぱりとしていた。

「おまえたちはもっと楽しむこと、自分のために選ぶことを知らないといけない。義務とか責任はもう十分だ」
「しかし」

 阿門の声は咄嗟に出たかのように葉佩の言葉に食い込んだ。

「しかし、やってしまったことは取り返しがつかない。本当は、こうしているのだってよくないことだ。昨日の今日でサボってしまってはほかの人間に合わせる顔がない」
「別に、二人の功績を思えば文句は言わないだろ」
「責任の重さの間違いじゃないか?」
「皆守はおれと一緒に長髄彦と闘ったし、阿門は今まで封印を持たせていた。十分責任は果たしただろ」
「だけど」
「おれがそうしたいって言ったらみんな喜んで送り出してくれたよ。文句言ったのは夷澤だけ」
「文句を言ってるだろ」
「かわいいもんさ」

 ふふんと葉佩の鼻歌が聞こえる。

「なあ、自由ってそんな、自滅的なもんじゃないだろ」

 車内に沈黙が落ちる。高速道路を走る車の音は、ごうごうとなぜか血潮の音に聞こえる。背後から阿門のため息が聞こえた。

「俺とおまえで何が違う、葉佩」
「九龍か九ちゃんでいいよ」
「葉佩九龍。おまえだって化人と闘い、命を危険にさらしている」

 葉佩は肩を竦めた。

「おれは好きでやってるんだよ」
「俺は違うと?」
「おれは怖がっているわけじゃない。おれは手に入れるためにやっている。おまえは?」
「それなら、おまえのその行為が誰かを傷つけたときおまえはどうする?」
「誠心誠意謝るさ。謝罪も、許しも、救済も、すべて生きている人のものだ。可能性は未来にしかない」
「それがおまえの自由か」
「そう」
「そうか――

 それからまた沈黙。

 皆守も、おそらくは阿門も、どうして二人だけが連れ出されたのかもう知っていた。この話をするために葉佩は全員に頼み込んできたのだ。そして、残った全員がそれに同意している。

「千貫も同じことを?」

 葉佩はハンドルを握りながら器用に肩を竦めた。

「あの人はもっとシンプルだった。『坊ちゃんの命が一番です』って」
「他の人間は?」
「八千穂は『もう二度としないでって言って!』てまた泣いたし、白岐は『わたしばかりが残る気持ちを考えてと伝えて』って怒ったよ」
「白岐が?」
「白岐が」
「そうか――
「ちなみに神鳳と双樹は『もっと言えることがあった』って落ち込んでて、夷澤は『オレはまた蚊帳の外ですか。自己完結もいい加減にしてほしいですね』って怒ってた。端麗先生は『若者の特権だ』って笑ってたけど」
「とんだカウンセラーだ」

 皆守が毒づくと葉佩が笑う。

「まあ、みんな無事だったからね。結果論だよ」

 葉佩は笑ってウィンカーを出すと追い越し車線へと進路を変更する。ぐんと車が加速して、のろのろと前を走っていた軽トラックを追い越した。

 阿門の静かな声が聞こえたのは、葉佩が左ウィンカーを出して走行車線に戻り、さらにしばらく経ってからだった。

――本当に、俺たちが許される日が来ると思うか?」

 葉佩の答えははっきりしていた。

「わからない。でも、そういう日を考えることはできる」
「おまえは本当に自由なのだな」

 阿門は微笑む。晴れ晴れしくはない、ぎこちない笑みだ。

「俺には自由が――生きるということがまだわかっていなかったのかもしれない」
「これからがあるさ。若者よ」

 物々しく言って葉佩は笑った。

「阿門は進路は?」
「進路?」
「進路。センター試験だって、もう申し込んでいるはずだろ?」
「まだ決まっていない」
「学部とかは?」
「歴史を、学ぼうかと」

 皆守がちらりと背後を見ると申し訳なさそうな阿門と目が合った。それは一人だけが先にモラトリアムを卒業するときの居心地の悪さだ。

「家との兼ね合いもある。まだ、いろいろと話し合う予定だが――

 皆守はあえて明るく声を上げた。

「いいじゃないか。あの墓のことを調べるのか?」
「そうだな。大学でやれることには限りがあるだろうが、知りたいことはたくさんある」
「いざとなったらロゼッタ協会を頼ってくれてもいいよ」
「借りが返せなくなりそうだ」

 阿門も笑っている。いつもは白い顔にさっと赤みが差すのが妙に幼く見えて、皆守は目を瞬かせた。

海はすぐそこ

 高速を降りると、そこは郊外だった。道路は片道二車線で、道路に面した店舗や事務所には広い駐車場が付属している。ほとんどの建物が平屋か二階建てで、空が高く広々として見えた。學園を出たときの景色を思えば遠い風景だった。

 朝の七時過ぎに學園を出てから二時間弱、陽は十分に昇って車のなかにも差し込んでいる。冬の空は青く澄んで、遠くに薄い雲が見えるだけの快晴だった。「窓開けていい?」と葉佩が細く開けた窓から冷たい風が吹き込んで、籠った空気を吸ってばかりだった身にひんやりと気持ちいい。

「お、海だ!」

 しばらく細い道を走ったところで葉佩が浮足立った声を上げる。葉佩が指さす方を見ると、正面にきらきらと輝く水面が見えた。

「おお」

 皆守も思わず声を上げて、阿門も後部座席から身を乗り出す気配がする。

「海に突き当たって、しばらく行ったらビーチがあるんだって」

 ああもう少しだ、と皆守も横目に海を見ながら思っていたところで、葉佩が「げ」と声を上げた。

「検問だ」
「まずいのか?」
「銃刀法に違反している身としては警察を見ると反射で――

 それから葉佩が首を傾げる。

「高校生って車運転して大丈夫なんだっけ?」

 皆守は後部座席の阿門を見るが、阿門は静かに首を振った。それはどちらの意味だ?と尋ねる間もなく、あっけらかんと葉佩が「まあいいか」と問題を放り投げる。

 天香學園の校則は墓を暴かないことに重点が置かれているが、高校生が車を運転していると悪目立ちするように皆守も思った。その場合、芋づる式に葉佩の銃火器が見つかるとまずい。果たしてこの車には積んでいるのだろうか?

 不安になることを言った張本人は平然と車を検問を待つ列につけた。そもそも検問なのだから逃走手段があってはまずいのだろうとはわかっているが、皆守は心臓をばくばくさせる。そういえば検問自体何をするのかも知らない。

 葉佩の番が来て、制服を着た警察官がウィンドウを下ろすように手で合図を出した。

「はい、アルコールチェックしまーす。息『はーっ』ってして」

 覗き込んだ警察官は流れ作業のようにてきぱきと指示を出し、葉佩が何かの機械に息を吐きかける。

「免許証見せて」
「どうぞ」
「学生?」
「大学生です」
「年末だけど羽目を外さないようにね」
「気をつけます」

 それだけで解放された。検問所から遠ざかり、ウィンドウの閉まる音が静かな車内に響く。

「何かに怯えたのは初めてだ」

 ぽつりと阿門が言った。

「初めて、ただの高校生になった気がする」

 學園内で《生徒会》として恐れられようと、學園の外に出ればこのざまだった。皆守たちはまだ高校生で、たくさんの制限がありながら社会に守られている身の上だ。學園の中、遺跡の底で力を振るってばかりで忘れかけていた。

「実は昔からそうだったんだよ。おれたちは」

 葉佩は楽しげに笑った。

「ところで『大学生』って嘘つく意味はあったのか?」

 尋ねると葉佩が警察に提示した免許証を差し出してきた。皆守は受け取って記載事項を確認していく。葉佩九龍、男、生年月日昭和六十一年三月十二日。皆守の一か月前――つまり一学年上だ。

「ちなみにこれとは別に二十一歳と二十五歳の免許証も持っているんだけど、見る?」
――九ちゃん、本当はいくつだ?」
「十八だよ。信じる?」

 葉佩はくつくつと笑っている。免許証を信じるなら確かに葉佩は十八歳だが、素直に信じるとも言い難くて皆守は吐き捨てた。

「別に、予防線を張らなくていい。この三か月を過ごしたおまえはまるきりただのガキだ」
「あはは!」

 葉佩が笑って、ほんの少しだけハンドルがぶれる。

「危ないな!」

 葉佩は震える手で海岸の駐車場に車を滑り込ませた。

それからどうする?

 車のドアを開けた瞬間から強い海風が吹き付けてきた。皆守はドアが閉まりそうになるのを堪えて、ゆっくりと車を降りる。

「海だな」

 後部座席から降りた阿門が言うのに頷いた。

「海だ」
「海だね」

 葉佩も運転席を降りて車のキーをポケットに仕舞っている。

「それで、海で何をするんだ?」
「え、特に何も?」

 葉佩はきょとんとして言う。

「理由をつけて學園から出たかっただけだし、冬の海は泳げないでしょ」

 葉佩が常識的な風に言うのに「誘ったおまえが言うのかよ」と呆れて、皆守は仕方なしに「とりあえず砂浜までは行くか」と提案した。

 冬の海だが、決して無人と言うわけではなかった。駐車場ではドライブに来たのだろう真っ赤な外国車を見たし、砂浜では近所の人間が犬を散歩させていたり、小さな子どもを連れていたりする。カップルらしい姿も見かけた。

 そのぽつぽつとした人影の一つとして、皆守たちも砂浜まで降りる。風がびゅうびゅうと吹き付けて凍えるように寒く、皆守は運転するという言葉に甘えて防寒着を着て来なかった自分を呪った。

 阿門は平気な顔をして背筋を伸ばしている。「寒くないか」と聞くと、「寒いが、平気だ」と返ってきて、潮風に目を細める様子を見るにこの風すら楽しんでいるようだった。

 あの会話以来、阿門は吹っ切れたような顔をしている。なので皆守もそれに似たような顔を作る。

「少し、波打ち際を歩いてこよう」

 阿門がそう言うので、皆守は不意を突かれたように言葉が出てこなかった。

――意外だな、そういうの言うの」
「葉佩に影響されたのかもしれん」

 阿門は微笑んで皆守に背を向けて歩き出す。はしゃぎそうな葉佩のほうが静かに海を見ていた。

「どう? 海」

 ぽつりとした声は、風に紛れて聞き取り辛い。皆守が葉佩のほうへ顔を向けても、葉佩はずっと海を見たままだ。皆守も仕方なしに前を見つめる。黒いロングコートを着た阿門が、手をポケットに突っ込んでじっと波が寄せて返す様子を眺めている。

「どうって何だよ」
「きっかけは皆守だからさ。久しぶりに来てどう思った?」
「俺のせいにするなよ。別に、ああ海だなって」

 それから、それだけでは寂しいと思って付け足した。

「海は、憧れてばかりで現実に見るとなんとも思わない気がして――

 それが妙に悔しい。憧れに生きている宝探し屋を目の前にすると特に。

 ふっと口を噤んだ皆守に、今度は葉佩が口を開く。

――おれが昔、真面目で教師の覚えもいい優等生だったって言ったら、信じる?」

 皆守は葉佩のほうを向きたいという誘惑を堪えた。

「言っただろ。予防線を張らなくたっていい」
――まあ、これは本当の話。真面目で教師の覚えもよくて、それで滅茶苦茶退屈していたおれは、ついうっかりロゼッタ協会の存在を知って道を踏み外して、まだ道を踏み外した最中ってワケ」
「それで?」
「たぶん、皆守とおんなじ。宝探し屋が現実になると、また別の何かが眩しく見えるんだよな。それでずっと走り続けてる」
「どうして俺にそんなこと言うんだ?」
「でも、やってみないとそんなこともわからないし、実際やってみると、まあいいかって思えたりもする」

 葉佩が顔を動かした気配がして、皆守も輝く海面から目を逸らした。鼻と頬を真っ赤にした葉佩がこちらを見ている。

「おれの秘密。皆守が打ち明けてくれたから、これはおれの分」

 秘密、というのがどこまでかかっているのか、皆守にはわからなかった。昔の話なのか、宝探し屋になった理由なのか、それとも現状の鬱屈も含めた秘密なのか。それでも葉佩の打ち明けた言葉がそっと皆守の胸に沈み込む。

「そうか」
「聞かない方がよかった?」
「いいや――なんで秘密にしてたんだ?」

 葉佩がぱちりと瞬きをした。

「単純に言う機会がなかったのと、おれにとってはあんまりカッコよくない過去だから」
「そうか」

 皆守が再び海へ目をやると、葉佩も同じようにする気配がした。

 大切なものを失ったことがあるか。その問いかけに葉佩はわからないと答えた。――たぶんこれがその答えだ。

 もしかしたら、これが葉佩がしてくれた最大のことなのかもしれないとふと思った。

 葉佩はずっと道の途中にいる。憧れて、失望して、それでもまだ走って、そういう人生の只中にいると打ち明けてくれた。葉佩にとっては、ただ車に乗って移動するということが人生の営みに近い意味を持っているのかもしれない。葉佩はこれからも宝探し屋として世界を駆けるのだろう。例え憧れの化けの皮が剝がれて素っ気ない現実としての姿を現したとしても、そこに至る歩み一歩一歩に意味があると、その旅路が尊いのだと、葉佩は固く信じなければならない。

 まだそう言い切るだけの力を持たない皆守に、かつて息苦しかった過去の自分を見ていたのかもしれない。たぶんそれ以前に、そういう風に重ねてみてもらえるほどの情があるというのが。

 阿門にも、そういえば似ていると言われたのだったか。どちらも恐らく少しだけピントを外していて、それでもどちらもきっと正解だ。二人ともに気にかけてもらっていた。もしかしたら人間は自らの外に出ることはできないのかもしれない。どんなに遠くに行っても、どんな憧れに追いつこうと自分が自分でしかないように。誰しも自らの尺度を持ち、それで世界を測るのだ。皆守の知る限りの偉大さを持つ阿門や葉佩をもってしても。

 それなら――皆守も、今の自分でやっていく覚悟を決めなければいけないだろう。そうして世界を取り込んで、もっと厚みのある自分を作っていくのだ。

 そんな予感がふっとした。

おうちへ帰るまでが遠足です

 阿門が戻ってくるのを待って、三人で車に駆け込んだ。この場所を選んだ張本人の葉佩が寒い寒いと五月蠅く、皆守は車の暖房を目一杯上げる。

「コンビニ寄ろう」

 葉佩がそう言って、皆守が「ここのすぐ近くに一軒あっただろ」と答える。葉佩が悴んだ手でハンドルを握るのが気になったが、何とか安全運転でコンビニに駐車した。

「豚まん食べたい。おごるよ、何がいい?」

 カレーまん、と口を開こうとする前に阿門が首を傾げた。

「おすすめはあるか」
「エッ阿門は皆守とご飯食べたことないの!」

 葉佩が頓狂な叫びを上げる。阿門は何か問題でもあるのかと皆守を見るが、皆守はどう答えたものかわからず首を振った。

「ない」
「というか、なんだその言いぐさは」
「おれ皆守のおすすめ知ってるもん」

 どうぞとでもいうように葉佩が片目で笑う。こうも見透かされたように笑われると気恥ずかしいが、おすすめというなら一択だろう。

「カレーまんだな。外でも手軽にカレーを食べようという意欲、カレーを中華まんで包むという折衷的なアレンジ、どれをとっても勧めない理由がない」

 早口で言い切ると阿門は「皆守はカレーが好きなのか」と頷く。こうも率直に尋ねられると自分が子どもになったようだ。葉佩は自慢げに笑っている。

「皆守と飯を食ったやつはみんな知ってるよ」

 そうしてレジへ駈け込んで、サンタ帽の店員に「豚まんひとつと、カレーまんふたつください!」と元気よく注文するのを聞いた。

 三人が各々注文の品を片手に店の外へ出て、寒い寒いと言いながらまた車の中に駆け込む。三人で向かい合ってはふはふとまんじゅうを齧りながら、阿門はしみじみと言った。

「俺たちは、そういうことをすべきだっただろうか」
「どうかな。まあ、いまやっているし。これからもできるよ、生きていれば」

 阿門の感傷を知らぬふりをして葉佩は言う。

「どう? お味は」
「進化しているな。昔は定番の洋風カレーに近かったが、スパイスを生かそうという試みを感じる」

 阿門と葉佩が視線を交わして微笑むのが本当に気恥ずかしく、皆守は食べ終わった包み紙を葉佩に向かって投げつけた。葉佩は軽々とそれをキャッチして自分のゴミごと皆守に投げ返す。

「さて、おうちに帰るまでが遠足です」

遠足でない日々

 帰り道は、遺跡での戦いの疲れもあってよく覚えていなかった。どうでもいい話ばかりをしていた気もするが、それもだんだんと間遠くなり、皆守が最後に聞いたのは目を閉じる前、「皆守も寝てていいよ」のあとの小さな言葉だ。

「あのさ、二人とも免許取りなよ。普通免許でも、原付でも二輪でもいいから。本当に簡単に、どこにだって行けるってわかるから」

 そうする、ときちんと答えられただろうか。残念ながら、皆守の次の記憶は學園で待ち受けていた墓守一同に土産話を迫られる思い出だった。それが葉佩との約束の一部だったのだろう。あまり話し上手でない二人が狼狽えている間に葉佩は學園を去って、いまの皆守の手元にある土産物と言えばぴかぴかのグリーンの帯の運転免許証だけだ。

 しかし、それがあればどこにでも行ける。誰にでも、会いに行けた。